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一〇四話

 アパートに帰り、すぐに慧に電話をかけた。慧が声を出す前に爽花は口を開いた。

「今からお家に行ってもいいかな?」

「今から?」

 壁の時計は五時半を過ぎている。不思議なのも無理はない。

「アリアさんに会いたいの。今すぐ」

「母さんに会いたい? どうして」

「詳しくはそっちに行ってから。行ってもいいのかどうかだけ教えて」

「わ、わかった。迎えに行くよ」

「いい。一人で行ける」

 爽花の勢いに慧はかなり驚いていた。先生が亡くなったショックで泣いていたのに突然立ち直っている。慧の返事を待たずに一方的に電話を切り、制服のまま外に飛び出した。家の門の前で慧は待っていた。爽花を見つけると手を挙げた。

「ずいぶんと急いでるけど、どうしたんだ?」

「アリアさんに用事があるの。いきなりごめんね」

「いいよ。母さんも会いたがってたし」

 ありがとう、と告げるつもりだったが口が動かなかった。靴を脱ぎ急いでリビングに移動した。アリアはソファーに座り、優雅にお茶を飲んでいた。

「いらっしゃい。紅茶でいいかしら」

「お茶はいりません。それより質問させてください」

 焦っている爽花に、アリアは目を丸くした。

「質問って?」

「ここじゃなくて部屋で話したいんです。お願いします」

 頭を下げるとアリアは頷き立ち上がった。部屋に入り黄金の鏡台の近くで足を止めた。

「慧に聞きました。瑠の先生って、もう亡くなってるんですね。ショックを受けないように隠してたみたいですけど」

 アリアは悲しげに俯き、そっと答えた。

「……そう。先生は病気でお亡くなりになられて……。瑠と慧がアメリカに引っ越して一年くらい経ってからかしらね。友人もいないし家族とも離れてたから、発見が遅れちゃったの。親戚でもなかったから私たちの耳に届くのもかなり後で、瑠は狂ってしまった……」

 さらに俯き、視線を逸らして続けた。爽花も戸惑わないように拳を固めて身構えた。

「本当に地獄だった。瑠は暴れて泣き喚いて死にたいって叫んで……。慧は学校に通えなくて、仲良しのお友だちにもたくさん裏切られていじめられてたわ。二人とも可哀想で堪らなかった。パパは瑠を病院に連れて行って入院もさせたわ。もう二度と笑えないんだって、みんなが苦しんでた。先生が一人亡くなっただけで奈落の底に突き落とされるなんて、家族がめちゃくちゃになっちゃうなんて、夢にも思わなかった」

 いつの間にか死んでいたのが瑠を余計狂わせたのだろう。葬式にも間に合わず、お別れも言えなかった。瑠たちが最後に会ったのは、焼かれ骨になり土に埋められた姿だ。

「先生のそばにいたいから殺してくれなんて頼んできて、そんなことできるわけないでしょって泣いたし、ご飯も食べないからがりがりに痩せて歩けない時だってあった。私たちが入れないように部屋の鍵をかけるようになったのもその頃ね。前は瑠の部屋の中にも飾りや置き物がたくさんあったんだけど、壊しちゃうから全部廊下に出して、暴れて絵具を壁にまき散らしたから上から色を塗って隠すしかなくて……。今までに描いた絵も塗りつぶして絵なんか二度と描かないって嘆いてた。筆もキャンバスも捨てたのよ。あんなに大好きな油彩の道具を瑠が捨てるなんて信じられないでしょう?」

 ということは、昔は瑠もほんの少しは家族の愛を受け取っていたのかもしれない。慧との仲も悪くなかった感じがする。先生の死によって、瑠の心はガチガチに凍り付いた。

「確かに先生は瑠の親でもあったから、狂うのは当然ですよね。瑠が他人と関わろうとしないのも先生が忘れられないからで、先生以外はどうでもいいって決めてるから……。でもそれって間違いですよ。アリアさんは、捨てる神あれば拾う神ありって話してましたよね。みんなが捨てる神じゃないのに。もっと仲間を増やして生きがいを探せって言っても聞く耳持たずなんです」

「私も何回も友人を作りなさいって教えたけど、全部拒否するのよね。うるさいって怒鳴ってね」

 母親のアリアでも失敗しているなら赤の他人の爽花はもっと信じない。黙っているとアリアは小さく微笑んだ。

「私ね、爽花ちゃんが初めてこの家に来た時、とても期待したの。もしかして爽花ちゃんが瑠の人生を変えてくれるんじゃないかって。先生が奥様と出会ったように、毎日が明るくなるんじゃないかって」

 だがどんなに努力しても距離は縮められない。凍った心の扉は簡単に開かない。とりあえずこの問題は解けそうにないので、もう一つの疑問をぶつけた。

「先生が亡くなって瑠は狂いました。自殺までしようとしたのに、どうやって元に戻れたんですか?」

 嫌な出来事をほじくり返すのはよくないが、どうしても答えてほしかった。冷静な瑠に戻れたのはなぜか。するとアリアは鏡台の引き出しから例の古紙を取り出した。くしゃくしゃに折られ端はぼろぼろで文字も掠れて読めない、水無瀬家には似つかわしくない存在。

「これで私たちは地獄から抜け出せたのよ。これは瑠のお守り。元々は先生のお守りね。瑠は先生にこれを渡されて、フランスにいる間ずっと肌身離さず持ってたのよ。折れてもぼろぼろになっても、絶対に捨てないで大事にしてたの」

 古紙がお守りとは驚きだ。爽花の想いが届いたのか、さらにアリアは話した。

「文字を書いたのは先生の奥様。自分が死んでしまう前に先生に渡したの。先生はとても弱くて寂しがり屋で、孤独好きというのはただの強がりって見抜いてたみたいね」

 古紙が六十年近く経っていると感じた理由がわかった。瑠に初めて会った時すでに先生は八十歳を過ぎていたのなら古紙だって汚れる。じっとお守りを見つめて、アリアは呟いた。

