一〇六話
受験であたふたしている毎日の中で放課後にアトリエに行くことだけはやめなかった。慧も愛する爽花を傷つけたくないと考えているのか、話す内容は大学についてだった。優柔不断な爽花のために志望校を探してくれたり、難しい問題を教えてくれたり、頼りがいのある王子様となって接してくれる。休日は喫茶店でお茶を飲んで、周りからは恋人同士に見えるかもしれない。そんなある日、ようやく瑠がアトリエに来た。キャンバスに色を塗り、爽花の気配に気づいていない。
「瑠、久しぶり」
声をかけたが反応はない。いつものことなので気にせず、足を踏み入れ近づいた。
「ねえ、瑠に言いたいことがあるの。いい?」
しっかりとした口調でもう一度言ったが瑠は視線を移さず手を動かすだけだ。構わず爽花も続けた。
「あたしの持ってる特別な力ってなに?」
真っ直ぐ伝えたが瑠は知らんぷりだ。やはり素直に答えてくれる性格ではない。
「あたしね、みんなから特別な力を持ってるねって言われるの。だけど意味がわからなくて……。アリアさんが、瑠に聞けばいいって話したからこうやって聞きに来たんだよ」
すると一瞬瑠は反応した。動かしていた手を止めて、石のように固まった。
「ねえ、瑠」
「知らないな。そんな力なんか」
ぼそっと呟き、はっと爽花も目を丸くした。
「えっ……。でも、アリアさんが」
「知らないんだから答えようもないだろ。俺じゃなくてあいつの方が詳しいんじゃねえのか」
あいつとは慧のことだ。確かに爽花と一緒にいるのは慧の方が多い。
「それはそうかもしれないけど……。本当に知らないの?」
「知らねえよ。何回も同じこと聞くな」
ぶっきらぼうな口調に爽花も返す言葉を失った。もし教えてくれれば瑠との距離も縮むはずだ。
ふと、もう一つの質問が浮かびあがった。先生の妻が亡くなる前に書いた文章だ。瑠のとなりに座り、迷うことなく聞いた。
「瑠が、そうやって絵を描くのは、先生と離れたくないから? それとも最高の喜びと愛を与えてくれる人がここに来るのを待っているから?」
ぴたりと瑠の手が止まった。なぜ爽花がその文章を知っているのかと戸惑っているみたいだ。その状態のまま低い声で答えた。
「それを知って、何の役に立つんだよ」
「別に役に立つとか立たないとかじゃないよ」
一度そこで口を閉じ、軽く深呼吸してから口を開いた。
「慧とアリアさんが、先生はすでに亡くなってるってことも瑠が頭狂ったことも全部教えてくれたよ。俺のことなんか忘れてるって落ち込んでたのは先生がこの世から消えちゃったからでしょ。先生の手紙で元に戻れたけど、愛してくれる人は消えたまま。ずっと独りで瑠は絵を描くだけ。とても幸せとは言えないよ。瑠は過去を気にし過ぎなんだよ。変えられないのにいつもいつも過去が頭の中にあるから後ろ向きになっちゃうの。誰かと繋がろうっていう努力が足りないんだよ。瑠自身が変わらなきゃ、いつまで経っても孤独だよ。愛がないと人は生きていけないんだよ。先生は奥さんが死んでしまって悲しくて次に愛してくれる人を探そうと努力したから瑠に出会えたの。先生みたいに瑠も次に愛してくれる人を探さなきゃ。瑠は先生の真似をよくしてるけど、どうして大事なことを真似しないの?」
一気にまくし立てると、瑠は衝撃の目で爽花を見つめた。
「紙切れの文字もアリアさんが教えてくれた。私がいなくなっても、独りになっても、あなたは絵を描き続けて。どんなに寂しくても辛くても絵を描いて。いつかあなたの絵を探してくれる人が必ず現れる。あなたの絵はとても癒される尊い作品だから、きっと好きになってくれる。そしてその人はあなたに最高の喜びと愛を与えてくれる。だからあなたも最高の喜びと愛を与えてあげて。あなたが幸せになるのが私の一番の願いだから。奥さんは先生が寂しがり屋で孤独好きはただの強がりだって見抜いてたらしいね。瑠もただの強がりで、本当は寂しがり屋なんじゃないの?」
