一一八話
机の奥から古紙を取り出した。掠れて読めない文字。くしゃくしゃに折られ端もボロボロだ。瑠のお守りなのにアリアが持っていたのは、瑠が次のお守りをもらえたから代わりにアリアの手に移ったのかもしれない。この古紙は慧に壊されないように決意した。失くさないように忘れないように、大事に机の奥にしまった。さすがに慧も爽花がこれを持っているとは予想していないだろう。墨で塗りつぶされる心配はない。先生の妻が亡くなる前に書いた文章が蘇った。私がいなくなっても絵を描き続けていてほしい。絵を描いていれば、いつか見つけに来て好きになってくれる人が現れる。そしてその人はあなたに最高の喜びと愛を与えてくれる。だからあなたもその人に最高の喜びと愛を与えてあげる。
「最高の喜びと愛……」
先生と妻はとなりに座っているだけで愛が芽生え、油彩によって結ばれた。すぐに離れ離れになってしまったが、きっと二人とも幸せを掴んだと喜んだはずだ。まさに最高の喜びと愛だ。瑠にもその気持ちを知ってもらいたい。一度でいいから瑠がにっこりと微笑むところを見たい。睨みや無表情はもう飽きてしまった。慧のように穏やかで優しくて、きちんとありがとうと感謝できる姿を見たいのだ。爽花だけではなくアリアも願っている。母親と呼んでもらう日をずっと待っているだろう。血の繋がった家族でさえ演技をして放っておくしかできない瑠を爽花が明るく変身させる術はない。特別な力を使えばガチガチに固まった心の扉も開く可能性もあるが、そもそも特別な力が何なのかわからないため無理だ。
「またアトリエに行こう……」
とにかく努力あるのみだ。諦めず思い切り瑠にぶつかるしかない。常に慧がそばにいるため、アトリエに行くチャンスはなかなかやって来なかった。さらに受験勉強でもっと時間を使う。ずっと瑠について考えていてはどこにも入学できず働かなくてはいけなくなる。取り柄がない爽花にはどんな仕事があるだろう。そういえば高校生でアルバイトをしているクラスメイトがいたと今さらになって気付いた。
「平気だよ。必ずどこかに入学できるって」
慧は軽く笑うが、爽花は簡単に壁を乗り越えられる力は持っていないのだ。
「慧は成績優秀でどんなこともすぐに覚えて身に付くからいいの。あたしはそんなに安心できないんだよ。アルバイトもしたことないのに……」
「爽花は本番に強いタイプだから大丈夫だって。明るい未来が待ってるよ」
とてもそうとは思えなかった。一体いつどこで爽花が本番に強いと知ったのかわからなかった。いつも情けなく失敗ばかりなのに、なぜそう断言できるのか。おまけに瑠のおかしな態度で心を暗くさせている。
「そういえば、あいつが俺に話しかけてきたよ。すごく珍しいことでびっくりしたよ」
「瑠が? 話しかけてきた?」
「うん。もう爽花がアトリエに来ないよう見張ってくれって。やっぱり爽花はアトリエに自由に出入りできたんだね。アトリエにしか絵は置いてないし妙だと思ったんだ。アトリエの中で二人きりでどう過ごしてきたんだ?」
疑う口調ではなかったが優しくもなかった。抑揚のない声でぎくりとした。
「どうって……。ただ絵を描いているところをとなりに座って見てたってだけだよ。慧が言ってたイチャイチャなんて一つもないよ。だいいち瑠がそんな性格じゃないでしょ」
「あれは少し言い過ぎたよ。だけど二人きりでいたのは間違いないんだよな」
「でも距離はかなり遠かったよ。気持ちも通じないし、本当に同じ空間にいただけ。おしゃべりもないし絵を褒めてもありがとうも返してくれない。いつも残念でいっぱいだよ」
