一〇一話
喫茶店に入り向かい合わせに座ると、爽花から切り出した。
「さっそく質問なんだけど」
「勉強なら喫茶店じゃなくてもいいじゃないか。おいしいお茶は楽しい時に飲もうよ」
大学受験の話だろうと予想したのか、慧は遮った。
「勉強じゃないの。古い紙きれ、まだ覚えてるよね」
単なるゴミだと片付いたはずと考えていたのか、慧は目を丸くした。
「覚えてるけど……。でもあれはただのゴミって爽花も言ってただろ」
「やっぱり気になってしょうがないの。あの文字を書いたのって、瑠の油絵の先生じゃない?」
日本語でも英語でもなければフランス語だ。瑠は油彩で先生と繋がり、アリアは古紙で先生と繋がっている。アリアが泣いて祈っていたのは、遠いフランスに住んでいる先生を想っているからだ。だがなぜ泣く必要があるのか。
「……さあね。俺は見たことないから何とも言えないけど、爽花がそう感じるならそうなんじゃないか?」
他人事のような口調の慧を睨みたくなったが無理矢理抑え、興奮する心も落ち着かせた。
「ねえ、その先生に聞けないかな? あの紙に書いた文字は何かって。誰が書いたのって。あたしに教えてくれないかな」
すると突然慧は暗い顔で俯いた。瑠が沈んだ姿にそっくりで、どきりと冷汗が流れた。嫌な予感がした。
「それは……できないよ」
「どうして? 面倒だけど手紙とか送れないかな? 慧はフランス語が話せるし」
「いや、無理だよ」
慧の重い声に爽花は諦めるしかなかった。日本とフランスは遠いし簡単に会話できない。仕方なく爽花も俯き小さく息を吐いた。
「瑠の先生って、薔薇が得意なんだよね。薔薇ばっかり描いてたんだよね」
「そうだよ。奥さんも花が好きで、庭でもたくさんの花を育ててたらしいよ。部屋にもいっぱい飾ってあったんだって」
「へえ……。だけど若くして亡くなったんだよね。子供も産まなかったから、代わりに瑠を育ててあげたんだってアリアさんが言ってたよ。影響されて瑠も薔薇ばっかり描いてる」
いつ作品を見たのか疑われるとぎくりとしたが、慧は小さく頷いた。傷付け合っても意味はないと、ようやく気付いたのかもしれない。ほっとして爽花は続けた。
「繊細で色鮮やかで……すっごく綺麗なの。どうして公開しないんだろう? もったいないよね」
「あいつは他人に評価されたくて描いてるんじゃないんだよ。むしろ誰にも見られたくない。徹底的に仕上げるのは、先生に喜んでもらいたいからだよ」
「先生は瑠の親だもんね。今はフランスに住んでるんだよね。なかなか会えないけど、卒業したら再会できるんじゃない? 立派に成長した我が子を褒めてくれるよ。もっと上手くなった絵を先生に見てもらえたら、あたしも嬉しい」
フランス語は話せないが、爽花も先生に興味が沸いていた。また、先生の作品に感動したかった。瑠が唯一信じて憧れて命の恩人と呼ぶ素晴らしい人間の絵だ。
「慧も同じ気持ちでしょ?」
にっこりと笑ったが、慧は低い声でぼそっと呟いた。
「だから無理だって。絵を見せることも褒めてもらうこともできないよ」
慧まで弱気になっているのかと励ますつもりで爽花も言った。
「大丈夫だよ。パスポート持ってるしフランス語も話せるし問題ないでしょ。落ち込んじゃだめだよ。もっとポジティブにならなきゃ。先生だって会いに来なかったら寂しいよ?」
「パスポート持っててもフランス語が話せても不可能だよ。亡くなったんだから」
ガタンッと勢いよく立ち上がった。全身がひんやりと凍り付いた。
「亡くなった? 死んじゃったってこと?」
「瑠と初めて会った時にすでに八十歳を過ぎてたんだから当たり前だよ。俺たちがアメリカに引っ越して一年後くらいにアトリエで倒れてたのを偶然発見されたんだ。先生は友人もいないし家族とも離れて暮らしてたから、亡くなってかなり時間が経った状態だったらしいよ。親戚じゃないから俺たちの耳に届いたのもさらに時間が経った後。慌ててフランスに戻ったら、葬式も全部終わってお墓がぽつんと建てられてただけ。知人が少ないせいで、お墓には花なんか一つも置かれてなかったよ」
「る……瑠は……?」
