一一三話
翌日は朝から慧がそばにいたためアトリエには行けなかった。しかしたぶん行っても帰れと冷たくあしらわれて終わりだ。なぜあんなにぶっきらぼうだったのか……。
「なあ、爽花。あいつと何かあったのか?」
ぎくりとして首を横に振った。
「別に何もないよ」
「そっか。それならただの妄想かな」
詮索ではなくあっさりとしていて安心した。だが妄想という言葉が心に引っかかった。
「妄想って? どうかしたの?」
「大したことじゃないんだけど」
そこで口を閉じ、爽花に質問してきた。
「高校生男子が、同い年の女の子と二人きりで、誰にも邪魔されない狭い場所でやりたくなることって何だと思う?」
「高校生男子が同い年の女の子とやりたいこと? えっ……? 何だろう……」
想像してみたが浮かばなかった。すると慧は爽花の頭を撫でて苦笑した。
「わからなくていいんだよ。爽花はまだ子供なんだな。子供のままの爽花でいてほしい」
褒められているのか複雑だったが「ありがとう」と返しておいた。
「大人になると、その……やりたいことがわかるの?」
「たぶん爽花はわからないんじゃないかな。性格が素直で純粋だとね。ちょっと考えを変えるとわかるんだけど、そんなこといちいちしなくていいよ」
「うん。ずっとわからないままでいるよ」
にっこりと笑ったが疑問は胸に残っていた。子供にはわからず大人になるとわかる男子のやりたいこととは。つまりちょうど瑠と慧がやりたくなるという意味か。二人きりでこっそりとやりたいことがあるとしたら、どんなことが挙げられるだろう。誰もいない場所で隠れながら。瑠の場合は絵を描く、慧の場合はデート。人それぞれやりたいことが異なっている。
「その質問と瑠に関係があるの?」
「もしかしたらって思っただけだよ。気にしないで」
さっさと話を終わらせて慧は歩いて行った。意味がわからなかったが、深く追い詰めても仕方ないと爽花も諦めた。
アトリエに行くチャンスはなく、しばらく慧とだけ仲良くしていた。瑠に会いに行っても帰れと言われるだけだと自分に言い聞かせると、心は少し軽くなった。一つ残念なのは、爽花への態度が戻ってしまったことだ。少しずつ爽花に近付こうとしていた感じなのに突然気が変わっていた。慧とのひとときが増えるにつれ、瑠との距離が遠くなっていく。しつこい、うるさいと煙たがれる存在になっていく。同時に慧が最近の瑠について話した。
「あいつ、アトリエで絵を描く理由が前と違ってる。我慢するために絵を描いてる」
「我慢?」
瑠が我慢するものなどないだろう。欲しがりじゃないし願っても与えられないと始めから決めつけている。
「おまけにかなり頑固にもなってる。もっと独りになりたがってるよ」
「えっ? 独りになりたがってる? だめだよ。瑠は孤独になっちゃいけないっていっぱい教えたのに。慧も、お前は一生独りなんて余計なこと言わないでよ。そのせいで瑠は独りぼっちになろうと頑張っちゃうんだよ」
睨んで責めると、ふん、と慧は横を向いた。謝る気は一切ないという感じだ。
「……ところで、今度また図書館で勉強会しようよ。慧が家庭教師になってくれると助かるんだ」
「勉強? いいよ。いつにしようか?」
「今週の土曜日にでも。どうかな」
「構わないよ。じゃあ図書館の前で待ち合わせでいいね」
うん、と爽花が頷くと、ちらりと慧が遠くを睨んだ。慌てて爽花も視線を移したが、ただの壁しかなかった。
「どうしたの?」
「いや、何でもないよ。勉強会楽しみにしてる」
「いつも付き合ってくれてありがとう。迷惑かけてごめんね」
ぎゅっと抱き締めたが慧は笑わなかった。またどこか遠くを睨んでいた。
土曜日はセルリアンブルーの空で、すっきりとした天気だった。勉強も問題なく終わり、感謝を告げて別れた。本当は喫茶店にも行きたかったが、その前に慧に「今日はこれで」と言われてしまった。アパートの近くで、背の高い男子が立っていた。シルエットだけで瑠だとわかった。
「瑠? どうしてここにいるの?」
「お前に言いたいことがあって」
嫌な予感がし、ぎくりと冷や汗が流れた。
「言いたいことって?」
どきどきしながら聞くと、瑠は迷いなく答えた。
「アトリエにはもう来るな。二度と」
「ええっ?」
驚いて固まってしまった。二度と来るなとは予想していなかった。
「やだよ。瑠、孤独になっちゃうよ。スケッチブックも真っ黒だし、殻にこもっちゃだめだってば。慧に怒鳴られたからって従わなくてもいいじゃない」
「従ってるんじゃない。俺の本心から来るなって言ってるんだ。あいつは関係ない」
「あたしは瑠が幸せになるのが一番の願いなの。愛に満ちて幸せになってほしいの。二度となんて酷いよ」
「俺はすでに幸せだ。独りでも幸せになれる。これ以上アトリエにいると大変な目に遭うぞ。消えてなくなりたい地獄に堕ちたくないだろ」
低いトーンで瑠は答えた。確かに地獄には堕ちたくないが、孤独では幸せになれないのは知っている。
「瑠。あのね」
「俺もお前も幸せに生きていくには、アトリエに来たらいけないんだ。二度と来るな」
そのまま歩き始めた瑠の背中に勢いよく抱き付いた。
「二度と来るななんて寂しいよ。あたしがドジで半人前で馬鹿な性格だから? イライラするから? あたしに興味がないから? 嫌われてるのはすでに知ってるよ。でもだからっていきなり」
「いきなりじゃない。俺に構うなって二年も前から言ってきたのに、お前はしつこく追いかけてきたってだけだ。俺がいなくてもあいつがいれば充分だろ。じゃあな。もう来るなよ」
爽花の腕を大きく振り払い、瑠は早足で行ってしまった。取り残された爽花はしばらくその場に立ち尽くしていた。




