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一二七話

 待ち合わせは爽花の方が早かった。喫茶店の壁に寄りかかるように立っていると慧が走ってきた。なぜか表情が固く感じた。

「ごめん。遅くなって……」

「あたしも今来たところだよ」

 笑ったがぎこちなく、慧にはどう映ったのか怖くなった。ただでさえ老婆と化したため醜さは隠せない。

「さっそく入ろうか」

 声をかけられたが、爽花はぼんやりと空を眺めていた。セルリアンブルーの空。瑠に教えてもらわなかったら名前も知らなかった。きっと瑠もどこかでこの空を眺めていたらいい。繊細で色鮮やかで派手でも地味でもない絵が心に浮かび、涙がぽろりとこぼれ落ちた。

「爽花、どうして泣いてるんだ」

 その質問も耳に入らなかった。楽しかったアトリエでのひとときと、瑠と二人きりでいたことが嬉しくて、またそれを失ってからの切なさが胸に広がる。こんなに素敵な作品を描けたらと、ひたすら丸ばかり描く日もあった。綺麗な作品を瑠に見てもらい、「よく頑張った」「また次の絵も期待しているぞ」そんな優しい瑠の言葉が聞きたかった。いろんな出来事が狭いアトリエの中で起き、そして水の泡のように一瞬で消え失せた。

「爽花」

 ぐいっと腕を掴まれ、ようやく我に返った。

「えっ? どうしたの?」

「喫茶店に入ろうって言ったんだ。ぼけっとしないで俺の話聞いてくれ」

「ああ……。うん……」

 曖昧に頷くと、不機嫌な表情で慧は喫茶店のドアを引いた。

 おしゃべりはいつも通り慧ばかり口を開いた。爽花は相槌を打つのみで、視線はほとんど窓の外のセルリアンブルーだ。うわの空でどうしても慧の声が記憶にも心にも残らない。「爽花、聞いてるのか?」「うん。聞いてるよ」というやりとりが何度もあった。こうしてお茶を飲むより公園のベンチで空を見上げている方が清々しくて心地いい。だが自然の美しさをくだらない面白くないと馬鹿にして、その上爽花が自然に触れないように邪魔をする。爽花と慧は合わない。相性が悪い事実に慧も多分わかっている。けれど瑠がどこかに消えてしまったせいで、もし別れたら爽花は独りぼっちになるのも不安で、お互いに我慢するしかないのだ。

 五時の鐘が鳴り、帰ろうと言われ立ち上がった。道を歩いていると、いつだったか慧に強く抱き締められキスをされた星が輝く場所に着いた。あの頃はまだ瑠ともそばにいられて自由な生活だった。

「ロマンチック……」

 うっとりと呟くと、慧は今度は優しく抱き締めた。そして唇を重ねようと顔を近づけていく。慌てながらも爽花も目を閉じてキスを待った。だが無意識に囁いていた。禁句としていた瑠の名前だ。

「瑠……。会いたい……」

 はっと驚いて慧は後ずさった。爽花も冷や汗が噴き出し首を横に振った。

「ち、違うよ。瑠なんかとっくに……」

 忘れてる。瑠と過ごした日々も全て消えうせて、慧との交際しか頭にない。あたしは慧と幸せになるの、という言葉が続けられなかった。自分に嘘をつけなかった。また疑われわがままをぶつけられると怖くなった。慧は感情の起伏が激しくて、愛している爽花まで平気で傷つける性格なのだ。

