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一一四話

 瑠の言葉が耳の奥に響き、うつらうつらしかできなかった。なぜいきなりアトリエに来るなと話したのか。俺に構うなとは出会ってからずっと聞かされてきたが、アトリエに自由に出入りすることは許されていた。くだらないおしゃべりをしつこく繰り返したから嫌気が差したのかもしれない。ということは、黙って絵だけ見ていればアトリエに入っても叱られない。慧が用事があって爽花と離れなくてはいけない日は必ずアトリエに向かった。いつ慧が戻ってくるかわからない時は緊張でがんじがらめだ。ドアを開けて、だんだんできあがっていく絵を眺めて感動し心が軽くなる。余計なおしゃべりはやめて、一言も声をかけずにじっと絵しか見ない。本当は素敵だとか綺麗だとか褒めたいが、瑠の気が散る行動は避けた。爽花の気配に気づき、どうして来たのかという疑問を視線でぶつけてきた。爽花も同じく視線で、癒されたいんだと返した。上手く届いたかは不明だ。ふう、と息を吐いて瑠はまた手を動かし文句はなかった。やはりおしゃべりにイラついていたのだ。絵画の邪魔をしなければアトリエには来ていい。ゆっくりと瑠のとなりに移動し椅子に座ると、逆に瑠は立ち上がって距離を置いた。油彩絵具も机に置いて、腕を組んで俯いている。ふと慧の「瑠は何か我慢している」という言葉が蘇った。瑠は欲しがりではないため、一つも我慢するものなどないはずだ。本人が目の前にいるのに質問できないのは悔しいが、アトリエに来れなくなるくらいなら黙っていた方が賢い。

 なぜか椅子に戻って来ない瑠が不思議で、爽花も立ち上がって手を差し伸べて触れようとした。すると今度はアトリエから出て行ってしまった。

「……トイレかな?」

 呟き戻ってくるまで待っていたが、全く現れる気配がしない。荷物を置いたまま家に帰ってしまったのか。夕方の鐘が鳴り、爽花も諦めてアパートに帰った。

 風呂に浸かった状態で、瑠はあの後どうしたのか考えた。絵を描いていたのに爽花がとなりに座ったら立ち上がって、手を伸ばしたらアトリエから出て行く。普通は爽花など無視して描き続けているのに。まるで避けているみたいじゃないか。

「どうしたんだろう……」

 そっと独り言を漏らし、次もまた試してみようと決めた。

 一週間ほど経って、ようやくアトリエに行ける日がやって来た。ドアを開けて近寄ろうとしたがやはり逃げてしまう。距離を置いて決して爽花に触られないようにしている。以前は瑠の方から頬に触れて優しく笑ってくれた。あれはまさか夢だったのか。とにかく爽花を遠ざけておかしな態度をとった。そのせいでキャンバスに色を塗れない時もあった。

 瑠に避けられる度に慧からの愛情が増えていく。ストレスが溜まって全身が汚れていくようだ。

「また瑠と散歩したい……」

 そっと小さく漏らしても意味はなく、はあ……とため息を吐いた。

 同じ毎日が続き、ある休日に街をぶらぶらと歩いた。慧からの誘いもなく、心も清々しかった。もしかしたら会えるのではないかと、初めて瑠が穏やかになった公園に行ってみた。子供たちが遊んでいて賑やかで、元気な掛け声は爽花の心を明るくしてくれる。

「そういえば、慧の言ってたやりたいことって何だろう」

 高校生が狭い場所で邪魔されず異性とやりたいこと。子供にはわからず大人にはわかる。それは、子供にはできないけれど大人になったらできることという意味だろう。だが答えはたくさんあって選べない。仕事や結婚などたくさんある。

「どうしてここにいるんだよ」

 背後から声が聞こえて振り向いた。声の主は顔を見なくてもわかった。

「あれ? 瑠」

「せっかく一人で歩こうと思ってたのに。言っておくけど、今日は付き合わないからな」

「言われなくてもわかってるよ。久しぶりだね。こうして会話するの」

「俺に構うなって言ってるのに。俺はお前とは赤の他人で無関係なんだから」

 ぶんぶんと首を横に振って、むっとした。

「無関係じゃないよ。友人ではないけど、あたしはアトリエに出入りしてるし、それに」

「だからアトリエには来るな。二度と来るなよ」

「そんな寂しいこと言わないでよ。あたしは瑠が癒しで、アトリエは心のよりどころなの。失くせないよ」

「俺が癒し? 変な奴だな」

 抑揚のない口調で残念だ。この気持ちを真っ直ぐ瑠に伝えたかった。

「瑠の勝手でアトリエに来るなって酷いよ。あたしがしつこく話しかけてイライラするなら、絶対にしゃべらない。ただ絵だけ見て帰る。それならアトリエに行ってもいいでしょ?」

「話しかけられてイライラしてるんじゃない。俺もお前も幸せになるために来るなって考えてるんだ」

「幸せ? 孤独で幸せなんかつかめないよ。ドジで半人前なあたしでも、誰かがそばにいれば独りぼっちにはならないよ。別に瑠と仲が良くなりたいって期待してないもん」

 ぐるぐると頭を回し、返す言葉を探す。焦っている爽花を、瑠は呆れた表情で見下ろした。

「この前は優しくしてくれたのに……」

 そっと口から漏れたが瑠の耳には届かなかったようだ。せっかく会えたのに瑠はすたすたと歩いて行ってしまう。

「ま、待ってよ」

 慌てて追いかけると、顔を合わせないまま瑠は呟いた。

「さっき、付き合わないっていったよな」

 はっと体が固まった。爽花とおしゃべりなんか楽しくも何ともない。しつこくつきまとわれて辟易しているのかもしれない。アトリエに来るなといったのは、そういう気持ちだからだ。

