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一二四話

 爽花が自然に触れようとすると、慧はじろりと見つめてきた。「あの風景、絵になるよね」「あれが描けたらなあ」など話すたび、「写真でいい」「爽花が喜ぶ理由がわからない」と冷たく返し、同じ気持ちにならない。お互いの心が一致して、「そうだね」と頷くことはほぼなかった。慧の態度に爽花はいちいち振り回され息が詰まった。自然なんかくだらない、つまらない、面白くない、どうでもいい。そう感じないのに仕方なく慧の言う通りと我慢するばかりで、ストレスが溜まっていく。なぜ自然を美しいと考えないのか。爽花の想いを大事にしてくれないのか。幼い頃から宝物だった爽やかで心地よい自然が、慧の言葉で汚されていくみたいだ。不機嫌になると暴れる性格と知っているため、反論はできない。どんな仕返しが飛んでくるか怖い。素の爽花ではなく演じている爽花しか慧は愛さない。

 自然は、何も綺麗に咲く花や手入れのなっている庭だけではなく、公園に生えている雑草にさえ足が止まる。自然に囲まれているから人間は生きていける。感動はもちろん、ありがたい大切な存在だ。昔から人間も動物も自然に助けられて護られている。普通にあるものと勘違いしてはいけない。家族と一緒に生活しているのと同じだ。以前、爽花は夏休みに実家に戻ったが、とても暖かく癒された。いつか消えてしまう家族との団らんは、しっかりと胸に刻んでおかなくてはいけない。

 だが、その爽花を慧はじっと睨む。じんわりと自然に癒されている爽花を見たくないのだ。自然と触れ合い喜んでいる姿が気に障る。イライラして、もしかしたら瑠が頭に浮かんでいるのかもしれない。つまり爽花と慧は気が合わないのだ。合わないどころか、正反対で通う部分がない。一緒に映画を観に行っても少しも面白くなかった。絶対に泣けるラブストーリーらしいが、爽花の記憶には一つも残らなかった。こんな作り話を観るより、空や花を見た方が楽しい。映画館から出ると、慧から感想を聞かれた。

「あのキスシーン、ロマンチックだったな。ちょっと切なくて。爽花はどうだった?」

「ああ……。うん、よかったよ」

「ラスト、俺泣いちゃった。男なのに笑っちゃうだろ。爽花は?」

「……うん。よかったよね」

 適当な返事に、慧は不快な表情になった。

「ちゃんと感想教えてくれよ。うんとかああとかじゃなくて」

「ご……ごめん。あたし寝ちゃったの」

 慌てて誤魔化すと、慧は驚いた口調で言い返した。

「せっかく誘ったのに寝た? デートで寝るなんて……」

「だ、だって、眠くなったんだもん。しょうがないでしょ? あたしも最後まで観たかったんだよ」

「なら、今からもう一回観よう」

「いいよ。今日はもう……。帰ろうよ……」

 掠れた声で伝えると、ふん、と横を向いて慧はすたすたと歩いて行った。嘘がバレているのかと冷や冷やしながら、黙って爽花もついて行った。そんな毎日を繰り返し、やがて慧の行動が明らかに変わった。常に喫茶店に入り浸って外に出ない、セルリアンブルーの日ではなく雨の日にデートに誘う。こうして爽花の目に映るのは自分だけにして束縛する。圧迫された空間ではストレスを解消できない。イライラが募り、関係のないカンナにも八つ当たりした。話しかけられて「うるさい、こっちに来ないで」と怒鳴ってしまった。そのせいでカンナも爽花に近付かず友情に溝ができ、廊下ですれ違っても視線を逸らす。仲直りしたいのに勇気もチャンスもない。このままではカンナとも離れ離れになってしまう。不安でいっぱいな状態で受験勉強はとてつもなく辛い。以前は楽しくて堪らなかった慧とのおしゃべりも億劫で、電話で会話していると心に雑音が響いた。早くこの電話を切りたいと焦って緊張する。爽花の方からかけることは一切なくなり、しつこくかけてこられて本気で携帯を捨てようかと迷ったりした。狭い檻に閉じ込められ息苦しく、とにかく慧と一緒にいたくない。だがデートを断ると理由を説明しろと詰問されるため、ぐったりした体を隠して待ち合わせに行った。うつらうつらとしか眠れず食事も味が感じられず、ベッドの上でなぜ交際が狂い始めたのかと悶々とした。