「ふうん……。特に喜びもないのにどうしてアトリエに行ってるのか不思議だな。俺はいちいち残念な想いをすることはしないけどね」
確かにわざわざ寂しい気持ちを味わいたくて行く人はいないだろう。だが爽花にとってはアトリエが心のよりどころでストレス解消できる唯一の場所なのだ。胸に溜まった不満を一気に消してくれるのは瑠の絵しかない。感情の起伏がなくマイペースで爽花がいくらドジを踏んでも睨みつけたりせず絵を描いている瑠に癒される。邪魔な他人はいないとわかっているので素の爽花でいられる。瑠はあたしの癒しだからと返す勇気がなく黙った。慧は、爽花を癒すのは自分だと信じているはずだ。もしバラしてしまったら絶対に後悔する。下手をすれば隠していた秘密も全てバレてしまうかもしれない。慧も爽花の答えを待っていなかったらしく、面倒くさそうにため息を吐いた。
暇さえあればアトリエに向かい、瑠に会いに行った。残念でもいいからとにかくアトリエに行きたい。ある日ドアを開けると瑠はぼんやりと座って空を眺めていた。イーゼルにキャンバスは置かれていない。次のモチーフを探しているのだろう。また花を描くのかと予想していると、くるりと瑠が爽花の方に体を向けた。そして頭のてっぺんから足のつま先までを見てから呟いた。
「お前は……。そういうの嫌だよな」
「えっ? そういうのって?」
どきりとして薄っすらと冷や汗が流れた。
「いや、別に気にするな」
「何よ。はっきり言ってくれないと気分悪いよ」
むっとして大股で瑠の元まで移動した。なぜか今日は逃げない。むしろじろじろと顔を見つめてくる。
「ほら、ちゃんと教えて。どんな内容でも平気だから」
仁王立ちになり、足に力を込めて身構えた。もう何を言われようが動揺しない。瑠と慧に出会って、いろいろな体験をして、楽しいことも悲しいことも勉強した。今さらどんなことを聞かされても大丈夫だ。
「ふうん……。じゃあ」
そこで口を閉じて、瑠は爽花を床に押し倒した。またパレットナイフを持っているとぎくりとしたが今日は何もない。だが安心はしていられない。瑠が爽花の制服のボタンを素早く外した。はっと固まって瑠の手を止めた。まずいと無意識に感じた。
「や……やだ……。ちょっとやめてよ」
そっと囁くと、すぐに瑠は起き上がった。目を逸らしてぶっきらぼうに答えた。
「ほらな、やっぱり嫌なんだろ」
「だ……だって」
なぜボタンを外したのかとは答えられなかった。高校生は子供から大人になる時期だとふと頭に浮かんだ。
「嫌じゃないなら続けるぞ」
さらに下のボタンを外されそうになって焦った。このままでは全て外されて露わな肌が出てしまう。
「やめて。もうわかったから」
瑠はゆっくりと起き上がった。男子は実は怖いのだと逃げるようにアトリエを飛び出した。
アパートに帰り、瑠は何をしようとしたのか考えた。爽花が黙っていたら、あの後どんな出来事があったのか緊張でがんじがらめになった。そういうのが嫌という意味も気になる。爽花が嫌がりそうなこととは何だろう。どれだけ悶々としても答えは見つからない。双子の弟である慧にも見抜けないのだから、爽花がわかるわけないのだ。
洗面所で自分の裸を見ると、頭に瑠の顔が浮かんだ。すでに裸体を晒しているという事実が恥ずかしくて堪らない。もし……もしあの時、爽花が抵抗しなかったら……もしかして……。
「いやいや、瑠が女の子の体に興味持つわけないよ。慧ならやるかもしれないけど」
かなり昔だが、慧から「あんまりわがままだと、エッチなことしちゃうぞ」と言われたのを思い出した。同じことを瑠も考えることはないだろう。ぶんぶんと首を横に振って、速くなる鼓動を落ち着かせた。