「ごめんね。今のはちょっとした独り言。本当はこんなこと一切考えてないよ」

 誤魔化して苦笑すると、慧は睨むのではなく俯いた。はあ、とため息を吐き低い声で囁いた。

「もう……いいんだ……」

「えっ? もういいって?」

 少し顔を上げた慧の瞳は涙で潤んでいた。心臓が跳ね緊張でいっぱいになった。

「どうして泣いてるの? 悲しいことでも」

「もういい。これ以上爽花をストレスまみれにしちゃだめなんだ。俺はだめ人間だ」

「慧は全然だめ人間じゃないよ。どういう意味なの? しっかりして」

「俺は爽花を幸せにできない。努力しても酷い目に遭わせるんだ。幸せにできるのはあいつだ」

 どくんと大きな音が胸に響いた。

「あいつって……瑠?」

 ごしごしと手の甲で涙を拭いながら、慧はもう一度呟いた。

「ごめん。諦める。爽花の彼氏は瑠の方だ。瑠しか爽花を笑顔にできないんだ」

「ま、待ってよ。あたしの彼氏が瑠なわけないでしょ。嫌われてるんだよ? 興味もないし信用だってされてないよ。しかも喧嘩別れして二度と会えなくなったのに」

「だけど瑠に会いたいって願ってるだろ」

 返す言葉がなく黙るしかなかった。慧はさらに続けた。

「……爽花が本気で惚れてるのは瑠だ。俺はただそっくりに作られた人形。人間と人形は愛し合えないよな。ずっと一緒にいたけど好きなものは違うしセルリアンブルーとか絵がどうだとか、たくさん話してきたじゃないか。セルリアンブルーはあいつのお気に入りの色だ。つまり爽花の心には瑠が残っている。忘れるなんて絶対にできない」

 当たっているだけに反論できず、足から力が抜けていった。爽花は瑠を忘れられない。アトリエも美しい絵も孤独な瑠の空しい想いも全部覚えている。瑠しか癒してくれる存在はいない。

「何も言えないだろ。俺はセルリアンブルーなんか好きでもないし綺麗だとも感じないよ。だけどいつもセルリアンブルーって必ず言うから、やっぱり俺じゃないんだ……って」

「……確かに瑠は未だに残ってるよ。でも向こうはあたしを邪魔扱いしてて酷い悪口叩いたんだよ。冷たく別れを伝えてきたんだよ」

 いいや、と慧は首を横に振った。もう涙は消え真剣な眼差しに変わっていた。

「失礼でイラっとするけど、よく考えると俺たちはもうすぐ高校卒業するだろ。もちろん瑠もアトリエから出て行かなくちゃいけない。いつかは別れる時が来るのは決まってたんだよ。酷い悪口も、爽花を怒鳴らせて二度とアトリエに来させないようにするため。爽花はちょっとやそっとじゃ離れないだろ。高校だけじゃなくて、アトリエも卒業しろって意味だね」

 そこで一旦口を閉じ、少し驚いた口調でもう一度話した。

「そうか。瑠が我慢してたのって爽花の裸だったんだな」

「えっ? は、裸?」

 驚いて少し声が大きくなった。裸とはどういう意味なのか。

「人物デッサンだよ。あいつは花や風景ばっかりで人間や生き物を描いてないんだ。だから人物デッサンしたい。でも友人はゼロだから爽花に頼むしかない。かといって高校生で女の子の爽花が素直に服を脱ぐわけないし、たとえデッサンとしても一糸まとわぬ姿を見せたのは事実で、後で俺にバレて泣くかもしれないから頼めなかったんだよ」

 瑠が「お前はそういうの嫌だよな」と聞いてきたのも、制服を脱がそうとしたのも人物デッサンのためかと初めて知った。油絵は想像して描くものではないのだ。しかし結局デッサンはできずそのまま離れ離れになった。

「それに、デッサン以外のこともしたら? 女の子が嫌いでも体は大人なんだ。アトリエに二度と来るなって突き放したのは、そうやって距離を置かないと爽花におかしなことをするかもしれないって怖かったからだろう。俺は結婚しない、子供も作らないって気持ちだね」

「そ……んな……」

 一生孤独の瑠が哀れすぎる。もし慧の子供が産まれても伯父にもなれない。どこにも誰にも瑠は繋がれないという運命が空しすぎる。

「冷たい態度で頭に来るけど、よくよく考えたらあいつってけっこう思いやりがあったりするんだよな。喧嘩しても絶対に暴力を振るわないし、相手の宝物を壊したりしない。ライバルで大嫌いだけど、優しさがどこかに隠れてるのは認めてるよ。俺は、こうやってストレスでいっぱいだっていう爽花にわがまま言って、誰にも奪われたくないって無理矢理彼女にさせてるような酷い奴だ。そういう点でも俺は負けてるんだ」

 やはり血の繋がった兄弟だと感じた。悪魔呼ばわりしているのは爽花の前でだけなのかもしれない。本当は双子の兄と、きちんと呼んでいるのかもしれない。

「うん……。あたしも瑠の優しい気持ちはよく知ってる。アトリエに自由に出入りさせてくれたり、絵をプレゼントしてくれたり……。瑠の心はとっても美しくて薔薇のように高貴でセルリアンブルーみたいに純粋なんだよね。だから素晴らしい作品を生み出せるんだもん」

「そうだね。……悔しいけど……」

 瑠は特別な力を持っている。光り輝く心が瑠の特別な力だ。パッと見では暗くてとっつきにくくて頑固で関わりたくない性格かもしれないが、爽花の中の瑠は全く違った姿なのだ。



