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一二六話

「セルリアンブルーなんか無視するぞ」

 ぱんぱんと頬を叩き、自分に言い聞かせた。演技ができないなら瑠との日々を忘れるしかない。全て記憶から消して、現在の慧との交際を楽しむ。慧も心配や嫉妬などせず爽花と接することができる。本当は忘れたくない。水の泡となってしまったが、胸の奥に浮かばせておきたい。たとえ無駄な時間を過ごしたとしても、やはり思い出には残したいものだ。けれど慧の彼女になることを選んだのだから、愛し合うのはこの人と決めたのだから、きちんと慧に寄り添う使命を果たさないといけない。そもそも瑠と別れた原因は爽花が逆上したせいだ。二度とこんな場所に来ない。頑固でどうしようもない男と付き合っていられないと爽花が突き放したから、こうして瑠だけでなく自然にも触れ合えなくなったのだ。爽花が悪いのに、瑠や慧を恨んではいけない。だが、あの酷い言われようで黙っていられる人などいないだろう。妄想好き、救いようのない馬鹿でだめな女、邪魔で興味もゼロ……。爽花が頑張ってきたことを罵り怒鳴った。なぜあそこまで爽花を嫌っていたのか。いきなりアトリエ立ち入り禁止なんかあんまりではないか。爽花には少しずつ距離が縮むという期待があったのに、一瞬で関係は途切れ戻れなくなった。今、瑠はどこで何をしているのかほんの少しでも知りたい。慧は知っているはずだが、聞いたら確実に疑われる。もう怖い目には遭いたくない。

 デートに誘われ、おしゃれな服を探してクローゼットを覗くと、袋で覆われた四角いものが出てきた。

「いいんだ。もう諦めたんだから」

 ぶんぶんと首を横に振って、勢いよくクローゼットの扉を閉めた。捨てはしないが、この袋の中に何が隠れているのか考えないようにした。

 待ち合わせに向かい、ぼんやりと空を眺めるとセルリアンブルーが広がっていた。瑠もセルリアンブルーは特別な青と感じていたのは驚いた。外見は暗いが、心は清く純粋で爽やか。だから綺麗な絵が描ける。爽花がセルリアンブルーの空を美しいと言ったら、慧はただの青空で感動なんか一つもないと答えた。つまり慧はセルリアンブルーの良さをちっとも理解していないのだ。別に普通でおかしくはないが、爽花には合わない。自然を愛せない人とは仲良くなれない。

「爽花、遅れてごめん」

 慧が慌てて駆け寄ってきた。はっと瑠の名前や姿を消し我に返った。嘘がバレないようにっこりと微笑んで穏やかに答えた。

「いいよ。あたしも来たばっかり」

「そうか。それならいいんだけど」

 ははは、と苦笑する慧の顔を真っ直ぐ見られなかった。慧は瑠にそっくりなため、どうしても瑠の姿が頭に浮かぶ。早く忘れたいのに時間がかかる。瑠と話したこと、二人きりのアトリエ、色鮮やかな花。爽花の癒しだったのにどこかへ行ってしまった。

「爽花? どうかしたの? ぼうっとしてるけど……」

「何でもない。気にしないで」

 目を逸らしはっきりと言うと、慧は黙って頷いた。少し半信半疑のような表情がちらりと見えた。

 とにかく、瑠はすっかり忘れて赤の他人だと考えていると示すのが一番だ。間違った発言をしたら危ないと、だんだん爽花は口を開かなくなった。慧ばかり話し爽花は軽く相槌を打つのみで、プライベートな内容は避けて大学受験についてだ。勉強など楽しくないため、次第に笑顔も減りニコリともしなくなった。無表情の爽花に、慧はわがままと不満をぶつけた。

「どうしてにこにこしないんだ。俺と一緒にいても面白くないってことか?」

「ち、違うよ。そういうわけじゃなくて……」

「じゃあどういうわけか詳しく教えてくれよ。爽花が喜んだらいいなってデートスポットも喫茶店も映画も選んでるのに、無表情じゃショックだよ」

 慧の残念な気持ちはわかるが、楽しんでいる芝居も辛いのだ。むしろ罪悪感で堪らなくなり、自己嫌悪に陥りそうだ。マンネリ化していく慧との関係に、心も体もぐったりと重くなる。イライラしても仕返しをされるので怒鳴ったり反論したりもできなかった。素の爽花は瑠にしか見せられない。頭も胸も瑠で溢れかえり、予想していた悪循環が起きてしまった。ストレスを浴びせられる度に瑠に癒されたい。一度でいいから会ってきちんと謝り、喧嘩のままでいたくないと願って、やがて慧にその想いが届く。そして慧は恋人になっても瑠に嫉妬して爽花を傷付ける。この叶わない祈りをバラさずに隠し通すのも地獄だ。爽花と同じように、イチジクの花束の花も萎れていった。まるで爽花の苦しみを表すかのように枯れて色も濁った。贈り物のため捨てるわけにもいかずクローゼットにしまった。視界に映るとイチジクの泣き声が耳から聞こえてくる。基本的に休日は部屋でぼんやりとして食事も適当に摂った。栄養不足のせいで歩くのも遅い。ある夜風呂に入ろうとして洗面所の鏡で全身を見た時に、あまりの醜さに愕然とした。老婆みたいで肌は土気色だし痩せて髪も乱れている。

