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一〇九話

 雷が降りかかったのは月曜日だった。アトリエに向かうと瑠は椅子に座ったまま俯いていた。油彩道具も出していない。異様な光景にぎくりと冷や汗が流れた。

「あれ? 今日は絵は描かないの?」

「毎日はやっぱり疲れるしな。たまには息抜きもしないと……」

 爽花に視線を合わせずぼそっと呟いた。一体どうしたのかと近付き、瑠が持っているものに目が丸くなった。先生の形見でもあり花束でもあるスケッチブックを開いたまま持っている。しかしそのページは真っ黒に塗りつぶされている。墨だと直感した。

「これ……。る……瑠が……」

「俺がするわけないだろ。朝起きたらこうなってた」

「す……墨だよね……?」

「そうだな。全ページ真っ黒にぶちまけられてるよ」

 瑠がページをめくって見せた。綺麗な鉛筆画が消えてしまっている。鉛筆画どころか、白い部分がどこにもない。ふと慧の「買いたいものがある」という言葉が蘇った。あれはもしかして墨を買うという意味だったのだろうか。

「まさか慧が……」

「あいつしかいないだろ。むしゃくしゃした腹いせにやったんだろ」

 ふう、とため息を吐いて瑠はスケッチブックを閉じた。きっと瑠が爽花と二人きりでいることが気に食わなくてめちゃくちゃにしたのだ。

「ひ……酷い……。酷すぎる……。どうしてこんなこと……」

「昔からそういう奴なんだ。とにかく俺を嫌がって家から追い出したいって願ってる奴なんだよ」

「待ってよ。このスケッチブックは先生が描いたものなんだよ? 二度と手に入らないスケッチブックなんだよ? どうして平気でいられるの?」

 もう先生は亡くなってしまった。二度と同じ絵を描ける人はいない幻の一冊だ。それだけではなく瑠にとってこのスケッチブックはかけがえのない宝物なのだ。形見でもあり花束でもあり、決してなくしてはいけないたった一つの生きがいだ。それが現在真っ黒に塗られ、何も見えなくなった。慧だって瑠が先生を愛している事実を知っているし、お守りとして大事に持っていたことも知っているはずだ。あまりの衝撃に涙も流れなかった。全身が震えて氷のように冷たくなっていく。

「信じ……られない……。こんな酷い……。酷いことするなんて……」

 掠れた声で呟くと、瑠も口を開いた。

「仕方ないだろ。元に戻せないんだ。いちいち悔やんでも無駄なだけだ」

「そうだけど許せないよ。いくら嫌いだからって、スケッチブックをぐちゃぐちゃにはしないよ。悔やんでも無駄なんて、よく冷静でいられるね。仕返ししてやろうとか思わないの?」

 ようやく瑠は爽花の顔に視線を向けた。瞳が黒く沈んでいる。

「知ってるか? 仕返しをすると余計惨めになって傷つくんだぞ。仕返ししたからってスケッチブックが白くなるわけじゃないし無駄なんだよ」

 静かなのに強い口調に驚いた。爽花なら絶対に仕返しをする。相手の生きがいも粉々に砕けてしまえと思う。確かに惨めは嫌だが、それでもやはり許せない。

「あたし、慧に怒鳴ってくる。どうして塗りつぶしたのって聞いてくる」

 素早く後ろを振り返ったが瑠に手首を掴まれた。

「お前には関係ないだろ。わざわざ傷つきに行くのかよ」

「だ……だって……」

 瞼に涙が溢れた。ぽろぽろと頬を伝って床に落ちていく。恥ずかしいが止められない。

「俺がいいって言ってるんだ。お前は何もしなくていいんだ。これはしょうがない。諦めるしかないんだよ」

 少し動揺しているようだ。爽花の泣いている姿に緊張しているみたいだ。うん、と頷き手の甲で涙を拭った。

 並んで椅子に座り、「あたしにも見せて」と言うと瑠はスケッチブックを渡してくれた。全ページ墨で塗られて鉛筆画は消えていた。痛々しい想いでまた涙が流れた。

「泣いてると疲れるぞ」

「うん……」

 スケッチブックを返してがっくりと項垂れた。

「……捨てるしかねえな」

 瑠の呟きが聞こえて、はっと顔を上げた。

「捨てちゃだめだよ!」

 大声で叫び、椅子から立ち上がった。自分でも驚くほどの大声だった。

「捨てちゃだめだよ! これを捨てたら、瑠は完全に孤独になるんだよ! 先生の大事な花束を黒く汚されたからってさっさと捨てちゃうの? もしいらないならあたしがもらう! 絶対に捨てたらだめだよ!」

 これがあるから瑠は何とか先生と繋がっていられるのだ。これがあるから、独りぼっちでいても絵が描けるのだ。先生は瑠を忘れず一緒にいるために頑張って花を描いて愛している我が子に贈った。爽花の勢いに瑠は言葉を失って固まっていた。

「あたしは、瑠が独りになるのが辛いの。悪者じゃないのにほったらかしにされて白い目を向けられて助けてくれる人も護ってくれる人もいない瑠が可哀想なの。ドジで半人前なあたしに可哀想なんて言われて頭にくるかもしれないけど、本当に瑠を見てるだけで空しくなる。もう……孤独にならないでほしい……」

なぜ血も繋がっていない瑠を大事に想うのか自分でもわからなかった。ただ悲しくて寂しい気持ちになるのはわかった。ほんの少しでも瑠が愛を受け取り渇いた胸が温まるのを願い、ほんの少しでもそばにいてあげようとしていた。周りから変わっていると呼ばれても瑠に冷たく突き放されても、ずっと追いかけてきた。もしかしたら先生の妻も爽花と同じだったかもしれない。暇さえあれば先生のアトリエに行き、決して帰ろうとしなかった。どんな日々を過ごしたかは知らないけれど、たくさん作品を褒め応援し続けただろう。やがて二人の間に愛が芽生え、油彩によって結ばれた。瑠と先生はそっくりなため、きっと瑠も油彩で結ばれるだろうとアリアは話していた。最高の喜びと愛を与えてくれる人を瑠も待っている。

 はあ、とため息を吐いて爽花は椅子に座り直した。スケッチブックの大切さが瑠に届いていればいい。スケッチブックを捨てたら瑠は生きていけなくなる。爽花を信用していないから、何を興奮しているのかと呆れているはずだ。自分勝手な行動に辟易しているかもしれない。

「……うるさくして……ごめん……」

 視線を合わせず謝ると、突然瑠が手を伸ばし爽花の涙を拭った。

「えっ? な……なに……?」

 慌てて瑠の顔を見つめると、すぐに瑠は手を引っ込めた。

「いや、別に……」

 珍しく焦った表情で呟いた。その態度から爽花もどきどきと鼓動が速くなった。黙ったままでいると次は手を握り締めてきた。体が熱くなり同時に緊張も表れた。なぜか一瞬、心の奥でアリアの言葉が響いた。「もし瑠が明るくなったら、爽花ちゃんは慧と瑠どちらを選ぶの?」という質問だ。しかし本当に一瞬で、すぐに消えてしまった。

 その状態で二人ともじっとしていた。しばらくしてどちらからともなく手を放し、鼓動は治まった。

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