「あっ、そういえば」

 はっと起き上がり、クローゼットの奥からへこんだキャンバスを取り出した。被った埃を払い、じっと見つめる。

「瑠……」

 口から言葉が漏れた。瑠に会いたい。瑠しか爽花を癒してくれる人はいない。はあ、とため息を吐くと、涙が薄っすらと流れてキャンバスに落ちた。瑠にとっては、爽花は邪魔でしつこくつきまとう厄介な存在だっただろう。実際に瑠がそう話したのだから間違いない。興味も示してもらえず距離も縮まなかったが、それでもアトリエに入るのは許されていた。いつでもあの場所に行けると安心して過ごしていた。何でもそうだが、決して自分のものにならないとわかった瞬間、そのものの重大さが見える。それを失って、自分がどれほど空しい目に遭うか、はっきりと頭に浮かぶ。爽花は瑠と離れてはいけなかったのだ。瑠に新しい愛が必要なのと同じく、爽花には瑠が必要だった。しかし現在はどこにいるか知らないし、知っても拒んで再会は不可能だ。つまり爽花は、慧に嫌われないように演じながら、ストレスでいっぱいの毎日を送るしかない。過去は変えられない。消えてなくなりたい地獄に堕ちても元には戻らない。ドジで半人前で失敗ばかりの性格で情けなくなってくる。キャンバスを抱き締め、涙をぽろぽろと流した。




 朝、昇降口でカンナに会うと、さっと視線を逸らした。傷つけてしまった負い目があるため話しかける力がない。カンナはゆっくりとそばに寄って来て、「おはよう」と耳元で囁いた。ほっと息を吐き爽花も「おはよう」と返そうとしたが、カンナは逃げるように離れて別のクラスメイトに笑顔でおしゃべりをしていた。完全に亀裂が入り、寂しくてどうしようもない。いつ謝ればいいのか……。

「おはよう、爽花」

 後ろから肩を叩かれて振り向くと慧が立っていた。

「あれ? 具合悪そうだね。どうしたの?」

「……平気。ちょっと寝不足なだけ」

「ふうん。何か悩みごとでもあるの? 俺でよければ相談にのるよ。爽花を護って助けて癒すのが、俺の役目だからさ。あ、そういえば今日の……」

「放課後に慧とお茶飲めないよ。用事があるの」

「そうか。なら仕方ないね」

 あっさりと答えて、さっさと慧は歩いて行った。用事について聞かれると予想していたため、少し安心した。学校生活が終わると、誰よりも早く教室を出てアトリエに向かった。もしかしたら瑠に会えるかもしれないと思ったのだ。だが油彩のニオイも人がいる気配も全く感じられず期待は薄れていった。それでも足は止めなかった。ドアの取っ手を掴み勢いよく開いた。鍵はかかっていなかったが、瑠はいなかった。もちろん使っていた道具もなくなっていた。机と椅子は隅に寄せられ、イーゼルは壁に立てかけられている。残されていたのは氷のように冷たい空気だけだ。爽花と完全に関係を断つために、ここから出て次のアトリエに移ったのだ。爽花が絶対に立ち入れない場所だ。あまりにも厳しい現実に愕然とし、へなへなと床に座り込んだ。

「もう……。どこにもいないんだ……」

 アトリエもイチジクの屋敷もだめなら、瑠と二人きりになれるところはない。水無瀬家には慧もアリアもいるためチャンスがないのは確実だ。それに、たとえ行っても部屋に入れてくれる可能性はゼロだ。酷な運命に涙さえ流れない。ただ胸の奥に浮かんでいたのは、ここで過ごしたひとときを死ぬまで忘れないという決意だ。アトリエで起きた出来事を知っているのは爽花と瑠だけだ。もし瑠が覚えていなくても、爽花は絶対に覚えて捨てない。嬉しかったことも悲しかったこともイライラしたことも感動したことも全てだ。瑠が、先生が亡くなっても追いかけていた気持ちが何となく伝わった。もし先生が死んでしまっても瑠は絶対に覚えて捨てず、しっかりと記憶に残して絵を描き続ける。唯一の親であり愛してくれる存在。狂った頭を戻してくれた命の恩人。初めて瑠の想いがわかった。会えなくなってから気付くなんてあんまりだ。二度と瑠に再会できないのに今さらわかっても意味がない。

「諦めるしかないんだ……」

 呟いてから、そっとドアを閉じた。とぼとぼと歩き、いつもよりかなり時間をかけてアパートに帰った。傷ついた心が重い鉛となり、体が前に進まなかった。


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