「もちろん頭が狂ったよ。泣き喚いて暴れて、俺も死ぬんだ、頼むから俺を殺してくれって何度も叫んだよ。ナイフで腹を刺そうとしたり首に縄を巻き付けたり、本気で自殺するんじゃないかって怖くて堪らなかったよ。母さんは泣き続けてベッドに寝た切り。父さんは会社を休んで瑠を病院に連れて行って、俺は瑠がおかしな行動をとらないように見張って、学校も通えなくなった。外に出れば双子の弟だからお前も頭いかれてるんだろっていじめられた。ずっと友だちで毎日遊んでた子に避けられて無視された時は、さすがに泣いたよ。完全に白い眼しか向けられなくて、声をかけても逃げちゃうんだ。気色悪いってね。家族全員が奈落の底に突き落とされてもがき苦しんでたよ」
あまりの衝撃にめまいを起こしそうになった。まさか死んだとは予想していなかった。瑠が話していた「消えてなくなりたい地獄」は先生が愛しい存在を失ったことではなく、先生が死んで水無瀬家がボロボロに崩壊したことだ。酷すぎて涙も流れない。
「せめて最後の挨拶ができたらよかった。瑠は完全に孤独になって、絵も描けなくなったんだ。今まで描いた絵は黒で塗りつぶして筆もキャンバスも全部捨てたよ。二度と絵なんか描くもんかってね。画材があったら先生との楽しい日々を思い出しちゃうもんな。みんなびっくりしてたよ。瑠から絵が消えたら生きていけないって父さんも泣いてた。もちろん俺も泣いた。嫌な奴だけど血の繋がった兄弟だし、とにかくあいつが可哀想でさ」
昔はへっちゃらだったのに、一度誰かの愛を受け取ると変わってしまう。先生も妻が亡くなり死にたくて堪らなかっただろう。瑠を育てたのも愛してくれる存在がそばにいてほしかったからだ。
「俺も、父さんと母さんが死んでたら寂しくて頭が狂っちゃうよ。それでも俺には友だちが残ってるからまだマシだけど、あいつは先生だけだもんな」
がたがたと足が震え始めた。ぶんぶんと首を横に振って悪い気を追い払った。
「もうやめて。もう……悲しい話聞きたくない!」
大声で叫び、逃げるように外に飛び出した。心が押しつぶされないように懸命にアパートに向かって走り、ベッドに倒れて荒い息を整えた。
「嘘だ……。死んじゃったなんて……」
たった一人の親が、大事な命の恩人が、いつの間にかこの世から失くなっていたなど信じられない。どんな生き物も誰かに愛を注いでもらえるから安心して生きていける。先生がいるから瑠は生きていける。しかし死んでしまったら愛を注ぐことも受け取ることも不可能だ。油絵が愛を与えてくれるわけない。つまり瑠は現在、愛をほとんど失い渇いた心で孤独のまま過ごしている。瑠が感情を示さない性格もあって、空しく辛い想いを露知らず、周りの人々はほったらかしにして平気で傷つける。関わろうとさえしない。助けようとも護ろうとせず、どんどん孤立していく。お別れもできなかったという悔しい事実が太い槍となって爽花を傷めつけた。
「……どうして瑠ばっかり酷い目に遭うの……」
ようやく涙が溢れた。瑠が暴れている様子も慧がいじめられている様子も想像できない。ただ明らかになったのは、本当に消えてなくなりたい地獄だ。やっとこの地獄について理解した。寂しくなったら帰って来ていいんだよ、と京花は話していた。一人暮らしをしていても、自分の帰るべき場所と待っている人がちゃんといるのだと感じるだけでほっとした。けれど瑠はそれを失って、真っ暗闇にぽつんと取り残されている。探してくれる人も味方もいない。ただアトリエという狭い空間で、誰にも褒められないのをわかっているのに手を動かして無駄な時間が経つ。喜びも楽しみも一切なく同じ日の繰り返し。何のために産まれたのか、何のために生きているのか。
「酷いよ……。みんな酷い……。瑠は独りじゃないよ。たくさん愛に囲まれて、幸せにならなきゃいけないのに……」
愛と共に、瑠は笑顔も言葉も失った。問題なく育っていたら、慧とも仲良くなれた。先生が死んで、瑠は大切な宝物をほとんど落としてしまった。消えてなくなりたい地獄をさっさと消して、どうせ構ってくれる人も、ずっとそばにいてくれる人もいるわけないと黙って絵を描き続ける人生。欲しがりでもないので胸が渇いても別に気にしないと決めつけている。関わったっていつかはこうして糸は切れるのなら、もう誰とも付き合わない方がいいと諦めているのだ。




