一一六話
それからアトリエに行けたのは一週間以上経ってからだった。ドアを勢いよく開けると、イーゼルの上に完成したキャンバスが乗っていた。瑠は道具を片している。もう少し遅れていたら、瑠が帰ってしまうところだった。
「ついに終わったんだ。すごく素敵で綺麗だね」
無意識に声を出してしまって、はっと手で口を覆った。瑠はちらりと目だけを移動し、黙って無視している。
「イチジクさんが見たら、きっと嬉しいだろうなあ……」
また口から言葉が漏れた。もしかしたら爽花の想いが届くかもしれない。しかし瑠は爽花の目の前まで近づいて、壁に押し付けた。いわゆる壁ドンというやつだ。もちろん、ときめきは一切感じられない。
「うるさい。お前にどれだけ褒められても感動しねえよ。くだらないおしゃべりで耳障りなだけだ。そういうおしゃべりはあいつとやってろよ」
「わかってるよ。あたしなんかに褒められたってどうってことないって。だけど綺麗なんだもん」
「特に絵の良さも知らない奴だったら、適当に塗られた絵でも綺麗に思うよな。とりあえずカラフルで細かく描かれていれば。それに俺は評価してもらうために描いてるんじゃない」
亡くなった先生を忘れないため。そして新しく愛してくれる人が現れるために絵を描いている。別に感想など必要ないのだ。こんなに美しい作品をアトリエの中に置きっぱなしにするなんて、とてももったいない。
「せっかく描いたんだから、イチジクさんに渡したら? イチジクさん、瑠を本当の孫だと思って可愛がってるんだよ。大好きな孫からプレゼントされたら嬉しいでしょ?」
「面倒くさいこと言うな。もし渡して、また描いてくれなんてお願いされたらどうするんだよ」
あんなに世話になっているのに、あまりにも失礼すぎる。むっとして爽花も言い返した。
「毎日描ける時間があるんだから大丈夫でしょ? 少しはお礼しなくちゃだめだよ。いっぱいお屋敷に行ってお茶飲んだりお菓子食べたりしたのに。庭のスケッチだってさせてくれたんだよ。持っていくのが面倒なら、あたしが代わりに持っていくよ。イチジクさんが笑ってるところ見たくないの?」
はあ、とため息を吐いて、瑠はじろりと睨みつけてきた。
「自分勝手に妄想するなよ。もしかしたら余計なもん持って来られたって迷惑する場合だってあるだろ。自分はそう感じるから他人もそう感じるって決めつけるな」
「余計なんて考えないよ。イチジクさんの優しさは、瑠が一番よく知ってるでしょ」
イチジクの育てた花が美しく、スケッチをさせてくれと瑠が頼んで関係が始まったのだ。イチジクの屋敷は瑠の一つの心のよりどころのはずだ。
「用事がないなら、さっさと」
「用事があるから来たんだよ」
遮り、ぐっと拳を作って身構えた。瑠にどんな言葉を返されても倒れないようにするためだ。
「瑠は、何か我慢してるの? もししてるなら、我慢しているものを教えて」
珍しく瑠は驚いた表情に変わった。全く予想していない質問だったようだ。
「俺が何を我慢するんだよ?」
「だって、慧がそう話したんだもん。最近、瑠がおかしいって。欲しがりじゃない瑠が何かを我慢するなんてありえないって、あたしも慧も不思議でしょうがないの。一体何を我慢してるの?」
実際に見ていないため、どこがどうおかしいのはわからないが、黙ってはいられなかった。
「あいつが妙な話作ってるだけだ。俺はどこもおかしくない」
「でも気になっちゃうよ。はっきりと答えてほしいよ」
もう一度言うと、瑠は面倒くさそうに息を吐いた。
「お前もずいぶんと妄想好きで、俺にはついて行けない。付き合いたくもないし。いきなり我慢しているものは何だって聞かれて、すぐに答えられる奴なんかいないだろ」
やはりくだらないおしゃべりと決めつけられてしまうが、これはすでに考えていた。とにかくアトリエに二度と来るなとあしらわれないように緊張して話した。
「あたしは妄想好きじゃないよ。瑠の言いたいこともちゃんとわかってるけど、もやもやしてどうしても聞きたくて……。絵が完成したから忙しくないでしょ」
しかし瑠はダンマリで、無視をして帰り支度を始めた。諦めて爽花もアパートに帰った。
風呂に入り、湯船に浸かった状態で、我慢していることについて想像してみた。さらに爽花が近寄ると逃げたり、アトリエに二度と来るなという一言。汗をかいていた理由も共に、ぐるぐると頭を回す。慧の言う通り瑠は変だ。ダンマリやくだらないおしゃべりはもう当たり前になっているが、その他の態度は初めてだ。まるで爽花を避けているみたいな瑠。つい数日前は、穏やかで微笑みさえ浮かべたのに……。
