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十二話

 翌日も水無瀬の提案で喫茶店に行った。昨日とは違う喫茶店だ。

「水無瀬くんって、いろんなお店知ってるんだ」

 尊敬の眼差しを向けると、ははは、と軽く笑った。

「うん。甘いもの好きなんだ。お菓子とか紅茶とか大好きなんだ。逆に苦いコーヒーとかは全く飲めなくてさ。男なのにおかしいよね」

「そんなことないよ。甘いもの好きな男の子もいっぱいいるよ。おかしくないから大丈夫だよ」

 首を横に振って、爽花も柔らかく笑い返した。

「新井さんの下の名前って、サヤカっていうんだね」

 突然聞いてきたので、こくりと頷いた。

「そう。爽やかに花で爽花。けっこう変わってるから、お気に入りなんだ」

 えへへ、と笑うと、水無瀬はもう一度口を開いた。

「いい名前だね。これからは爽花って呼んでもいい? 俺もケイでいいからさ」

「ケイ?」

 目を丸くした爽花の気持ちが伝わったのか、詳しく説明した。

慧眼けいがんの慧だよ。彗星の彗の下に心って書く漢字」

 想像してみたが浮かばなかった。あまり彗星という漢字に出会わないからだろう。

「水無瀬慧くんか。慧もいい名前じゃない。みんな水無瀬しか呼んでなかったから知らなかったよ」

 やはりそうかという表情で、慧は続けた。

「書きづらいし覚えづらいしテストの時とか面倒になるけど、せっかくもらった宝物だからね」

 爽花も同じ考えだ。特に男は生まれてから死ぬまで名字も名前も変わらないので大事にしなくてはいけない。

「慧くんじゃなくて、慧でいいよ。ただし二人きりの場合のみ。周りに人がいたら怪しまれていじめられるかもしれないし。学校では水無瀬のままでよろしくね」

「二人きり……」

 どきどきと心臓が跳ねた。いきなり距離が縮まった感じがした。優越感の海に溺れそうになった。

「ところで、爽花。フランス語の勉強してみる?」

 ふいに慧が違う話題を持ってきた。うっとりとした想いが一瞬で消えてしまった。

「フランス語?」

「そう。俺がわかりやすく教えてあげるよ」

 すぐに手を横に振った。フランス語を覚えても、爽花には全く意味がない。

「英語もだめなのにフランス語なんて難しすぎるよ。あたしにはレベル高いよ」

「でも、恋人とフランス旅行にでも行った場合に便利じゃないか」

 恋人という言葉で不快になった。手だけでなく首も横に振った。

「あたしは、恋人欲しくないの。恋人と旅行になんて絶対ないよ。そもそも海外旅行に興味ないもん。国内の温泉旅行だけで充分だよ」

 海外に行くにはパスポートが必要だし、お金もかかるし、飛行機に乗るのも面倒だ。爽花の人生にとって最大の時間の無駄といっていい。近場で友人と遊べるだけで満足なのだ。

「……本当に恋人欲しくないの……?」

 慧が探るような眼差しを向けてきた。もちろん爽花は大きく頷いた。

「相手の態度に一喜一憂して、頑張って尽くしてきたのに別れるとか、馬鹿みたいでしょうがないのよ。彼氏に冷たくされて」

「冷たくされなかったら?」

 爽花を遮って、慧は静かな言葉を投げてきた。

「冷たくされなかったら? 心の底から愛してくれる運命の人だったら? この世の男全員が酷い性格なわけないだろ。確かに一喜一憂は俺も嫌だよ。誰だって嫌だ。でも、苦しいことの後には信じられない喜びも待ってるんだぞ。恋愛をしないなんて、もっと馬鹿みたいだって感じるけど。……まあ、自分の人生は自分で作るものだから、好きなように生きていけばいいけどね」

