一二一話
瑠と離れ離れになった爽花の仕事はたった一つ。慧に告白の返事をすることだ。爽花の方から教室に向かい、裏庭に来てほしいと誘った。慧の表情は明るく、爽花も真剣な眼差しではっきりと伝えた。
「あたし、慧の彼女になりたい。ドジで半人前だけど、彼女にしてくれる?」
「もちろん。ずっと待ってたよ」
「ようやく気持ちが固まったの。慧が一番愛しいんだって」
ぎゅっと慧が抱き締めてきた。締め付けられそうで奪われたくないという想いから力が強いのだろうと感じた。
「ありがとう。俺の願い叶えてくれて……。本当に嬉しいよ……」
抱き締められながら確か潤一が瑠は爽花を特別な女の子としているからアトリエに入れていると言っていたのを思い出した。アリアからは、爽花が瑠の人生を変えてくれると期待されていた。爽花自身も瑠を放っておけず常にそばにいようと頑張っていた。けれどやはり心の扉は固すぎて、爽花一人では到底動かせない扉だった。一番は瑠が爽花の言葉を受け止めず、ずっとその状態のまま改心しなかったからだ。瑠は悪者ではない、前向きになれと繰り返していたのに反応なしで突き放す。絵を褒めてもありがとうもなし。それではどうすることもできない。人が変わるには、自分から決心して初めて物事が違う方向に回るのだ。爽花がどんなに追いかけて距離を狭めようとしても瑠が逃げて隠れたらいつまで経っても触れられない。さらに爽花と瑠を邪魔する慧がいて余計困難だった。そのため瑠の正体は暴けなかった。爽花と慧が付き合うと言うと、アリアはかなりショックを受けた。
「……瑠は? どうしたの……?」
こっそりと囁かれて、爽花はあっさりと答えた。
「諦めたんです。迷惑がられてたし、あたしが勝手に妄想してたんです。もしかして瑠が笑える日が来るって。あたし馬鹿だから、おかしかったんです。最初から慧とだけ仲良くしていれば無駄な時間過ごさなかったのに」
アリアは信じられないという表情をしてから、寂しげに微笑んだ。
「……そうね。高校生でいるのはもう少しで終わっちゃうもの。慧と恋人同士になった方が幸せよね……。爽花ちゃん、今まで瑠のために頑張ってくれてありがとう……」
そしてぽろりと涙を落した。その泣き顔を見ないふりをし慌てて逃げた。
慧との交際はきらきらととても清々しく輝いていた。勉強も教えてくれるし休日はおいしいお茶をご馳走してくれる。暇さえあれば電話をかけてお互いの声を聞いて癒された。デートでは必ず二人の写メを撮り、机の上に並べていった。こうすることで視界に映るのは慧のみで瑠は次第に薄れていくと爽花なりに考えた。慧も写メを携帯の待ち受けにしていた。
「誰かにバレたら恥ずかしいよ……」
爽花が焦ると、慧は首を横に振った。
「いつまでも離れないように忘れないように、こうして毎日爽花を見るんだよ。会えない日も爽花と一緒にいられるようにね」
「いつまでも……」
どんなに遠くにいても、たとえ死んでしまっても繋がっていたい。愛しいあなたと……。
そんなある日、街を一人で歩いていると、後ろから名前を呼ばれた。
「さ……爽花ちゃん……」
振り向くと涙でボロボロのイチジクが走ってきた。
「イチジクさん? どうしたんですか?」
「る……瑠くんが、全然遊びに来なくなって、やっと来たと思ったら二度と屋敷に来ないって……言って……」
「えっ? 二度と?」
はっと瑠の顔が蘇り、喧嘩で別れた日がはっきりと頭に浮かんだ。ゲホゲホと息が荒いイチジクの背中をさすった。
「そうなんだよ。二度と会わないって……。だからずっと探してるんだけど……。まさか爽花ちゃんにも会えなくなるんじゃないかって怖かったんだよ。よかった、爽花ちゃんには会えた……」
「ちょ、ちょっと待ってください。どうして屋敷に来ないなんて……。何かあったんですか?」
「何もないよ。いきなり言われたんだ。嫌われちゃったのかどうかはわかんないけど」
爽花だけではなくイチジクとも縁を切ったという意味か。どきりと心臓が跳ね冷や汗が流れた。イチジクはさらに続けた。
「お久しぶりだねってお茶淹れようとしたら、玄関の前でスケッチブックを返してほしいって……。不思議な気持ちで渡したらさっさと後ろを振り向いちゃって、お茶飲んでって止めたらもうこの屋敷には二度と来ませんからって言われたんだよ……。瑠くんが住んでいる家も知らないし、探してもどこにもいないんだよ」
うっうっと声を出してイチジクは涙を零した。痩せこけて肌の色も土気色になっている。あまりにも哀れで爽花の心も痛んだ。
「大丈夫です。あたしがまた会うように言います。任せてください」
「ほ……本当かい? 頼むよ。独りじゃ寂しいんだよ」