「私がいなくなっても、独りになっても、あなたは絵を描き続けて。どんなに寂しくても辛くても絵を描いて。いつかあなたの絵を探してくれる人が必ず現れる。あなたの絵はとても癒される尊い作品だから、きっと好きになってくれる。そしてその人はあなたに最高の喜びと愛を与えてくれる。だからあなたも最高の喜びと愛を与えてあげて。あなたが幸せになるのが私の一番の願いだから。……先生は、自分が奥様と愛し合ってきた日々を瑠に聞かせていたみたい。恋に落ちる美しさと、突然離れ離れになった切なさを、ずっと語ってきたんでしょうね」

 絵画ではなく、誰かを愛することも逆に失うことも先生に教わった。とにかく瑠は先生を信じて、かけがえのない命の恩人だと考えている。また絵が好きなため、この文章は先生から瑠への言葉としても充分とれる。

「最高の喜びと愛を……」

 絵を通じて二人は結ばれた。となりにいただけでも愛は沸くのだ。先生は突き放したがいつしか愛情が芽生え、油彩が二人を幸せに導いた。先生とそっくりの瑠も同じような恋をするのではないかとアリアは予想している。あくまで予想であって、実際はどうなるかはわからない。

「この文章で瑠は戻れたの。ショックから立ち直って、また絵を描くと決めた。独りになってもどんなに寂しくて辛くても描き続けて、いつか見つけてくれる人を待っているのよ。私たちもこの文章のおかげで地獄から這い出た。先生の、このお守りがなかったら、きっとまだ泣いていたわ。あの先生は命の恩人。この小さな紙きれは、私たちにとって一番大事なお守り」

 血が繋がっていない先生が水無瀬家を救ったのは衝撃だった。水無瀬家を地獄に突き落としたのも、逆に救ったのも先生なのだ。あの人がいなかったらこの歳まで生きられなかったと瑠が話していたが、意味がようやくわかった。慧は知らないと首を横に振ったが嘘だ。爽花と瑠が交わらないようにとあえて誤魔化した。

「瑠を放っておいたおじいさんとおばあさんは生きているんですか?」

「二人とも元気にフランスにいるわ。よく慧に会いたいって言ってるらしいけど、瑠の名前は一切言わない。もしかしたら忘れているのかもね」

 心が冷たくなった。本当に可愛がられていたのは慧だけだ。イチジクがおばあさんだったらよかった。

「セルリアンブルーっていう色、爽花ちゃんは知ってる?」

 突然アリアの方から質問してきた。はっと俯いていた顔を上げて大きく頷いた。

「はい。よく晴れた空の色ですよね」

「そう。セルリアンブルーは先生が大好きな色で、よく使ってたらしいわ。瑠も影響されてセルリアンブルーが大好きなの。爽花ちゃんは好き?」

「好きです。爽やかだし特別な色だって思っています」

「よかった。先生も喜んでるわ」

 ごくりと唾を飲み込んで拳を固くした。動揺しないように身構えてアリアに聞いた。

「あたしは、特別な力を持ってるってみんなから言われるんです。それって何ですか? あたしはただの高校生でドジで半人前です。特別な力なんか持ってませんよ。意味がわかりません」

「じゃあ瑠に聞いてみるといいわ。瑠は答えを知ってるはずだから」

 はあ、とため息を吐いた。たとえ質問してもあっさりと返事をしてくれる可能性は低いのだ。それに邪魔が入ってまた失敗するかもしれない。

「……あの、このお守り、もらってもいいですか?」

 水無瀬家を救ったお守りを指差すと、アリアは微笑んだ。

「もちろん。むしろこれがあると慧が怒るのよ。さっさと捨てろってね。また地獄に突き落とされたらどうするんだって。あの子は自分勝手でわがままだから……。爽花ちゃんが保管してくれると安心する」

「ありがとうございます。失くさないように気を付けます」

「こちらこそありがとう。……もう用事はない?」

「ありません。充分です。迷惑をかけてごめんなさい」

「じゃあこれからお茶を淹れるから」

「いえ、帰ります。お茶を飲みに来たんじゃないので」

 はっきりと伝えると、アリアも「そう」と短く呟いた。残念そうだがゆっくりする気はなく、古紙をスカートのポケットにしまって走ってアパートに向かった。



 ベッドに横たわり、古紙をぼんやりと眺めた。アリアの言葉が蘇る。

「私がいなくなっても、独りになっても、あなたは絵を描き続けて。どんなに寂しくても辛くても絵を描いて。いつかあなたの絵を探してくれる人が必ず現れる。あなたの絵はとても癒される尊い作品だから、きっと好きになってくれる。そしてその人はあなたに最高の喜びと愛を与えてくれる。だからあなたも最高の喜びと愛を与えてあげて。あなたが幸せになるのが私の一番の願いだから」

「最高の喜びと愛……」

 渇いた胸に愛が注ぎ込まれたら瑠は変わる。最高の喜びと愛は瑠を幸せに導く。優しく包み込み、暖めてくれる。まるで子供を愛する母親のようだ。瑠はそんなもの必要ないと突き放すだろう。だが諦めてはいけない。先生が亡くなり、瑠はたくさんの宝物や生きがいを落としてしまった。拾い集めるのは爽花しかいない。瑠を拾う神様はたぶん爽花なのだろう。けれどどこに落としたのかはわからないのが厳しい。ガチガチに凍り付いた心を溶かし、扉を開けるにはまだまだ努力がいる。ただ、その特別な力を使えば、きっと開くはずだ。

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