一〇八話
待ち合わせは爽花の方が早かった。図書館の前に立っていると、慧が走ってきた。
「ごめん、遅くなって」
「いいよ。あたしも今来たところ」
すぐに笑ったが、慧はどこか遠くを睨むように見ていた。
「どうしたの?」
不安になって爽花が聞くと、はっと目を丸くして苦笑した。
「いや、何でもないよ」
抑揚のない声で、また不安が募った。
「さっそく勉強始めよう。余計な時間を作ったらもったいないし」
「……うん」
素直に頷き図書館に入った。一番奥の席に並んで座り、教科書などを広げた。しかし慧は俯いて石のように固まっている。
「ちょっと……どうしたのよ?」
腕を揺すると、顔を上げて爽花に視線を移した。
「えっ? ……ああ、ごめん」
「ぼうっとして……。どうしたの? 具合悪いの?」
「違うよ。心配しないで」
しかし明らかにおかしかった。ペンを持ったまま身動きせず、やけにため息を繰り返す。びくびくして爽花もほとんど勉強に集中できなかった。喫茶店に行きたいとも言えず、いつの間にか外が暗くなっていた。お茶は仕方なく諦め、そろそろ帰ろうと爽花が話すと慧は黙ったまま頷いた。
道を歩き、ふと空を見上げると星がきらきらと輝いていた。ちょうどそこには爽花と慧だけの二人だけで周りに人がいなかった。そのおかげで空気が澄んでいて美しく光ったのだ。
「ロマンチックだねえ……。映画のシーンにありそう」
突然慧が背中から抱きしめてきた。強くて熱い体温がそのまま伝わった。どくんどくんと爽花の体温も熱くなる。
「け……慧……」
「愛してるよ、爽花。本当に……爽花が大好きで堪らない。爽花が俺のものになるなら死んだっていい」
どきんどきんと鼓動が速くなっていく。痛いほど慧の想いが心に溢れた。
「死ぬなんて縁起でもないこと」
言い終える前に慧の唇が重なった。驚いて心臓が止まりかけた。
「爽花が欲しい……。欲しくてしょうがないんだ……。どうか俺のものに……。俺の恋人になってくれ」
ぽろぽろと慧の涙が頬に当たった。緊張でがんじがらめになり、違う意味で心臓が跳ねた。
「な……泣かないでよ……。慧が泣いてるところなんか……」
掠れた声で囁いたが、慧の涙は後から後からこぼれ落ちる。これと同じ出来事があった。瑠にだけ勝てないと悔し泣きした時だ。非の打ちどころがなく全て手に入れている慧が負けっぱなしと項垂れて衝撃を受けた。瑠だけには勝てない。あいつには絶対に負けてしまう……。あの時は慧は負けてないよと励ます余裕があったが、今回は口から言葉が出なかった。爽花が欲しいからと束縛し、疑って詮索しておまけに宝物を壊した。爽花と瑠が触れ合わないように邪魔をし、愛しているはずの爽花まで傷つけた。いつも穏やかで優しい王子様の裏の面を知って、考えも変わっていた。
「大丈夫だよ。あたしは慧のそばにずっといるよ」
「そばにいるだけじゃなくて恋人同士になりたいんだ。爽花と一心同体になりたい」
「……慧……。まだ告白の返事は」
「期待してていいんだよな? 願いが叶うって信じてもいいんだよな?」
戸惑って爽花は頷けなかった。焦りで冷や汗が噴き出す。今日一日中おかしかったのはこのせいか。
「まだ答えられないの。必ず返事はするから、待ってて」
「どれくらい待てばいいんだ? 爽花の返事をひたすら待ってるのに、いつまで待てばいいんだ? 頼むから卒業式の前に聞かせてくれ。それ以上は待てない。我慢もしない。本気で爽花を奪うから。無理にでも彼女にするつもりだから」
無理にでもとはどんな意味だろうか。恐ろしくなって、力ずくで慧の腕から逃れた。
「ここにいてもしょうがないよ。早く帰らないとアリアさん心配するよ」
爽花に想いが届かなかったと慧は俯いて黙って歩き出した。夜でぼんやりとしか慧の姿が見えなくてよかったと感じていた。
