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一〇二話

 生きているのか死んでいるのかよくわからないまま月日が経った。アトリエにも行かず慧にも会わず、ぼんやりと時間が過ぎていくだけだ。蛇の生殺しとはこういう状態をいうのだろう。明らかにおかしいので、カンナは心配そうに話しかけてきた。

「どうしたの? 爽花、最近変だよ」

「そう? いつも通りだけど」

「全然しゃべらないし顔色も悪いよ。すごく痩せてるし。ちゃんとご飯食べてるの?」

 睡眠も食事もろくに摂っていない。爽花自身が死人になったみたいだ。

「大丈夫だって。元気だよ」

「元気に見えないよ。不安で堪らないよ」

「ありがとね。心配しなくていいから」

 掠れる声で伝えると、カンナは半信半疑の表情で歩いて行った。カンナの友情の深さに改めて気付いた。

 高校三年生は受験があるのに、このままだったらまともに勉強などできない。早くどうにかショックを和らげようとは思っていても方法はなかった。どんどん衰え、ガイコツ化してしまう。瑠の話なのになぜ爽花が落ち込んでいるのかも謎だ。放っておけばいいのに、慧の言葉が頭の隅にこびりついて消えない。大学の志望校を探す余裕もなく、助けてくれる人もいない。

 その無駄な毎日が終わりを迎えたのは、瑠が渡してくれたスケッチブックを見つけた時だ。机の引き出しの奥に置いていたのを思い出し、ページに描かれた鉛筆画をじっと眺めた。先生は瑠と別れる際に、ずっと忘れずにいてほしいと花束としてスケッチブックを渡した。たとえ死んで二度と会えなくなってもそばにいたいという願いを届けたのだ。あのスケッチブックがなくならない限り、瑠と先生は繋がっていられる。決して離れ離れではないのだ。まだ先生からの愛は残っている。完全に渇いたら絵なんか描けない。足りなくなった愛を注ぎ込めば、絶対に瑠は孤独から逃れられる。先生は若くして愛する妻と別れてしまい、それから何十年も独りぼっちだった。瑠に出会った時すでに八十歳過ぎだとしたら、少なくても四十年以上は孤独人生を続けてきたはずだ。昔はへっちゃらでも一度他人の愛の心地よさを知ったら考えは変わる。先生にとって妻は永遠の宝物であり尊い存在だったのだろう。再婚しなかったのもこれが最初で最後の恋だったからだ。絵を褒めてくれたのもずっととなりにいたのも妻だけだったからだ。恋愛が本当に楽しいかという疑問が生まれた。結婚したからといって死ぬまで明るい未来を二人で歩めるわけではない。愛し合っていてもそういう「消えてなくなりたい地獄」は容赦なく起こる。瑠は先生が亡くなって会話ができないため、覚えているかどうかと不安で暗くなっていた。

「……忘れるわけないよ……。親子なんだもん……」

 悔しくて無意識に呟いた。けれど瑠は爽花の言葉など聞かない。信じようとしない。どれだけ爽花が正しいことを言っても俺に構うなと突き放す。はあ……とため息を吐き俯いた。

 爽花が少しでも元気になれるようにカンナは暇さえあればアンナの写メを見せに来た。

「めちゃくちゃ可愛いよ。姪だもん。当然だよね。またアパートに遊びに来たら呼ぶよ」

 必死に励ます口調に、爽花も次第に笑顔が作れるようになった。

「ありがとう。羨ましいなあ……。あたしは姉妹がいないから、姪も甥も産まれないよ」

「まあしょうがないよ。だけど爽花が子供を産んだら可愛い赤ちゃんを抱っこできるよ」

「あたしが赤ちゃんを?」

「むしろ自分で産んだ子の方が可愛さは増すよ。お姉ちゃんが、爽花は臆病だねって言ってたよ。いつか後悔する日がやって来るから今のうちにいい男捕まえておけばいいのにって。軽く言うけど、彼氏を探すのって大変だよね」

 そうだね、と頷こうとしたが別の言葉が口から漏れた。

「いい男捕まえても死んだらお終いじゃん」

「えっ? 死ぬ?」

 カンナが衝撃の表情になり、慌てて苦笑した。

「ごめん。変な妄想しちゃった。縁起でもないことしゃべってごめん」

 ははは、と誤魔化したがカンナは固まっていた。まさか死ぬというセリフを聞くとは夢にも思っていなかったのだろう。

「……やっぱり爽花、おかしいよ。死ぬなんて悲しすぎるよ。どうして死んだらお終いなんて言うの?」

「だから妄想だってば。気にしないでよ」

 素早く答えると、これ以上質問されないように急いで逃げた。




 アパートに帰り制服も着替えず電話をかけた。相手はもちろん離れたくない京花だ。

「お母さん……」

 爽花の声が弱弱しいのに驚いたのか、京花はすぐに聞いた。

「どうしたの? 嫌なことがあったの?」

「ううん。……あのね、お母さん、あたしがいないところで死んだりしないでね。あたし、お母さんとお父さんが死んじゃったら生きていけない。ずっとそばにいてね」

「なにネガティブになってるの。大丈夫だよ。お母さんたちはいつも爽花のとなりにいるよ。簡単に死んだりしないよ」

「本当? 本当に生きててくれる?」

 ふっと京花は優しい口調で答えた。柔らかく穏やかな口調だ。

「急に寂しくなっちゃった? もし辛かったら家に帰っていいんだよ。お母さんもお父さんも爽花が大好きなんだから。早く卒業して帰って来てほしいなって考えてるんだから」

 ぼろぼろと涙が溢れ、声を出して泣いてしまった。母親の愛情は近くにいなくても感じる。

「わかってる。卒業したら必ず戻るよ。一人暮らししたいなんてわがまま言ってごめん……」

「爽花は何も悪いことなんかしてないんだから泣いちゃだめだよ。女の子は笑顔が一番。爽花は性格も顔も可愛いのににこにこしなかったらもったいないよ。それに素敵な男性と出会える力も持ってるじゃない。お母さん、水無瀬さんみたいにかっこいい人が家に来るなんて初めてでびっくりしたよ。水無瀬さんには爽花と同い年の息子さんがいて、しかも学校も一緒なんだって言ってたよ。このチャンスを逃したらいけないよ。しっかりとメイクもして女の子らしくおしゃれもして、王子様を捕まえるのよ!」

 ずいぶんと期待しているようだ。潤一が慧について教えていたのは意外だ。瑠も教えたのかは不明だ。

「うん。頑張るよ」

「水無瀬さんも爽花を可愛いって褒めてたし、爽花が水無瀬さんの息子さんとカップルになれますようにって毎晩お祈りしてるんだから」

 お祈りという言葉にどくんと心臓が跳ねた。京花は特にそういう神頼みなどするタイプではない。しかし子供のためならお祈りもする。アリアも瑠と慧が真っ直ぐ道を進めるよう涙を流していたのだ。つまり慧だけではなく瑠も愛している。むしろ慧よりも瑠の方を大事だと感じているみたいだ。

「そっか。安心した。お母さんもお父さんも、ずっと元気でいてね。離れ離れは嫌だよ。ずっと一緒だよ」

「当たり前でしょ。心配なんて一つもしなくていいんだよ」

 姿は見えないけれどまた胸に愛が溢れた。この母親の愛を瑠にも受け取ってほしい。死んでしまった先生を諦め新しい支えを探すべきだ。

「そろそろ切ってもいい? お父さんのお迎えに行かなくちゃ」

「あっ、忙しかったんだね。ごめんね」

 慌てて謝り電話を切った。

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