「瑠があたしに惚れてるって、どうしてわかったの?」

 質問すると慧は即答した。

「爽花と離れ離れになってから、あいつ絵を描かないんだよ。毎日ぼうっとしてて声をかけても反応なしだよ。単に無視してるんじゃなくて、完全に心ここにあらずでさ」

「心ここにあらず?」

 初めて聞いた言葉だ。慧は頷いて意味を教えてくれた。

「どこか遠くに気持ちが行って、現在するべき行動がとれないってこと。瑠に気持ちが行ってて俺の彼女になれないってことだよ」

 とてもわかりやすい例えでありがたかった。

「……じゃあ、あたしも心ここにあらず状態だったんだね」

「そう。母さんが心配して、瑠にどうして絵を描かないのかって理由を聞いたら、誰にも見てもらえないなら無駄だろうって答えたらしいよ。褒めてくれて喜んでくれて応援してくれる人がいるから描いてたってことだよ。それって爽花だろ?」

 まさか瑠が爽花の笑顔のために描いていたとは夢にも思わなかった。まさに亡くなった先生と妻の恋愛と同じだ。

「わかるだろ。あいつも爽花に惚れてる。爽花とあいつは両想いだって。花のキャンバスは告白だったのかもね。俺が粉々に壊したけど」

「……それなら、アトリエ立ち入り禁止にしたのは? 好きな子に会いたくないって普通は考えないでしょ?」

「身を引いたんだよ。爽花が悩まないよう素っ気ない態度をとって、俺はいいから慧とだけ仲良くしろってね。とりあえず自分がいなくなれば爽花は幸せになれる。瑠の優しさだよ」

 瑠にまで愛していると告げられたら爽花は板挟みで苦しむが、瑠が消えれば自然に爽花は慧の恋人になる。慧は心の底から爽花を大事に想っているからちょうどいい。とにかく爽花を悲しまない方法を考えてうまく行くよう離れた。だが狂ってしまったのは、爽花が瑠の方に惹かれたからだ。ほったらかしにすればいいのに瑠が孤独でいるのを心配し、また繋がりたいと必死に願ってしまった。そのせいでストレスまみれの消えてなくなりたい地獄に堕とされる羽目になった。

「あいつ、常に爽花を手を伸ばせばすぐ届く位置に座らせてただろ。そうすれば俺に奪われないって。アトリエにいれば二人きりで誰にも邪魔されず過ごせる。それに特に用がなくても爽花がいるかもしれないって期待してアトリエに行ってたんじゃないかな。だって、絵を描くだけなら家でもいいだろ? わざわざ外に重い荷物持って出かけるなんて面倒だし、あそこに通ってたのは爽花に会いたいって気持ちだよ」

 その瞬間、ずっと流せずにいた涙がぼろぼろとこぼれ落ちた。瑠が愛しい。瑠のそばにいたい。瑠の恋人になりたい。そして慧は優しくその涙を拭ってくれる。

「性格は正反対なのに、双子だから好きな女の子のタイプは似るんだな。俺も爽花が大好きで堪らないよ。だけど爽花が瑠を忘れられないなら諦めるよ。もういい。充分爽花とのお付き合い楽しんだよ。最初から、あいつには勝てないって知ってるしな」

 慧は瑠にだけは勝てない。恋愛においても負けてしまった。

「ごめん……。ごめんね……」

「いいんだよ。爽花は何も悪いことしてないよ」

 そっと髪に触れて「もう別れよう」という慧の言葉が胸に届き響いた。

「今までありがとう……。本当にありがとう」

 ぎゅっと抱き付くと慧も抱き締めてくれた。耳元で囁きが聞こえた。

「泣かなくてもいいよ。いつでも簡単に会えるだろ。奪われたのがあいつでよかったよ。他の男だったら関係は切れちゃうけど、双子の兄だからね」

 はっと目を丸くした。二度と会えないわけではない。すぐ近くにいて、いつでも会って仲良く過ごせる。寂しさも空しさもない。みんなが笑顔になるというアリアの願いも叶う。最高の喜びと愛が全員に降りかかるのだ。

「そっか。ようやく幸せになれるんだね」

「うん。まるで天国みたいだ」

 天国という言葉で、ふと神様はいると確信した。神様はきちんと存在している。爽花が出会ったのは拾う神様だったようだ。明るい未来が爽花たちを待っているのだ。


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