「う……嘘でしょ……。あたしこんなに汚くなってたの……?」

 冷や汗が噴き出しがくがくと震えた。この状態で慧に会っていたのかと衝撃を受けた。気味の悪い老婆とデートをしていた慧が哀れになった。

「やだ……。どうしよう……」

 足の力が抜け床に座り込んだ。どんなに風呂で磨いても、この醜い姿は洗い落とせない。

「いつから……こんな……」

 はっきりと答えは見つかった。慧の態度でストレスが溜まり始めた頃からだ。だんだん笑えなくなっておしゃべりもしなくなって、したくもない演技をして耐えている。散々痛めつけられ、本当はもっと気楽な交際をしたいのに瑠の名前を言ったらと緊張して怯えて逃げてばかりだ。瑠に触れたいと体が求めている。油絵もアトリエも大切な宝物だ。それを失ったのだから醜く歪むのは当然だ。慧の彼女として頑張ってはいるが、そろそろ限界に達してきている。爽花に必要なのは慧ではなくて瑠。愛してくれる人より癒してくれる人の方が大事だったのだ。けれどもう離れ離れになったし、喧嘩別れだから許してくれない。謝るために一度でいいから再会も却下だ。

「瑠と離れたらこんな姿になるなんて……」

 馬鹿でドジな性格が嫌で嫌で堪らない。あの日にどうか戻ってほしいが無理だ。亡くなった先生と最後の挨拶をしたいと思ってもできないのと同じだ。誰も後ろを振り向いて歩けない。前に進む術しか持っていないのだ。だから後悔先に立たずという言葉があるのだ。がっくりと項垂れ、これが夢だったらどんなにいいか嘆いた。

「消えて……なくなりたい……」

 瑠に二度と会えないなら死んだ方がマシだ。慧と素敵なカップルでいられる未来も浮かばない。先生が妻を亡くし、瑠が先生を亡くした時の気持ちが伝わった。二人には立ち直れる方法があったが爽花には何もない。このままストレスまみれの生活を送っていく。なぜ最後の最後まで瑠を追いかけなかったのか。突き放してしまったのか。へこんだキャンバスを取り出し、ぎゅっと抱き締めた。これさえあれば瑠と繋がっていられる。ほんの少しでもそばにいられる感じがした。

「どこにいるの……? 瑠……」

 呟くと、涙の雫がぽろりと落ちた。



 そうして何日か経ったある日、夜遅くに携帯が鳴った。ゆっくりと「はい」と言うと、慧の声が耳に飛んできた。

「明日、お茶飲まないか? 一時間でも……。いや、三十分でもいいから」

「えっ? 受験が迫ってるからって、喫茶店には行かないって約束したよね?」

 慧がそう決めたのだ。ただでさえ頭がよくない爽花のために、心を鬼にして厳しく話した。もちろん爽花もそのつもりだったのですぐに頷いた。さらに、慧のとなりに立っているのも辛かった。綺麗な慧が醜い爽花を連れて歩いていたら、周りにじろじろと見られて苦痛で仕方ない。クラスメイトに「水無瀬の彼女は酷く歪んだ老婆なんだな」などと馬鹿にされていたら……。

「ごめんね」

 無意識に口から漏れていた。驚いた口調で慧は聞いた。

「ごめん?」

「いや、だって、あたしおばあちゃんじゃない。汚いおばあちゃん。あたしとおしゃべりするの悲しいでしょ」

「どこがおばあちゃんなんだ? 爽花は可愛いよ。妄想しないで」

「でも……」

「いきなりおかしなこと言われるとびっくりするよ。変な話はしないで」

「うん……。ごめんね」

「いいよ。さっきの話に戻るけど、明日お茶飲まないか? 一日くらいサボったって受験には影響しないし、毎日勉強じゃ疲れちゃうだろ。息抜きも必要だよ。それとも何か用事が……」

「用事はないよ。大丈夫。……息抜きか。それもそうだね。休みも入れなきゃやってられないよね。じゃあお昼に、いつもの喫茶店で飲もう」

「わかった。楽しみにしてる」

 あたしも、と返事をする前に一方的に切られてしまった。慧の声がやけに固くて、普通のお茶会ではないと感じた。とても重大な話をするつもりなのかと予想し、拳を作って握り締めた。


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