一一五話
翌日もアトリエに行ったが、無視をされ黙って帰るしかなかった。翌々日は休んでいて会えず、さらに次の日は一日中慧がいてやはりチャンスがなかった。
ある時、じっと後ろに立っていると、ふと瑠が視線を爽花に向けた。どきりとして心臓が跳ねた。
「お前、ずいぶんと余裕なんだな」
「えっ? 余裕って?」
「受験だよ。勉強しないで合格できるのか? しっかり勉強して真剣に考えないと酷い目に遭うぞ」
はっと冷や汗が流れた。そういえば爽花は受験生で、いろいろとやることがある。あの慧も勉強しているのにドジで半人前でもともと頭もよくない爽花がサボってはいけない。優先順位を間違えているのに気が付いた。
「ほらな。俺に構ってる暇なんかないんだよ。俺ばっかり気にして自分はどうでもいいとか投げやりになってるだろ。やっぱりお前はとろいな。とろいというかだめ人間だ」
悔しさと怒りで全身が震えた。馬鹿にされても返す言葉がないのが余計イライラした。泣くのは嫌だから睨みつけたが、瑠には効果がなかった。お前なんか全然怖くないという態度で、自分の弱さを知って惨めになるだけだ。そんな毎日を繰り返し、無駄な時間が過ぎていった。
「爽花、ちゃんと受験勉強してるのか?」
慧に注意する口調で聞かれて苦笑した。
「ま……まあまあ……」
「まあまあじゃだめだよ。志望校だって決まってないんだろ。言っておくけど、俺は爽花の手助けはするけど、代わりに試験受けることはできないんだよ。俺が何もかも全部うまくやってくれると思ったら大間違いだからね」
しゅんとして俯いた。全く持ってその通りで悲しくなった。慧からもだめ人間だと見られているのかと恥ずかしくなった。
「……わかってるよ。ちゃんとわかってるから」
「爽花の人生を明るくするには爽花自身が努力しなきゃいけないんだからね。忘れないでね」
「うん……。忘れてないよ……」
情けなく答えて、がっくりと項垂れた。
とはいっても、やはり瑠が頭にちらほらと現れて邪魔をしてきた。だめだと考えるとさらに大きくなりペンが動かなくなる。仕方なくため息を吐いて、落ち着くまでぼんやりして勉強を続けた。また、夢の中に瑠が出てきたり、優先順位が間違っているとわかっていても無意識にアトリエに向かってしまう。
「ねえ、瑠」
「しつこいな。俺も忙しいんだよ」
突き放され、薄っすらと涙が溢れた。
どうしてあんなに頑固なのだろうと不思議になった。どうやって瑠の心の扉を開けるか全く思いつかない。爽花の必死な想いも聞く耳持たずで冷たく言い返して変化なしだ。自分の意思を決して曲げない。信念がものすごく強く、ある意味すごい性格だ。その瑠の心を一瞬で貫いた先生もすごい。先生の作品は相当美しかったのだろう。瑠にとって先生は親でもあり命の恩人であり神様だ。後からやって来た爽花などちっとも興味はない。先生と爽花の絆の深さは雲泥の差だ。とはいっても爽花も頑張って寄り添おうとしているのだから、ほんの少しでも気付いてほしい。瑠の渇いた胸を愛で満たし、二度と独りぼっちにならない人生を送ってほしい。ただそれだけだ。瑠が愛に囲まれたと知ったら、もうしつこく追いかけたりしないし偉そうなことも話さない。次は瑠が動く番だ。積極的に行動して幸せを掴もうと努力するべきだ。それなのに瑠はこの生活で充分だと椅子に座って立ち上がりもしない。爽花が近づいてきたら帰れと睨んで、面倒だったら無視。爽花は適当に慧に任せていればいい。ちょうどよく慧は爽花に惚れているし、恋人同士になったら寄り付かないだろう。そしてずっとずっと孤独な世界で生きていく。そんな感じだ。
「もったいない……」
呟いても意味はなく、受験勉強も嫌になって途中で終わらせてしまう。
ある日、無駄だとわかっていながらもアトリエに向かった。ドアの取っ手を掴み開けようとするとびくともしなかった。
「あれ?」
もう一度試したが動かない。鍵をかけていると直感した。
