一一一話
目を薄っすらと開けると、カーテンの隙間から陽の光が差し込んできた。
「ああ……。朝か……」
呟いて壁の時計に視線を移して、がばっと起き上がった。十一時半を過ぎていた。
「嘘でしょ? あたし何時間寝てたの?」
慌ててベッドから出て制服に着替えた。朝食を食べている時間はないため水を一杯飲み、それで終わらせた。玄関で靴を履いていると、突然頭の隅で無駄だという声が聞こえた。今さら学校に行っても仕方ない。今日は仮病を使って休んでしまおう。なまけたいという気持ちが強く働き、居間に戻って私服に着替え直した。一日くらい休んだって問題ない。具合が悪かったと誤魔化せば済む。バックを持って外に飛び出した。久しぶりにぶらぶらと散歩をしようと決めた。ちょうど天気もすっきりしているし、自由なひとときが過ごせる。しかもクラスメイトは授業を受けているから邪魔されない。買うつもりではないが、店に入ってアクセサリーや服を探した。こんな可愛い格好ができたらと想像するだけならお金は必要ないし、楽しい暇つぶしになる。店員から話しかけられると面倒なので長居はしない。好きな店を巡り歩いていると、何かオーラのような感覚が漂ってきた。ふと顔を向けると背の高い男子が遠くに立っていた。瑠だと確信した。急いで駆け寄って、「瑠」と呼んでみた。別の人だったら恥ずかしかったが、直感は当たった。
「お前、学校は?」
「休んだの。一日くらいなまけてもいいでしょ」
「受験生なのにずいぶんと余裕だな」
「息抜きってことよ。毎日勉強じゃ疲れちゃうもん」
腕をぐっと掴み、離れないようにした。瑠は特に嫌がる素振りもなく黙った。
「瑠はどこかに行くの? 買い物? イチジクさんのお屋敷?」
「ただの散歩だ。部屋に引きこもっててもしょうがないしな」
アリアに追い出されたのではないと安心した。ほったらかしにされる瑠が可哀想で堪らない。
「じゃあ二人で歩かない? あたしも散歩なの。一人より二人の方が嬉しいじゃない」
緊張しながら瑠の顔をちらりと覗くと、いいとも嫌だとも答えずに瑠は歩き出した。すたすたと速く、さっさと進んでしまう。人ごみに消えていく瑠の背中を眺めて、はあ……とため息を吐いた。
「お断りか……。まあドジで半人前のあたしと一緒にいたくないよなあ……」
小声で独り言を漏らし俯いた。それと同時に涙もぽろりと零れた。瑠は爽花に興味を持っていない事実と、告白してフラれた空しさが襲いかかって来る。
「もういいや。帰ろう……」
くるりと振り向き足を踏み出すと、ぐいっと背中から手首を掴まれた。
「おい、どうしてついて来ないんだよ」
「えっ?」
驚いて目が丸くなった。瑠は呆れた表情で爽花を見つめる。
「二人で歩きたいって言ったのはお前だろ。どうして来ないんだ」
「だ……だって、嫌なんじゃないの?」
「嫌なんて言ってないだろ。もし嫌ならそう答える」
そういえば瑠はダンマリな性格だったと思い出した。むっとして爽花も言い返した。
「それなら、いいって答えてよ。黙ってたらわからないでしょ。あたしは瑠の心の中を読める超能力者じゃないんだから」
「わかってる。で、どうするんだ? 歩くのか? 帰るのか?」
「もちろん歩くよ」
にっこりと微笑むと、瑠も小さく頷いた。
爽花より瑠の方が速く、並んで歩くというより走って追いかけている感じだ。呼吸も荒くなり胸が痛い。
「ちょっと待ってよ」
喘ぎ声で言うと、瑠は足を止めて振り返った。
「何だよ」
「置いていかないで。あたしの方が遅いんだから……」
はあはあと息を落ち着かせていると、瑠は爽花のとなりに戻ってきた。慧は女の子との付き合い方をよく知っているから常に爽花のペースで歩いてくれる。たぶん瑠は他人の歩幅などいちいち気にせず暮らしてきたから、こうして自分のペースで行ってしまうのだ。
「もっと早く歩けないのかよ」
「男の子と女の子は違うの。あたしは運動神経もよくないし、ゆっくりじゃないとはぐれちゃうよ」
