一二二話
イチジクに会いに行ったのは、それから約一週間経ってからだった。本当は瑠の言葉を伝えたくなかったが、いつまでも黙るのも辛い。爽花が屋敷に行くとイチジクは期待しているせいか嬉しそうに笑った。
「おいしいお茶を買ったんだよ。スッキリしてて苦みもないから、瑠くんも飲めると思ってね」
きっともう一度瑠に会えると予想しているのだろう。逆に爽花は暗い気持ちでその場から逃げたくなった。
「……で、瑠くんは?」
さっそくイチジクが質問してきた。ぐっと拳を作り、歯切れの悪い口調で答えた。
「とりあえず、庭のスケッチは終わったから、しばらくアトリエで絵を描いていたいみたいです。それに受験もあるから勉強で忙しいのかも」
「でも瑠くんって独学で学校には通ってないんだろう? 絵を描きたいのはわかるけど、たまには休んで遊びに来てくれても……」
すでに知っていたのかと驚いた。大学に入学したら再会できますよという次のセリフが続けられなかった。しかし、自分の普段の生活を話すくらいの仲だったら、いつか永遠の別れが待っているとしても離れ離れになりたいと考えるだろうか。爽花が逆上したせいで、もう誰とも関わらないと決めてしまったのか。生き物は愛がないと生きていけない。他人と愛し愛されるから未来へ歩こうと明るくなれるし希望も湧いてくる。けれど瑠の胸はほとんど渇いて愛情など残っていないすかすか状態だ。心の扉がガチガチなのもそのせいだ。アリアは瑠と先生はそっくりだと話していたが、大事な部分が似ていない。先生は次に愛する存在を探したが瑠は独りぼっちでも幸せだと勘違いしている。瑠と距離を縮めたい人はいるのに、頑固になって近づこうとすると跳ね返してしまう。慧が悪者呼ばわりしているから自分は悪者と信じている。素晴らしい作品を公開しないし裏でこそこそと隠れている。すでに慧という主人公が表舞台に立っているため、瑠の出番はほとんどない。友人や恋人に囲まれ楽しく生きる権利を与えられたのは慧だと思い込んでいる。だが瑠にも活躍する場面がたくさんあるのだ。爽花がそれを聞かせても馬鹿にして信じようとしない。これが先生の言葉なら考え直すだろうが、関係が薄い爽花がどんなに教えてもダンマリと無視で終わる。くだらないおしゃべりはやめろと怒鳴るだけだ。そして結局喧嘩別れとなってしまった。
「爽花ちゃん、どうしたんだい?」
イチジクが心配そうに覗き込んできて我に返った。はあ、と息を吐いてからイチジクの顔を真っ直ぐ見た。
「……瑠が、二度と来ないって言ったのは、あたしのせいかもしれません。あたしが大声で独りで生きていけばいいって叫んだから、怒ってイチジクさんとも縁を切ろうって考えたのかもしれません。だからって無関係のイチジクさんと離れ離れにならなくてもいいですよね。別れるのなら最後の挨拶をしてって伝えたんですけど、やっぱり聞く耳持たずで……。ごめんなさい。あたしの勝手な行動でイチジクさんを苦しめるなんて思ってなかったんです」
がっくりと項垂れてしまう。イチジクは慰めるように爽花を抱き締めた。
「そうか。喧嘩しちゃったんだね。だけど爽花ちゃんのせいではないよ。全然気にしなくていいんだよ。あ、そういえば」
ゆっくりとイチジクは立ち上がり、何かを取りに行った。戻ってきたイチジクの手には大きな花束があった。
「ほら、約束の花束だよ。爽花ちゃんのために可愛い花を選んだんだ」
「覚えててくれたんですね。すごく素敵……」
イチジクは植物を育てるのが得意で花束も豪華だ。平凡な爽花に美しい花束を作ってくれたと感動でいっぱいになった。
「もらってもいいんですか?」
「もちろん。気に入ってくれたかい?」
「はい。ありがとうございます……」
しっかりと頭を下げると、またイチジクは抱き締めてくれた。瑠の祖母がイチジクだったらよかったという残念な想いも生まれた。現実があまりにも酷で悲しくなった。
ろくな話をしなかったのに花束をプレゼントされ、爽花はアパートに帰ることにした。ずっと屋敷にいてあげたいがそれは無理だ。
「またいつでも遊びにおいで。寂しいんだ……」
切ないイチジクの声で心が重くなった。血の繋がった孫とも血の繋がっていない孫とも会えないのだから痛いほど気持ちがわかる。