「あっ……。熱っ」
驚いて風呂から急いで出た。一時間ほど浸かっていて、すっかりのぼせてしまった。洗面所にパジャマはなく、そういえばすでに瑠に裸体を晒していたと蘇った。キスだってしているし一つのベッドで寝ている。二人きりのアトリエでゆっくり過ごしたり、慧よりそばにいるひとときが多い。好きなものが一緒という部分も共通しているし、繋がっている糸が太いのは瑠の方だ。だが愛はほとんどなく興味もゼロで、その点では慧との糸が太い。さまざまな場所で爽花は瑠にも慧にも繋がっているのだ。
水を飲んで体を冷やし、ほっと椅子に座った。カレンダーに目をやり、高校生でいられる日がわずかだと空しくなった。まだ中学生の時は、二人の美男子の間で恋について悩むなど全く夢にも思っていなかった。自分は彼氏なんか必要ない。ずっと仲良しの女の子たちと楽しく暮らす。そう信じていた。もし過去に戻れるなら、カンナに頼まれても慧にラブレターを渡すのを断り「カンナが告白しなくちゃ意味がないよ」と話せるのに。水無瀬兄弟に振り回されないよう、厄介な目に遭わないよう行動できるのに。けれど残念なことに過去は変えられない。後悔しても遅い。傷は心に刻まれ、嫌な出来事も頭の隅に浮かぶ。これは、どんなに才能がありお金があり人気者でも無理なのだ。できることは、同じ後悔をしないように学習するだけだ。
「……チャンスがあったら、またアトリエに行こう……」
そっと呟き、さっさと眠りについた。
翌日も翌々日も、朝から慧がいてタイミングを逃した。どうか慧が学校を休んでくれたらと、薄っすら祈っていた。汚い心で自己嫌悪に陥るが瑠に会いたい。少しでも距離が縮んだらいい。ようやくチャンスが来たのは、一カ月以上経ってからだった。急いでアトリエに向かいドアを開くと、瑠は墨で塗りつぶされたスケッチブックを見つめて座っていた。となりに移動したいが足が動かなかった。爽花が近づいたら、瑠は避けてアトリエから出て行ってしまう。ただ背中を眺めるしかできなかった。イーゼルにはキャンバスが乗っていない。イチジクの庭の絵はどこに置いてあるのか。
「これ、捨てることにしたから」
「えっ?」
ふいに瑠が言葉を漏らし、爽花も目を丸くした。
「捨てるって……。まさか先生のキャンバスを……?」
「そうだ。持ってても仕方ないしな。ただ鞄を重くさせるだけだ」
「ちょっと待ってよ。それは先生がプレゼントしてくれた花束なんだよ? かけがえのないものなんだよ? 汚されたからって簡単に捨てちゃうの? スケッチブックがあるから瑠は先生と繋がっていられるのに」
「俺がどうしようとお前には関係ないだろ。いちいち口出しするな」
「でも……。でも、失くしちゃいけないよ。そのスケッチブックの花は、もう誰にも描けないんだよ」
すると瑠はスケッチブックを開いて見せてきた。
「どこに花があるんだ? どこにも花なんか描かれてないだろ。全部真っ黒だ。持っててもしょうがない」
ぱたんとスケッチブックを閉じ鞄にしまった。家のゴミ箱に放り込むのだろう。
「捨てるならあたしがもらう。これを捨てるわけにはいかないよ。捨てたら絶対に後悔するよ。もし邪魔なら、あたしが代わりに持ってるよ」
「どうしてお前に渡すんだよ。お前は俺とも先生とも関係がないのに。もう捨てるって決めたんだ。いつまでもこんなもの残してても意味ないだろ」
衝撃で全身が震えた。瑠にとって先生は、そんなにちっぽけな存在ではなかったはずだ。大事な唯一信じている愛してくれる親なのだ。先生にどれだけ救われたか忘れたのか。先生からの贈り物をゴミ扱いする瑠なんか見たくない。
「やめて。先生、天国でショック受けてるよ。可愛い瑠のために頑張って描いたんだよ。ずっと一緒にいたいって願って。瑠が血も涙もない子だったなんて知ったら悲しいでしょ。先生の気持ちも考えて……」
「うるせえな。死んだ人間に感情なんかないだろ」
じろりと睨まれて口を閉じた。そういえば、瑠は以前よりずっと頑固になっていると慧が話していた。
「瑠……」
掠れた口調で呟いたが、無視をしてアトリエから出て行った。一人取り残された爽花の心は凍り付いて、しばらくその場に立ち尽くしていた。




