一二五話
とりあえず、瑠が心に浮かんでいると慧にバレないように演技した。ドジで自信はなかったが、瑠などすっかり忘れて慧しか胸にないと示した。どれほど祈っても叶わない願いだと諦めて、慧の立派な彼女になろうと努力した。素敵なカップルと羨ましがられる二人になろうと積極的に付き合った。面白くない映画もおいしくないお茶もつまらないおしゃべりも、にこにこと微笑んで大人に生まれ変わる。もちろんメイクもして、慧に泥を塗らないように気を付けた。瑠に会う時はこんなおしゃれなどしなくてよかったと、高い化粧品を買うたびに悔しくなった。ストレスで破裂しそうになっても穏やかに笑い、周りから仲良しだと見せつけた。瑠への気持ちはずっと秘密にしておけばいい。癒してくれるのは瑠の方だと口から漏らさなければ問題ない。瑠に会いたい。瑠に癒されたい。瑠と二人きりになりたい……。全て黙って我慢だ。
「大学卒業してから結婚する?」
聞いてみると、慧は首を傾げた。
「いつでもいいよ。俺は」
「じゃあ成人してからってことにしよう。十代は早いもんね。二人暮らしも大人になってからだよね」
ふと成人した瑠の姿を想像した。すでに大人っぽくかなりの美形な瑠が、これ以上磨かれたらどうなるのだろう。どきりと心臓が跳ねたが、すぐに会えなくなったという厳しい現実が襲いかかってきた。実際には見られず想像するだけなのは空しい。
「結婚したら、必ず子供産んでくれるよね?」
次は慧から質問だ。こくりと頷き、弱々しく答えた。
「うん。頑張る……」
「頼むよ。俺が欲しいのは爽花だけじゃないんだ」
以前、俺にはほしいものが二つあると話していた。一つは爽花。もう一つは、爽花と作った愛の結晶だ。可愛い我が子を抱き締めたら、もっと幸せは満ち溢れる。同時にある不安も浮かんだ。慧と瑠は血の繋がった兄弟だから、瑠は子供の伯父となる。子供が成長して「伯父さんに会いたい」と言ってきたら、どうやって誤魔化せばいいのか。大事な子供に嘘をつくのは絶対にしたくない。かといって二度と会えないんだと素直に教えたら悲しむはずだ。
「俺には双子の兄なんかいないっていう設定にしてるから、子供に伯父に会いたいって言われる心配はないよ」
まるで爽花の心を見透かしたかのように慧が言った。
「えっ?」
「最初から、俺は一人っ子って思われてるだろ。誰もあいつのこと知らない。俺もわざわざいるなんて話すつもりはないし。父さんも母さんも、俺の子には瑠を会わせないようにって決めてるんだ」
「ちょっと、それはあんまりだよ。いくら瑠でも甥っ子や姪っ子に伯父さんって呼んでもらいたいはずだよ。嬉しいでしょ?」
「いいや。あいつは可愛がるどころか冷たい態度で泣かせるよ。他人と付き合うのが嫌いなんだから。そもそも爽花だって喧嘩別れしたんだろ。今さら合わせる顔あるのか?」
確かに瑠に会ったら、この秘めた想いをバラしてしまう。嫌われてもいいからと、また追いかけるに違いない。そんな爽花に向けられるのは白い目だ。ずっと演技していたこと、瑠との秘密がごろごろとあること、王子様を裏切ったこと。どれも許されない罪だ。
「早く爽花と結婚したいなあ。夢が叶って嬉しいよ。祈れば願いって叶うんだね」
しかし爽花は頷けなかった。孤独にならないように祈ったのに結局、瑠は孤独の世界に行ってしまった。叶わない願いだってある。子供が産まれても伯父と呼ばれないのは酷すぎる。爽花には考えられない行為だ。アリアも潤一も賛成しているようだが信じられない。嘘をついているような気がする。
「出産は痛くて大変だけど爽花は乗り越えられるよ。俺にできることは何でもするから」
「うん。ありがとう……」
抑揚のない口調で感謝を告げると、慧はなぜか目を逸らした。
瑠は孤独のままで二度と再会できない。喧嘩別れで最もよくない離れ方をしてしまった。ストレスで辛くても慧の彼女を演じて、いつか妻になる。爽花の人生は、瑠を心に浮かべながら慧と愛し合うものだったと改めてショックを受けた。
「……ずっと一緒にいようね」
ぎゅっと手を握ると、慧も大きく頷いた。
最初は難しかったが二カ月もすると演技に慣れて慧も優しくなった。勉強したりデートしたりしていても瑠の姿は現れない。うまくいけば完全に胸から消えるかもしれない。そうすれば慧と素直に愛し合える。不安な気持ちが安定し始めて、さらに仲が良くなった感じだ。しかしある日、たまたまクローゼットの奥を覗いてへこんだキャンバスを見つけた。埃まみれで灰色になったキャンバス。瑠が渡してくれた、最初で最後のプレゼント。睡眠もとらず爽花のためにこの絵を描いてくれた。なぜ突然瑠の方から近づこうとしたのか。このキャンバスには、どんな意味が込められていたのか未だにわからずじまいだ。
「そういえば……」
瑠は先生の真似をして、好きな人に花束を贈ると言っていた。最高の喜びと愛を与えてくれる人に、花の絵のキャンバスを贈ると確かに言った。本当に本当に愛し、離れたくないという運命の人に……。
「……まさかね。あたしには興味ないし、信頼してないし、邪魔だって怒鳴ってたし、二度と会いたくないって言ってきたんだもん……」