帰ってから、ふとある疑問が出てきた。プレゼントしてもらって嬉しいが、この花はいつまで綺麗に咲いているか知らなかった。造花ではないので、いつか萎れてしまう。花束なので花瓶にもさせずとりあえずテーブルの上に置くしかなかった。爽花も椅子に座り、じっと花束を眺めた。花の命は短い。しかし枯れないように愛してあげれば長く咲いていられる。感情を持たない花でさえ愛し愛される。もっと言えば油彩絵具だって使わないで放っておいたら蓋が固まるが、大切に使っていれば簡単に開けられる。物にだって愛はあるのだ。自分が穏やかに優しく接すれば、相手も暖かな気持ちを返してくれるのに。
そういえば、瑠は本当に絵を描かないのか。まさか瑠が絵を描かないと言うとは驚きだった。けれどアトリエは立ち入り禁止になったし、聞いてもダンマリか無視。そっと立ち上がりへこんだキャンバスをクローゼットから取り出し被った埃を手で払った。とても綺麗とは言えないが、確かに瑠がくれた最初で最後のプレゼント。結局離れ離れになってしまったが、ちゃんと作品は残っている。
「瑠の馬鹿……。あたしよりずっとずっと馬鹿だよ……。独りで寂しく死んじゃえ」
そしてキャンバスをクローゼットの奥に押し込み、首を横に振ってもう一度呟いた。
「あたしが幸せになれるのは慧なんだ。あたしは慧の彼女なんだ」
しっかりと自分に言い聞かせ、机に並べた慧との写真を一つ一つ見た。しばらくして携帯が鳴り、京花の柔らかな声が耳に入った。
「あれ? お母さん?」
「爽花、何か落ち込んでない?」
「えっ? 落ち込む?」
「落ち込むっていうか、悩みごととかあるんじゃないのかなって急に不安になったの。悲しい出来事とか辛い目に遭ってるとかない?」
母親の不思議な力に驚いた。まさか京花の方から心配の電話をかけるとは。
「悲しいことも辛いことも……ないよ……」
ぐすっと涙が溢れた。ぽろぽろと頬を伝って落ちていく。
「ほらね。一体どんなことがあったの? お母さんに相談」
「だめなの。お母さんには相談できる内容じゃないから……」
「相談できない? どうして?」
涙を手の甲で拭い、一言囁いた。京花の質問の答えではない言葉だ。
「お母さん、やっぱり恋愛って楽しくないね。ものすごく苦しくて、嫌な想いしかしないよ。幸せになんかなれないね」
幼い頃から、こうやって別れを告げられて泣きたくないと考えてきた。恋人は冷たく裏切るのだとわかっていた。たった一度きりの人生を、恋愛で台無しにしたくなかった。無駄な時間を過ごしたくないと決めていたのに……。きっとこれは人それぞれ違うのだろう。恋が楽しくかけがえのない宝物として心に残る人もいれば、爽花みたいに後悔と失敗の繰り返しで息が詰まる人もいる。
「爽花、それは勘違いだよ。恋愛っていうのはね」
「もう知ってるよ。充分体験したから。お母さんは人生を無駄にしないでよかったね」
ぶっきらぼうに言ってさっさと電話を切ってしまった。京花に八つ当たりしても仕方ないのにと罪悪感が浮かんだ。傷つけてしまって空しい。はあ、とため息を吐いてベッドに横になると携帯が鳴った。今度は慧からだ。
「来週の土曜日にでもお茶飲みに行かないか? 新しい店ができたんだよ」
「そうなの? 行きたい」
「爽花と二人きりでおしゃべりしたいしな。待ち合わせは図書館でいいかな」
「うん。わかった。誘ってくれてありがとう」
これからは慧と真剣に付き合おうと決意した。嘘も誤魔化しもなければ詮索魔に豹変しない。瑠などすっかり忘れて慧と仲良くし愛し合えばいい。瑠はずっと独りだがもうどうでもいい。そうやって生きるのが瑠の願いなのだから叶えてやるべきだ。突き放すのも一つの愛だ。
「楽しみに待ってるよ」
短く言い切って慧は電話を切った。爽花は耳に携帯を当てたまま石のように固まっていた。視線だけ動かし、テーブルの上の花束が視界に映った。そういえば瑠は好きな人に花束を渡すと言っていた。爽花もそうやって告白すると考えていたので、この花束は慧に贈った方がいいのか。しかしイチジクは慧を知らないし爽花のために作ってくれたのだからプレゼントするのはおかしい。イチジクは爽花と瑠が恋人同士だと想像していたのに実際は酷い喧嘩別れで二度と会えなくなった。本当にイチジクには申し訳ないことをした。
「あたしは、イチジクさんに会いに行こう……」
瑠の代わりにはなれないけれど、誰かが近くにいたら安心するだろう。せめてものイチジクへのお詫びだ。