「わかってる。……あたし、瑠を無関係だと思ってないよ」

 はっきりと伝えたが、さっさと瑠はその場から立ち去った。

 あの日の瑠の姿が蘇ってきた。ほんの少し、ほんの一瞬だけ瑠が笑ってくれた日だ。瑠の方から触れて、どきどきが止まらなかった。瑠のガチガチに凍った心の扉が開く時が来たと確信していた。しかしその後慧が邪魔をし、瑠はダンマリで暗い性格に戻ってしまった。またいつかこうして二人きりで散歩をしようと言い、瑠が素直に頷く。そういう結果にはならなかった。本当に慧は邪魔ばかりする。爽花と瑠の仲を引き裂こうとする。爽花を束縛し瑠を檻に閉じ込めて、わがままや妄想で爆走する。かといって性格が悪いわけではない。たくさん世話も迷惑もかけているのに微笑んで許してくれる王子様なのだ。もし爽花が慧を酷い奴だと呼んだら、周りから白い目を向けられるだろう。仕方なく爽花もアパートに帰った。瑠の冷たい声だけが胸に残っていた。



「あいつ……。一体どうしたんだろう」

 慧の独り言に目が丸くなった。あいつとは瑠のことだ。

「どうかしたの?」

「瑠は何か我慢してるって話しただろ。欲しがりじゃないのに。一体何を我慢しているのか、どうして我慢しなきゃいけないのか、俺にはわからないんだよ」

 同じ家に住んでいる慧も不明では、爽花は答えが見つからない。瑠がどういう暮らしをしているか知らないため無理だ。

「逆に、瑠が欲しがるものっていったら何だろう?」

 爽花の質問に、今度は慧が目を丸くした。

「やっぱり油彩道具かな? だけど別に我慢しなくてもいいよね? よく買いに行ってるし、すでにたくさん持ってるから特に欲しい道具はないと思うよ」

 そこで口を閉じ、慧は視線を逸らして囁いた。

「……我慢ってことは、この世の中でただ唯一のものなんだろう。誰にも奪われたくない、取られたくない、自分だけのものにしたい。でも簡単には手には入れられない。きっと生きがいなんだろう」

「生きがい?」

 瑠には生きがいがないと聞かされた。絵が描けるなら、油彩だけあれば問題はないと話していた。ついに瑠にも生きがいが見つかったのか。

「瑠の生きがいって……。何だと思う?」

「俺には想像できないよ。あいつは自分の気持ちは絶対に教えないから。双子の弟の俺にも、あいつの心の中は見抜けないよ」

 一番関係が近い慧にさえ瑠の想いは通じないのだ。その点、先生はすぐに瑠を我が子にできた。先生の作品はとても素晴らしかったのだろう。先生に出会わなかったら画力の才能を知らなかったし、いつまでも独りぼっちだった。

「アリアさんは知ってるかな?」

「母さんはもっとわからないよ。そもそも瑠と母さんはほとんど会話をしたことがないんだ。母さんが瑠に一方的に声をかけてダンマリで無視されて傷ついてるだけだよ。だんだん母さんも瑠と話すのをやめようって思ってるし、爽花が瑠に酷い目に遭ってないかって心配してる」

 酷い目ではないが、確かに冷たくぶっきらぼうな態度をとられて空しくなったり悲しくなったりしている。大事な娘を護るため、アリアもいろいろと決めているようだ。

「そっか。ありがとう」

 にっこりと笑うと、慧も優しく微笑んだ。

 瑠の謎が増え続け、もやもやしながらアトリエに向かった。慧が先に帰ったためチャンスが来たのだ。ドアを開けるといつもの瑠がいた。名前を呼ぼうとして慌てて口を閉じた。瑠の気が散る行動はとってはいけないことを忘れていた。くだらないおしゃべりをし睨まれるのは嫌だ。となりに移動するのもやめて、ドアの前で立ったまま絵を眺めた。キャンバスの中のイチジクの庭がほとんどできあがっている。イチジクに渡してあげたらきっと喜ぶ。

 突然、瑠がくるりと振り返り爽花に視線をぶつけた。どきりとして冷や汗が額に滲んだ。

「……お前な、俺に構うなってどれほどいえば聞くんだよ」

 どうやら答えてもいいらしい。爽花も真剣な眼差しで口を開いた。

「それはあたしのセリフだよ。どれほどいえば、その殻にこもろうとする考えがなくなるのよ。あたしは瑠が孤独のままでいるのが可哀想なの。渇いた胸に暖かい愛が注ぎ込まれて初めて幸せになるんだよ。先生は亡くなったから、次に愛を与えてくれる人を探さなくちゃ。そうしないと絶対に後悔する。先生だって奥さんが亡くなって泣きながら過ごして、瑠というもう一つの愛しい存在を見つけたんだよ。どうして先生の真似をしないの?」

「俺は、たとえ先生が亡くなっても生きていける。実際にこうして元に戻れたんだから。お前だってよく知ってるだろ」

 古紙に書かれた文章で、瑠は消えてなくなりたい地獄から抜け出せた。そして一人で毎日暮らしている。全く持ってその通りだが、真っ暗闇にぽつんと置いておきたくない。

「そう……だけど……」

「そろそろやめないと、あいつに疑われるぞ。自分からあいつを怒らせるのか? しかも俺とのバラせない秘密がごろごろあるんだぞ。あいつの耳に入ったら何が起きるか想像してみろよ」

 慧の存在が消えていた。たぶんただではおかない出来事になるのはすでに予想している。消えてなくなりたい地獄に堕ちる。爽花が返す言葉がなく黙ったため、瑠はまた絵を描き始めた。爽花の気持ちが瑠に伝わらなくて、残念で堪らなかった。

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