一二〇話
鋭く激しい雷が全身に襲いかかってきたのは一週間後だった。いつも通り放課後にアトリエに向かった。服を脱がそうという気はないと安心しているため、足取りも軽かった。ドアを開けると瑠はまたぼうっとしていた。絵を描いていないと、瑠はセミの抜け殻みたいになると無意識に感じた。瑠は先生と会う前は誰にも構ってもらえず、たぶんその時も抜け殻状態だったに違いない。先生は瑠にとっては失くしてはいけないかけがえのない存在だ。それなのにスケッチブックを捨ててしまった。残っているのは油絵だけとなった。
「……どこを見てるの?」
大股でとなりに移動し、じっと覗き込んだ。瑠の視界に映るのはアトリエの白い壁と窓だけだ。現在はキャンバスもない。殺風景なアトリエにいても無駄なのにやって来るのは、まさか爽花に会いたいからだろうか。
「先生を思い出してるの?」
ふと口から言葉が漏れた。遠い場所に行ってしまった親でもある先生が、今どこにいるのか探しているみたいだ。
「……後悔してるんでしょ。先生のスケッチブック捨てちゃって離れ離れになって。亡くなったからもう会えないし。やっぱり孤独は辛いって……」
「うるせえな。自分勝手に決めつけるな」
遮って、ようやく瑠は爽花の方に体を向けた。
「俺は後悔もしてないし先生を思い出してるわけじゃない」
「なら、どうしてぼんやりしてるのよ」
「お前には関係ないだろ」
長い間ずっと付き合ってきたのに今さら無関係は酷い。慧にまた、お前は爽花と赤の他人だと言われて素直に従っているのだ。
「あたしは関係あるって思ってるよ。今までたくさん出来事があったのに忘れちゃったの? 慧に怒鳴られてそう言ってるだけでしょ。あたしは瑠とどれだけそばにいたか覚えてるよ」
ふん、と瑠は横を向いた。面倒くさそうな表情だ。
「悪いけど、俺は記憶力が弱いんでね。曖昧でよく覚えてねえよ」
「絵をプレゼントしてくれたことも、慧に壊されて傷ついたことも全部?」
「仕方ないだろ。人間の頭はそんなにうまくできてねえんだよ」
寂しさという波が襲いかかって、がっくりと項垂れた。放っておかれないように頑張ってきたのに、護って助けてあげようとしたのに、瑠には爽花の想いは一つも届いていなかった。
「そんな……。酷い……」
小さく呟くと、瑠は立ち上がりじろりと睨んだ。
「落ち込みたくないなら、もうアトリエには来るな。あいつはお前を幸せにしてくれるぞ」
「違うよ。しつこいけど、あたしの癒しは瑠の方なの。瑠の綺麗な絵があたしを癒してくれる。ここに二度と来ないなんてできないよ。アトリエも絵も失いたくないよ」
「そうか。じゃあ俺はもう絵を描かない」
「えっ?」
驚いて目を丸くした。はあ、とため息を吐いて瑠はもう一度言った。
「俺が絵を描かなければ、もうお前はここには来ないって意味だよな」
「な……何馬鹿なこと……。瑠が絵を描かないなんて……」
「俺がどうしようと勝手だろ」
強く太い声で瑠は突き放してきた。ぎろりと睨みも鋭くなっている。
「やめてよ。瑠が孤独になるなんて嫌だ。スケッチブックもなくなったし、瑠は誰とも繋がってないんだよ。人は愛がないと幸せになれないの。孤独で幸せなんか掴めない。もっと瑠は動かなきゃ。たくさん人と関わって、愛し合える人を探さなきゃいけないの。瑠が幸せになるのが、あたしの一番の願いなんだよ」
若くして亡くなった先生の妻と同じ。最高の喜びと愛を与えてもらえるまでは一緒にいたい。瑠は不快そうに息を吐き、ぶっきらぼうに答えた。
「その偉そうな態度やめろよ。何も知らない妄想で決めて、迷惑だって気づけよ」
「妄想でも偉そうでもないよ。瑠は勘違いしてるって伝えたいだけ」
「へえ……。自分の考えが正しいって? 悪いけど、俺はお前にいくら間違ってるって話されても共感できねえよ。世の中で独りでいる奴がたくさんいることに気づいてんのか? みんながみんなお前と同じじゃない。大体結婚しても幸せになれるかわかんないし。とにかく俺はお前を信じる気はゼロだから。救いようのない馬鹿な女がくだらないおしゃべりしてるとしか考えられねえよ」
冷たい槍が胸に刺さり、涙が溢れそうになった。しかし倒れないように、強く拳を作った。
「……この前は……。優しく笑ってくれたのに……」