「ちょっと! 瑠! 開けてよ! アトリエに入れて!」
どんどんと激しくドアを叩き叫ぶと、ゆっくりと開いた。
「また来たのかよ。くだらないおしゃべりに付き合ってる暇はねえんだ」
「くだらなくないってば」
閉じられないよう素早くアトリエの中に足を踏み入れた。
「あたしの言うこと聞いて。瑠は自分を悪者って勘違いしてる。もし悪者だったら綺麗な絵は描けないよ。瑠の心は薔薇みたいに高貴で色鮮やかで純粋なんだよ。慧がただそう呼んでるだけで、瑠の心はとてつもなく澄んで清いんだよ。慧より、ずっとずっと綺麗なんだから」
初めてアトリエに来た時、イーゼルの上に乗っている白薔薇に感動した。真珠のように透き通って輝いていて一目惚れした。そのせいで慧の話すことが信じられず、こうして自分で正体を突き止めようと考えたのだ。油彩など興味なかったのに、瑠に出会って瑠の持つ技に憧れて惹かれていった不思議と驚き。まさに先生の恋愛と同じだ。瑠が先生にそっくりなのと一緒で突き放されて帰れと言われてもアトリエにいた女性と爽花もそっくりだ。その後先生と女性の間には愛が芽生えて二人は結ばれた。瑠と爽花の間に愛が芽生えないのは慧が邪魔をするからだ。慧がいなければ、もしかしたら瑠は心を開いてくれたかもしれない。慧が爽花を束縛し、瑠を孤独という世界に追いやったせいでうまくいかなかった。だがアトリエに慧は立ち入り禁止で入れない。ここなら瑠の本当の言葉を聞けると爽花なりに考えた。
「じゃあ俺の言うことも聞いてもらいたいね。お前はまるで自分が正しいって言い方だけど、全く共感できねえよ。俺がどうしたいかは俺が決める。独りでいるのが幸せって奴もたくさんいるだろ。みんながみんな一緒じゃない」
「そ……それはそうだけど、後悔したら嫌じゃない。先生も寂しくて泣いたんでしょ。瑠は先生にそっくりだから、きっと同じ目に遭うよ。瑠が泣いてる姿なんか」
そこで口を閉じた。かなりイラついた表情で瑠が睨んでいた。
「構うなって何回言わせるんだ。さっさと消したい記憶をほじくり返すのが楽しいなんて悪趣味な女だな」
返す言葉を失った。確かに繰り返して瑠も辟易しているに違いない。いい加減にしろと怒鳴りたくもなる。黙っていると瑠は爽花を無視して手を動かし始めた。
瑠が孤独を選ぶのは、ただ先生を追いかけているだけではない気がした。最初から自分は不幸なんだと勘違いしているという意味だ。爽花が幸せと言うたびに睨みつけてくるならそうかもしれない。お前たちは楽しく過ごせていいな、こっちは苦労ばっかりなのにと恨んで憎んで、違う世界の人だと関わろうとしないという気持ちだ。孤独の辛さを爽花たちは知らない。一人暮らしはしているものの、きちんと両親が待っているから孤独ではない。その点イチジクとは普通に接しているのは、イチジクも独りで生きている同じ世界の人だと考えているからか。無意識に机から古紙を取り出した。掠れて読めないが、爽花の心にはしっかりと残っている。あなたの絵はとても癒される尊い作品だから、誰かが必ず好きになってくれる。そして最高の喜びと愛を与えてくれる。
「いつか、瑠にも最高の喜びと愛が与えられるんだ……」
古紙を見つめながら呟いた。運命の人が瑠の絵を愛し、やがて瑠にも愛が届く。二人で愛し合いようやく幸せが訪れる。愛しい人がとなりにいて笑ってくれるだけで心が明るく照らされる。セルリアンブルーの空のように晴れやかになるのだ。そうしたらきっと慧との仲も良くなるし、アリアを母親と認めるに違いない。輝かしい毎日を送り渇いた胸が新しい愛で満ちる。先生と再会できますようにという願いは叶わなかったが、この願いはもしかしたら叶うかもしれない。
「そうだ、我慢してること聞かなきゃ……」
ふと慧の声が蘇ってきた。欲しがりではない瑠が何かを欲しがっている。しかしなかなか手に入りそうにはないもの。たぶん素直に答えてはくれないと思っていたが、じっとはしていられなかった。