「必ず瑠と会えますよ。心配しないでください」
しっかりと言い切ると、イチジクは小さく頷いた。
爽花と喧嘩別れしたからと言って、イチジクとも関係を切るのはおかしい。イチジクとは喧嘩していないし、孫みたいに溺愛されて悪い気分には絶対ならないのに。それとも爽花が偶然屋敷にいたり、ばったりと再会した場合を予想して、来ないと決めたのかもしれない。そうすると原因は逆上した爽花だ。爽花の勝手な行動がイチジクを不幸にした。けれどあんな態度をとられてイラ立たない人もいない。もやもやしていても仕方ないので、早めに眠りについた。イチジクの泣き声が、一晩中耳の奥から聞こえていた。
翌日、大股でアトリエに向かった。喧嘩をしたせいで合わせる顔がなく多分帰れと怒鳴られるだけだとわかっていたが、イチジクを悲しませたくなかったしボロボロのイチジクが哀れすぎて黙ってはいられなかった。久しぶりのアトリエへの道はやけに長く感じた。試しにドアを開けようとしたが案の定鍵がかかっていた。中では誰かがいる気配がするし油彩絵具のニオイも漂って休みではない。なぜイチジクとも離れようとしたのか。イチジクの優しさが心地よかったのではなく、単にイチジクが可哀想だからと仕方なく付き合っていただけなのか。いろいろと想像を膨らませているとドアが開いた。はっと目を丸くして瑠を見上げた。
「何しに来たんだよ。まさかまだくだらないおしゃべりか?」
「違うよ。イチジクさんのことだよ」
「イチジクさん? イチジクさんがどうかしたのか?」
「どうして屋敷に行かないなんて言ったの? イチジクさん独りぼっちで寂しがってるんだよ。いきなり別れるなんて酷すぎるよ。悲しくてイチジクさん、ボロボロ泣いてたよ。今まで散々お世話になってきて突然さよならなんて失礼だよ。もしかしてあたしに会いたくないから? だとしたらイチジクさんは関係ないでしょ。イチジクさんを苦しませないで。瑠を本当の孫みたいに可愛がってたの知ってるよね?」
一気にまくし立てると、瑠は腕を組んで横を向いた。
「もう庭の花のスケッチは終わったから、用事がないんだよ」
「用事がない? たくさんあるでしょ。イチジクさんとおしゃべりしてお茶飲んでそばにいてあげるって用事が。イチジクさんはお孫さんが外国に住んでて日本に戻って来ないからずっと独りなんだよ。その代わりに瑠がイチジクさんの孫になってあげるんだよ。イチジクさんの屋敷に行ってあげてよ」
「偉そうな態度とるな。俺も暇がねえんだよ」
「いつだって行けるよ。ちょっと手を休めてアトリエから出るのは簡単でしょ。瑠は独学で学校には通ってないんだから、自由に行けるはずだよ」
それに足を動かさないと体にも悪い。常に椅子に座っていたら運動不足だ。
「イチジクさんは瑠みたいに孤独でも平気な性格じゃないんだよ。辛くて泣いてるイチジクさんの姿を見たくないよ」
「じゃあお前もイチジクさんと縁切って見に行かなきゃいいだろ。それにまた関わっても先に死ぬ……」
無意識にバシッと頬を叩いた。決して話してはいけない禁句だ。瑠は消えてなくなりたい地獄にまた堕ちたくないと考えているのかもしれないが、かといって口に出してはいけない言葉だ。
「あれほど親切にしてもらった人に対して、それはあまりにも酷い。もし行かないなら、せめて理由を伝えてお別れの挨拶をしなきゃ。突然離れ離れになったら不安だし迷っちゃう。一回でいいからイチジクさんに会わなきゃだめだよ」
真剣な眼差しで真摯な想いを告げたが、瑠は叩かれた頬をさすって視線を合わせない。
「いい加減ダンマリやめて。瑠は自分勝手でわがままだね。慧よりもずっと」
慧という名前に反応し、じろりと睨みつけてきた。犬猿の仲である慧の姿を思い出して不快になったようだ。殴られても倒れないように身構えて爽花も睨み返したが、瑠は女に手を挙げたりはしない。はあ、とため息を吐いてくるりと後ろを振り返り、椅子に座ってしまった。
「ちょっと、お願いだから」
「これ以上つきまとうなら、お前の大事な彼氏に秘密全部バラすぞ。嫌だったらこのまま帰れ」
慧に隠れて瑠に近付こうとした絶対にバラせない秘密を知っているのを忘れていた。その上住んでいる家も同じだからいつでもバラす機会があるとぎくりとした。
「馬鹿な女としゃべるほど無駄な時間はないな。じゃ、早く立ち去れ」
「あっ……。る……瑠……。待って」
言い終わる前にドアは閉じられて鍵がかけられる音が聞こえた。瑠の心は恐ろしく凍り付き、決して開かないのだ。そしてこのアトリエのドアも開かなくなった。ショックが強すぎてへなへなと座り込んだが涙は流れなかった。ただ爽花の心も冷たく固まり、指一本動かせなかった。