「優しく笑う? 俺がいつお前に優しく笑ったんだよ。幻でも見たんじゃねえの。もしかして二人で歩いた日のことを言ってるのか? 俺は、お前がしつこくてうるせえから仕方なく付き合ってやったってだけだ。そうやって変に期待されると困るんだ。これだから妄想好きは厄介なだめ人間だな」
まくしたてられ、返す言葉がなかった。ただ、複雑に絡み合っていた悩みと迷いが、はっきりと胸に浮かびあがった。
「うる……さい……」
「はっ?」
項垂れていた顔を上げ、爽花も怒鳴り散らした。
「うるさい! 黙ってれば馬鹿とか妄想好きとか好き勝手に罵って! そうだよ! あたしは救いようのない馬鹿でだめな女だよ! だけど瑠も救いようのない馬鹿でだめな男だから! 偉そうな態度とるのはそっちでしょ! 失礼にも程がある!」
はあはあと息を荒くして睨みつけた。ふっと瑠は口元だけ笑顔になった。穏やかではなく嘲笑いだ。
「そうか。なら決まりだ」
呟きながら瑠は手を挙げた。殴られる、とぎゅっと目をつぶり身構えたが、手首を掴んだだけだった。そのまま引きずるようにしてドアの前に移動し、爽花を廊下に投げ捨てた。床に尻もちをついて、いたた……と起き上がって瑠をさらに睨んだ。
「怪我したら危ないでしょ。一応あたしも女なんだから……」
「立ち入り禁止だ」
恐ろしく低い声で瑠はぼそっと言った。ぎくりとして冷や汗が流れ始めた。
「立ち入り禁止?」
「そうだ。俺はもう絵を描かない。絵がなければお前はもうここに来る必要はなくなる。くだらないおしゃべりもいい加減飽きた。これ以上付き合ってられねえ。今日でさよならだ」
「ちょっと待って。あたし、アトリエがなくなったら」
「しつこい奴だな。あいつとイチャイチャすれば寂しくないだろ」
「どうしてそんな酷いこと言うの? 絵を描かなかったら瑠生きていけないよ。ただでさえ独りぼっちなのに」
「俺は、お前みたいに甘えん坊でもあいつみたいに欲しがりでもないから、愛なんかなくても平気なんだよ。むしろお前が話しかけてくるせいで絵画に集中できない。邪魔なんだよ、お前」
「待ってよ……」
腕を掴んだが振り払われてしまった。ちっ、と舌打ちするところがちらりと見えた。その瞬間ぷつりと頭の隅で糸が切れる音がした。限界に達していた。悔しさが込み上げ、大声で叫んでいた。
「じゃあ独りで寂しく空しい人生を送っていけばいいよ! あたしも馬鹿みたいに頑固でだめ男と付き合ってられない! 寂しく生きて、誰にも知られずに悲しく死ねばいいよ!」
そして勢いよく振り返り怒りの力で走った。全力疾走し外に飛び出した。そのまま走り続け、ようやく足が止まったのはバレンタインチョコを捨てた公園だった。はあはあと荒い息を整え、落ち着くとベンチに座ってため息を吐いた。つい先ほどの出来事が蘇り、ぐったりと俯いた。とっさに浮かんだ馬鹿みたいに頑固でだめ男は、よく思い付いた。まさか自分が瑠に怒鳴り返す勇気を持っていたとは驚きだ。しかしもっと衝撃だったのは、アトリエ立ち入り禁止になったことと、瑠にそんな姿で見られていたという事実だ。あそこまで酷い悪口はないだろう。一緒にいれば距離が縮むと期待していたのに、まさかあんなに嫌われていたとは……。
「特別な力なんかないじゃない……」
みんなから、爽花は特別な力を持っていてすごい子だと言われてきた。特別な力を使えば、瑠のガチガチに固まった心の扉を開けられると思っていた。けれど爽花は平凡な高校生で、ドジで半人前で迷惑ばかりかける、はっきり言ってどうしようもない人間だ。馬鹿みたいに頑固でだめ男の心の扉を開く術はなかった。どんな人なのか正体を暴けなかった。アトリエも立ち入り禁止にされたし、喧嘩別れという最悪なやり方で離れ離れになってしまった。
ぽつりと空から雨の雫が落ちてきた。晴れていたのに、まるで爽花の想いを映したみたいだ。
「水の泡……」
これまで続けてきた努力が、全て水の泡になった。恋愛で絶対に無駄な時間を過ごしたくないと決意していたのに過ごしてしまった。瑠のために無理をしてまで頑張って、悩んで迷って傷ついて、夜しっかりと眠れなかった日だってたくさんあった。そういった出来事が、たった数秒で音もたてず消え失せた。
「……あたしって、本当に失敗ばっかりだなあ……」
呟き、顔を上げてどんよりとした雨空を見つめた。しばらくの間、セルリアンブルーの空は見られないだろう。服が濡れても構わず、石のように立ち尽くしていた。