それもそうかと考え直したのか、瑠も速度を落として歩き始めた。瑠と付き合う女の子は苦労しそうだと改めて感じた。
行く当てもなく散歩をし、公園のベンチで休憩した。子供も学校で一人もおらず、爽花と瑠しかいない。公園といえば、初めて瑠にプレゼントしたバレンタインチョコが蘇った。慧にバレてしまうと渡せず、公園のゴミ箱に捨てた。せっかく作ったチョコを食べてもらえず悲しかった。その後も誕生日祝いで手袋をあげたが、結局慧に壊された。瑠のキャンバスもへこみ、大事な先生のスケッチブックも墨で塗りつぶされた。本当に慧は爽花と瑠を引き裂くためならどんな邪魔もする。とても優しく頼りがいのある王子様。しかし裏には嫉妬深くわがままな面も隠れている。美しく魅力に溢れているのだから、心も清くすれば完璧になれるのに。これは生まれつきで自分では治せないが、少しは我慢をしたり大人っぽい振る舞いをしてほしい。
「瑠って、泣いたことはあるの?」
疑問が生まれた。慧が泣く姿は知っているが瑠が泣く姿は知らない。喜怒哀楽が瑠から感じられない。
「俺が? いつ?」
「たとえば、悪者って言われたり白い目を向けられたり。泣いたりした?」
先生が亡くなった時に瑠は泣き喚いたとアリアが教えてくれた。それ以外に瑠が涙を零した時はあるか。
「覚えてねえな。泣き虫じゃないし。あいつはよく泣くけど」
「あたしも慧の涙は見たよ。悔し泣き。瑠に負けっぱなしっていう涙だよ。慧は瑠にだけは勝てないって嘆いてるよ。非の打ちどころがない慧が悔しがるなんてびっくりだった」
瑠にだけは勝てない。それはやはりわがままですぐ妬んでしまうという理由だろうか。愛しているはずの爽花まで傷つけて宝物を壊した後に、一言「ごめん」と謝ればいいという行為には辟易だ。今回のスケッチブック事件は謝りもしない。むしろ爽花を睨み、瑠と離れ離れにしようとあからさまな態度をとった。確かに瑠は爽花に興味を示していないし信用していない。仲良くなりたくても無理だ。だからといってほったらかしにはできず、慧とおしゃべりをしていても頭の隅に瑠が浮かんでいる。
「ふうん。負けっぱなしか。俺はあいつと勝負してるつもりはねえんだけどな」
「双子だから余計気になっちゃうんだね。瑠にはできるのに慧にはできないって比較されるとイライラするみたい。あたしは兄弟がいないから、その悔しさはわからないよ」
カンナとマリナのように喧嘩をしない姉妹もいれば、瑠と慧のように犬猿の仲の兄弟もいる。一人っ子の爽花には体験できない。よくよく考えたら爽花も孤独だ。親がいなくなっても兄弟がいれば独りではないが、一人っ子は完全に独りになる。そうなる前に愛しい存在と繋がらなければいけない。俯きかけた顔を上げると、セルリアンブルーの空が広がっていた。雲一つない快晴は、暗い悩みや迷いを解消し癒してくれる。
「ねえ、セルリアンブルーだよ」
指差してとなりの瑠に言うと、瑠も空を眺めた。
「綺麗だな……」
「ねっ。爽やかだよねえ……。特別な青だよ。あたしのサヤカっていうのも爽やかな花っていう漢字なんだ。だから幼い頃から爽やかなものが大好きなの」
「へえ……。でもお前自身は爽やかじゃないし、花みたいな可愛さもないな」
「し……失礼でしょ。しょうがないよ。あたしだってドジで半人前な女の子で生まれたかったわけじゃないの。そういう外見について本人に話すのはだめだよ。思っても口に出しちゃだめ」
突然、瑠が手を伸ばして爽花の頭を撫でた。さらに小さく笑っている。衝撃で石のように固まってしまった。
「冗談だよ。真に受けるな。まあ、素直でいいけどな」
どきどきと鼓動が速くなり頬が赤くなった。まさか瑠が笑うとは夢にも思っていなかった。しかもドジな性格を褒めてくれた。撫でていた手はやがて髪に触れ、熱くなった頬に移動した。興奮して体が震えそうになるのを必死に抑えた。
しばらくその状態のまま座っていた。セルリアンブルーの空の下で、二人きりで触れ合っていた。瑠に抱き付きたかったがもちろん勇気はなく、ずっと固まっていた。




