一二三話
待ち合わせ場所に向かうと慧が立っていた。美しく優雅な姿はまさに王子様そのものだ。こんなにかっこいい男子と付き合っているなんて奇跡としか言えない。爽花に気づくとにっこりと笑った。
「ごめん。遅くなって……」
「構わないよ。いくらでも爽花を待ってるからさ」
不満など一切言わず許してくれる。いきなりお姫様に生まれ変わったみたいだ。街を歩いていてもお茶を飲んでいても慧は注目され、その彼女である爽花を羨む眼差しが毎日向けられて優越感に浸る。慧は勉強を教えるのがうまく受験も問題なさそうだ。どこかの誰かと違い厳しくなく、かといって甘くもなく、爽花にとってちょうどいい家庭教師だ。
「慧、将来は学校の先生がいいんじゃない? きっと人気者になれるよ。慧がいるだけで志望校を決める子もいるかもよ」
「いやいや。俺が教えたいのは爽花だけなんだよ。でも褒めてもらえて嬉しいよ」
「そうなの? あたしも慧に可愛がってもらって嬉しいよ。自慢の彼氏だよ。慧にはいつも癒されてるし、たくさん助けてくれて護ってくれて感謝でいっぱいなの。ありがとう」
言いながら、この言葉を聞かせるのは慧なのかと少し不思議な感じがした。本当に癒されているか。助けて護ってくれているか。他に誰かいないか……。
「爽花?」
呼ばれて我に返った。ははは、と軽く笑い、もう一度「ありがとう」と告げた。
「迷惑ばっかりかけてごめんね。いつもそばにいてくれて安心するよ」
「いいんだよ。謝らなくても」
そしてぎゅっと抱き締めた。慧の熱が爽花の体を心地よくさせた。きらきらと輝く日々。素晴らしい恋人とのひととき。悩みも迷いも一つもない。こんな日がやって来るとは。
「慧と同じ大学に通いたいけど、あたし馬鹿だから無理だよね。平日でもおしゃべりしたいよ」
「なら結婚しようよ。母さんも爽花が大好きだし」
「えっ? いいの? 慧と結ばれるなんて夢のようだよ」
「元々そのつもりだったんだから。俺も可愛い爽花と結ばれるなんて夢のようだ。結婚したら二人暮らしをしよう」
「二人暮らし? 慧のお家じゃなくて?」
「……だって、そうしないと」
そこで慧は口を閉じた。慧が二人暮らしを望んだのは爽花にもわかった。水無瀬家には瑠がいる。瑠と再会してしまう。二度と会わないと喧嘩別れした相手にもう一度会うのは避けたい。馬鹿みたいに頑固なだめ男と話したくはない。向こうだって、しつこい邪魔な女の顔を見たくないだろう。二人の間に瑠は必要ないのだ。みんながにっこりと笑っていられるように余計な話は一切しなかった。瑠は独りで生きていけばいい。放ったらかしにして慧と愛し合えばいい。
「慧と結婚したら、お父さんもお母さんもびっくりするだろうなあ」
「そうだね。俺も爽花のご両親に会ってみたいよ。気に入ってもらえるかな?」
「もちろん気に入るよ。結婚して幸せになるのは、あたしたちだけじゃないんだね」
明るい未来しか待っていない。どきどきと胸が速くなり、無意識に微笑んだ。
しかし、たまに食い違いが起きた。受験勉強を終えて図書館から出ると、雲一つない快晴が広がっていた。
「ねえ、セルリアンブルーだよ」
空を指差し言うと、慧は目を丸くした。
「セルリアンブルー?」
「うん。綺麗な青でしょ」
だが慧は頷かず、首を傾げた。
「綺麗って……。ただの青空じゃないか。ただの空がどうしたんだよ」
「えっ? ただの空って……」
「青空なんか別に綺麗でもないだろ。晴れなんか嫌ってほど見てるし」
慧はセルリアンブルーの良さを知らない。どきりと心臓が跳ねて冷や汗が額に滲んだ。
「さ、爽やかだって意味だよ。青空って美しいなあって思わない?」
「青空なんか特に感動しないよ。今さら美しいなんて考えないよ。今時、小学生でも青空を見て綺麗だって感動する子はいないんじゃないかな。爽花って変わってるね」
抑揚のない声で悲しくなった。瑠だったら頷いてくれる。美しいと言ってくれる。慧にとって自然は普通で、人が作った物しか綺麗と思えないのだ。薔薇もただの花と返されそうだ。
「そっか。まあ晴れなんて見慣れてるし、美しいって言うのもおかしいね」
「だろ。そんなくだらなくてどうでもいいことでいちいち感動してたら疲れちゃうよ」
「……くだらなくてどうでもいい……」
セルリアンブルーは特別な色だ。それをくだらないと決めつけられたのがショックだった。油彩に興味がないとはいえ、まるで価値のない存在呼ばわりされたくなかった。
「空眺めてる暇があったらお茶飲もうよ。こんなどうでもいいもの眺めてても面白くないだろ」
「うん……」
どうでもいい。くだらない。爽花が大好きな自然を悪く言われて残念だった。瑠だったら、セルリアンブルーの空だと爽花に話しかけられたらどんな答えをするのだろう。きっと爽花の気持ちをわかってくれる。セルリアンブルーという名を教えてくれたのが瑠なのだから。
また、デートの帰りに夕方の空をじっと見上げていると、慧が手首を掴んできた。
「何してるんだよ。早く帰ろう」
「でも……夕焼けがすごく素敵だから……。あんな空どうやって描けばいいと思う?」
「描く? 爽花は絵なんか描かないだろ」
「もし描けたらってこと。あたし、けっこう絵が好きで」
「さっさと行かないと夜になるぞ」
「夜は月や星できらきら光るから、それもまたいい……」
「ほらっ、行くぞ」
無理矢理引っ張られて、うわっと倒れてしまった。よろよろと起き上がり黙ったまま慧の後を歩いた。
アパートに帰り、洗面所の鏡の前に立った。映った自分に声をかけてみた。
「ねえ、セルリアンブルーって特別な色だよね? くだらなくないし、どうでもいいものじゃないよね……?」
慧に言われて自信がなくなった。爽花は間違えているのか。ただの空に魅力なんかないのか。答えは返ってこない。諦めてため息を吐き、くるりと後ろを向いた。セルリアンブルーをくだらないどうでもいいという慧の言葉が、眠っていてもずっと耳の奥から聞こえてきた。
「爽花、セルリアンブルーなんか、特別でも何でもないんだよ」
「空や花で喜んでたら、みんなから笑われるよ」
「爽花がおかしなことを言うから、周りから注目されちゃうよ」
繰り返し聞こえる。そうしているうちに、少しずつ二人の仲に溝が生まれてきた。