信じているのも愛しているのもたった一人しかいない。狭いアトリエで絵を描くしかできない。そんな人生を送りたいと思う人はない。以前、爽花は特別な誰かではないと恋に落ちないと瑠は言った。それと同じく瑠も特別な誰かでないと恋に落ちないのではないか。絵具で固まった蓋を溶かすように、固く閉ざされた心の扉を開ける運命の人がどこかにいるのでは。
「俺の知らないところでいろいろ調べてるんだな。あいつの詮索がうつったのか」
「詮索じゃないよ。ただ瑠がどんな人間なのか、正体を暴きたいだけ。三年間も一緒にいたのに謎に包まれているからね。卒業までに見破りたいの。悪者なのか。もし悪者だったら、どうして綺麗な絵を描けるのか」
瑠は悪者ではない。悪者でないのに表舞台に立てず裏に隠れなきゃいけないんだ。ほったらかしにされ白い目を向けられなきゃいけないんだ。瑠にも魅力や素晴らしい特技がある。むしろ慧よりたくさんいいところがある。口に出さないが、瑠だって輝かしい毎日を送りたいに違いない。
「謎って……。まあ好きな呼び方でもいいけど。正体暴きたいとか、お前って本当におかしな奴だよな」
「こちらこそ好きな呼び方でいいよ。ドジでも馬鹿でも、好きな名前で呼んでいいよ」
悪口は慣れっこだ。むっとした表情の爽花を見て、呆れたようにため息を吐いた。
「で、さっきの質問の答え聞かせてよ。瑠が絵を描く理由は何なの?」
脱線しかけたので本題に戻した。どうしても知りたかった。だが瑠は本心を言わない。
「いつも通り、妄想すればいいだろ」
「あたし、妄想人間じゃないよ。勘違いしてるけど、あたしは妄想好きなわけじゃないの。真剣な気持ちなんだから、瑠も真剣に考えてよ」
爽花の意外な態度に、珍しく瑠は目を丸くした。ずいぶんと成長したという目つきだ。この想いが届いたのか、瑠はようやく答えた。
「俺は絵を描くしか能がないんでね。幼い頃からできることは絵しかなかったんだよ。だからそのまま生きてるだけだ」
「嘘だよ。瑠は絵以外にももっとできることがあるよ。もっとやりたいことやほしいものがあるはずだよ。叶ってほしい願いはないの?」
しつこいが、瑠を孤独にさせ続けたくなかった。またそれか、と瑠は面倒くさそうに言った。
「だからもしあったとしても、お前は持ってきてくれないんだろ。俺が欲しいってねだっても誰も聞いたりしねえよ。無駄な時間は過ごしたくない」
そしてくるりと後ろを向いてしまった。
「瑠……」
急に可哀想になって、背中から抱き締めた。ぎゅっと腕に力を込めて胸に引き寄せた。
「放せよ」
「やだよ。瑠と離れたくないんだもん。瑠みたいなかっこいい男の子と二人きりでいるんだし」
「うるせえな。おだてれば友人になれると思ったら大間違いだぞ」
「おだててないよ。友人になろうって期待してないし。癒されたいだけだよ。瑠はあたしの癒しなんだもん。慧からは感じられない力を持ってるんだよ」
瑠の特別な力だ。特別な力は他人しか気づかない。自分で特別な力を気付くのは無理なのだろう。
「よかったな。ストレス解消人間が近くにいて」
「酷い。あたしは瑠をストレス解消人間なんて思ったこと一度もないよ」
すると瑠は爽花の手に触れた。素晴らしい作品を生み出す左手が、爽花の手の甲に覆っている。
「ふうん。じゃあどう思ってるんだよ」
「えっ?」
驚いて腕を外そうとしたが、瑠の手の力が強く放れない。
「あ……あたしが、瑠を……?」
「そうだよ。お前は俺のこと、どう思ってるんだ?」
どきんどきんと心臓が跳ねて止まらない。いきなり決められない。
「わ……わかんないよ……。そんなの……」
勢いよく離れて、慌ててアトリエから飛び出した。
いつまで経ってもどきどきが治まらず、頬が火照って全身が赤くなる。初めて瑠の方から爽花に触れて、体も心も興奮している。なぜこんなに鼓動が激しいのか。
「ど……どうして、こんなにどきどきしてるの……。あたしおかしい……」
ただ手が合わさっただけでここまで緊張するのは不思議だ。瑠をストレス解消人間と思っていないのなら、どう思っているのか。胸の奥の奥に、瑠を違うイメージで見ている自分がいた。その自分を隠し通せるか怖かった。誰にもバレてはいけない感情だからだ。また三十八度の熱が出るかと不安だったが、それはなかった。