 突然の攻撃に戸惑った。なぜここでそんな話をしたのかわからなかった。

「ごめん。馬鹿っていうのは言い過ぎちゃった。謝るよ」

「俺に謝られても困るよ。今彼女いないし」

 焦りが涙になり、こっそりと瞼に溢れた。がっくりと俯き、返す言葉が見つからず黙った。調子に乗り過ぎていたことを反省した。

 しばらく気まずい状態のまま、お互いに動かなかった。ただ涙の雫がぽろぽろとテーブルに落ちていた。

「……怒ってないよ……」

 慧の穏やかな囁きが聞こえて、勢いよく顔を上げた。

「いきなり説教しちゃってごめんな。爽花を傷つけないって決めてたのに」

 しなやかな指で、そっと涙を拭ってくれる。安心したせいで、さらに涙が流れた。

「うううう……。びっくりさせないでよう……」

「ごめんごめん。泣かなくていいぞ」

 にっこりといつもの笑顔に戻り、爽花はかっこ悪く泣き続けた。



 喫茶店を出ると図書館に向かった。一日でも宿題を怠ってはいけないと考えた。慧が手伝ってくれたおかげで、全ての教科の宿題が無事終わった。教科書を閉じて壁の時計を見ると、七時を超えていた。すぐに暗くなった外に飛び出した。

「今日も助かったよ。慧は、あたしの最高の家庭教師だよ。ありがとう」

 深くお辞儀をして感謝を告げた。慧も同じ表情で微笑んだ。

「どういたしまして。俺も爽花がそばにいてくれて癒されてるんだ」

 言いながら、慧は爽花の手を握り締めた。

「ずいぶんと遅くなっちゃったから、家まで送るよ。夜に女の子一人じゃ危ないだろ」

「えっ……」

 申し訳ないという気持ちでいっぱいだったが、慧は握る力を強くし、大股で歩き始めた。爽花も慌ててついていく。

「爽花の家がどこにあるのか、確認しておきたいし」

 慧の一言に、足が重くなった。きっと慧は大豪邸に住んでいるはずだ。安くて狭いアパートは、慧にとって犬小屋みたいだろう。そんな場所が自分の家だと晒すのが恥ずかしくなった。

「爽花って一人暮らし?」

 前を向いたまま聞いてきたので、素直に即答した。

「一人暮らしだよ。だいぶ慣れてきたよ。独身でも平気なように、毎日努力してるんだ」

 はっきりと伝えたつもりだったが、慧は反応しなかった。雑音はないのだから聞こえないわけないのに、なぜか黙っていた。

 アパートに着くと、爽花はもう一度お辞儀をした。

「わざわざ送ってくれてありがとう。慧って本当に優しいね」

 だが慧はまた反応せず、アパートをじろりと眺め続けていた。

「あの……。慧……どうしたの……?」

「えっ? あ、ごめん。ぼうっとしてた。なに?」

 驚いて、慧は爽花に視線を移した。

「だから……。送ってくれてありがとうって……」

 声が掠れてしまった。慧は、いやいやと手を振った。

「夜の道を、女の子一人で歩かせたら危険だろ。当たり前のことしただけだよ。疲れただろうから、ゆっくり休んでね」

「うん……。慧もね……」

 爽花が呟くと、くるりと慧は歩いて行ってしまった。後ろ姿が完全に消えるまで、じっと見つめていた。

 アパートに入り、ふうっと息を吐きながらベッドに寝っ転がった。鞄を床に放り投げて、今日起きた出来事を思い出した。水無瀬の名前は慧。二人きりの時は下の名前で呼び合う。突然の冷たい態度で泣いて、少し調子に乗ったと反省した。たった一日で、ありとあらゆることが起きて充実していた。しかしその中でも一番印象に残っているのが、爽花のアパートを眺めていたことだ。周りが暗くてよくわからなかったが、声ははっきりと届くはずだ。なぜ無反応だったのか不思議だった。ぼうっとしていたと話していたけれど、どう考えても違うという想いが、うっすらと胸に存在していた。




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