ただの気まぐれだ。特に意味もなく、何となく渡してみただけだ。奇跡でも起きない限り、瑠が爽花を想うことはない。けれど先生は、作品を褒めて応援してくれたという理由で結ばれた。ただとなりに座っているだけでも愛は芽生える。瑠のとなりに座って絵を褒めて応援したのは爽花だ。アトリエに自由に出入りできたのも、鍵を外して部屋に入れてもらえたのも爽花。瑠を放っておかず、表舞台に立たせようとしたのも……。
「やめてよ。あたしは瑠とは無関係で他人なんだから。頑固でとっつきにくい男を好きになる女の子なんかいないもん。そこまで馬鹿じゃない」
首を横に振ってキャンバスを奥に押し込んだ。安定していた心が、また不安になってしまった。消えてなくなりたい地獄に堕ちそうで、冷や汗が流れる。嫌な予感がして深呼吸ばかり繰り返す。やがて慧の顔を真っ直ぐ見られなくなった。双子でそっくりなため秘密がバレるのではと怖くなった。仮病を使って早退したり休んだりして、話しかけられる機会を減らした。デートも「勉強で忙しい」という理由で断り続けた。「なら一緒に勉強しよう」と慧も言い返すが、黙ったまま一方的に電話を切ってしまう。勉強も人間関係もストレスと疲れでぱんぱんに膨れている爽花を傷めつけた。二人の男子がいてどちらかと付き合わなくてはいけなくなったらカンナはどちらかを捨ててもう片方の男子と付き合うと答えたが、爽花は違っていた。そうではなく、どちらとも付き合わずに瑠みたいに独りぼっちでいるのを選ぶべきだった。愛してくれる人も癒してくれる人も手放したくないなら、はっきりと決めず曖昧な状態でいた方がいい。
「あたしって、失敗ばっかりだ……」
どうしようもない救いようのない馬鹿でだめな女だ。何度嘆いても終わったことは戻らない。
「いいんだ。慧に可愛がってもらえば充分だもん。あたしは慧と生きて幸せになるんだ」
強く自分に言い聞かせて、ぐっと拳を作った。へこんだキャンバスは袋を被せて、さらに奥にしまいこんだ。捨てたら後悔すると考えた。瑠は墨だらけの先生のスケッチブックを捨てて完全に孤独になってしまった。それだけは爽花には耐えられないことだった。アパートに慧が来る時は特にバレないように気を付けた。いつまでも大事に持っていたら慧に睨まれるだろう。いちいちキャンバスがあるか質問はしないと思ったが、しっかりと注意した方がいい。心の底で瑠を想い、普段は慧だけを見る。黙っていれば秘密のままでいられる。
問題なく日々を過ごして、にっこりと笑っていたある日、突然慧がじろりと聞いてきた。
「爽花が好きなのって、俺だけだよな?」
ぎくりとし、ぎこちなく答えた。
「どういうこと? 慧しかいないよ」
「本当か?」
「だって、好きだから恋人同士になったんでしょ? おかしな話しないで」
「……そっか。それならいいんだ」
弱々しく俯く慧に、爽花は驚きが隠せなかった。
「なに暗くなってるの? どうかしたの?」
「いや……。最近、爽花が全然俺の顔見てくれないだろ。それって……もしかして……」
さらにぎくりと心臓が跳ねて、作り笑いをして即答した。
「ご、ごめん。無意識に見てなかったってだけ。特に意味はないよ」
瑠と慧は瓜二つの双子なので、どうしても瑠が蘇って来る。そして秘密が漏れそうになる。
「正直に言ってくれ。俺の他に一緒にいたい奴がいるのか? 誰にも邪魔されない場所で二人きりになりたい奴が。怒らないから教えてくれ」
「あたし、慧と付き合ってるんだよ? 一緒にいたい人がいるなんて浮気じゃない。あたしそんなことする性格じゃないよ」
「そうだね。浮気だ。でもまだ結婚してないし、いくらでも相手を交換できるだろ」
足の先から凍り付いていった。がくがくと全身が小刻みに震える。
「慧……。ちょっと待って……」
「となりに座って、褒めたり応援したりすると愛情が芽生えるらしいね。俺は、褒められたけど応援はされてないよね。爽花には、助けて護ってあげたい奴がいるんじゃないのか?」
緊張の糸でがんじがらめになった。恋人になってもまだ爽花を傷付けるのか。
「どうして、そんな妄想するの? あたしは慧を愛してるんだよ。信じてよ」
焦りながらも即答すると、慧は半信半疑の表情に変わった。瞳には嫉妬の炎が宿っていた。
「俺の彼女になって後悔してるんじゃないのか? そばにいるのが辛いんだろ。結婚したら、やっぱりあっちがいいって替えられないんだぞ。俺で幸せになれるのか? 爽花を癒すのは……俺なのか?」
重く低い声に冷や汗が噴き出した。まるで心を見透かしているみたいだ。
「こ……後悔なんか……」
それ以上続けられなかった。黙ると慧は薄く笑った。
「嘘や誤魔化しは禁止だからね。秘密を作ったらだめだよ。約束だよ」
まさか全部バレているのか。いつも頭の隅に必ず瑠がいることも、瑠に再会したいという願いも知っているのか。すたすたと歩いて行く慧の背中をびくびくしながら眺めた。怖くて怖くて、演技をする余裕がなくなった。また食い違いだらけの交際に逆戻りし、優しいはずの慧にイライラしてストレスが増す。自然なんかくだらない、つまらない、面白くない、どうでもいい。美しい自然を罵るのに反論できず「そうだね」と頷かなくてはいけない。瑠はきっとこんな酷いことは言わない。むしろ花や空や風景を素晴らしい絵にしてくれる。狭い檻に閉じ込められ消えてなくなりたい地獄に堕とされても、慧の顔に泥を塗らないよう笑わなくてはいけないのだ。