いつまで経っても慧の低い声が耳の奥から響いてやまなかった。まるで獣のような慧に不安でいっぱいで嫌な予感もした。もちろん爽花が傷付くことはしないのはわかっていたが怖くて堪らない。慧の本性が王子様なのか詮索魔なのか獣なのか予想してみた。彼女が欲しい男子はみんなこんなに変化するものなのか。特に慧はわがままで確実に手に入れないと暴走する性格だ。もし慧が暴れたら消えてなくなりたい地獄に堕ちるかもしれない。明日からどんな顔でどんな話をすればいいだろう。布団の中でもやもやと想像し、いつの間にか朝になっていた。
学校に行くと昇降口で慧が背中から肩を叩いた。はっと振り向くと、すっきりとした笑顔だった。
「おはよう。喫茶店に行くの忘れちゃったね。ごめん」
「いいよ。いつだって行けるし。それより落ち着いた?」
涙を流したことだ。慧が泣くのは瑠に負けたくないという悔しさが理由だ。美貌も才能も有り余っているのに、一つだけ瑠に勝てる術を持っていないのだ。このままでいると爽花もあいつに奪われてしまう。今のうちに爽花の目に映るのは自分だけにしようという考えが手に取るようにわかる。
「大丈夫。男なのに泣くなんて情けないな」
「情けなくないよ。悲しい時は男でも大人でも泣いちゃうよ」
慧が怖かったとは言えなかった。言ったら今度は爽花が泣く羽目になる。
「せっかくだから、今週の土曜日にでも喫茶店に行こうよ。息抜きも必要だしね」
予想通り誘ってきた。素直に頷くと、満足そうに慧は微笑んだ。
特に問題はなく、待ち合わせの日になった。喫茶店の前で慧が立っていた。遠くからでも魅力が感じられ、すごいと改めてどきどきした。だが穏やかな面だけではなく嫉妬深いというもう一つの姿がある。爽花が欲しくて暴走する癖があるのは慧のだめなところだ。こういうのを玉に瑕と呼ぶのだろう。実にもったいない。きっと爽花が彼女になれば完璧な人間になる。どうか豹変しないで一日を過ごせたらとこっそりと祈った。
「慧、待った?」
「全然待ってないよ」
「そっか。よかった」
答えながらちらりとまた遠くを睨んでいないか盗み見た。今日は問題はなさそうだと安心した。奥の席に向かい合わせに座り、当たり障りのないおしゃべりをした。爽花の態度が素直であれば、慧も優しく接してくれる。
「去年は夏休みに海に行ったね」
ふと爽花が言うと、慧は少し笑みが固くなった。
「そうだね。夏祭りにも行ったよね」
「今年はさすがに遊ぶ暇はないよねえ……。もったいないなあ。せっかくの休みなのに。毎日慧に会いたいよ」
すぐに「なら俺の家に泊まればいい」と返事をすると思っていたが違った。苦笑で「仕方ないよ」としか答えなかった。きっとこれは、爽花が家にいたら瑠にも会ってしまうという意味からそう答えるしかなかったのだ。爽花とあいつの距離を縮ませてはいけない。もし自分が眠った後、爽花が瑠の部屋にいたら……。二人で隠れて何かしていると考えている。だがすでに爽花は瑠の部屋に入っているし、おまけに一つのベッドで寝た。いやらしいことをするつもりではないが、慧の耳に入ったらどんな酷い出来事が起こるかびくびくしている。消えてなくなりたい地獄はすぐ近くに存在していて、いつ地獄に堕ちるかはわからない。爽花はもともとドジだし尚更緊張する。
「だけどお茶を飲んだり祭りに行ったりはできるよ。あの花火、また見たいだろ」
「見たい見たい。浴衣だって着たいし、かっこいい慧とお祭りに行けるなんて嬉しい」
「じゃあ約束。俺が誘うから、爽花は待ってて」
「ありがとう……」
しっかりと感謝を告げると、柔らかな笑みが飛んできた。
とりあえず喫茶店の中では王子様でいてくれた。夕方になって外を歩いていると、慧が思いついたように足を止めた。
「そうだ。俺ちょっと買いたいものがあったんだ」
「買いたいもの?」
「うん。悪いけどここでお別れでいいかな」
「いいよ」
こくりと頷くと、慧は走って行った。
一人でアパートに向かいながら、なぜか胸騒ぎがしていた。今まで慧がデートで買い物に行きたいと話したことがなかった。最初から最後まで、素敵なひとときを過ごそうとしていた。別に大したことではないので、あまり深く考えないと決めて楽しいお祭りだけを頭に浮かべた。




