十話
朝早く起きると、クローゼットから可愛い服を探した。さらに濃すぎないナチュラルメイクもした。綺麗な水無瀬のとなりに座るなら、爽花も綺麗でなくてはだめだ。髪もおしゃれに結わいて、見劣りしないように気を付けた。ブランド品ではないが、バッグも新しいものを選んだ。何度も洗面所の鏡で確認してから、大人っぽいサンダルを履いて外に出た。
図書館のドアの前に、水無瀬は立っていなかった。早めに来過ぎてしまったと申し訳なくなったが、ふと中を覗いてみると本を読んでいる水無瀬がいた。
「おはよう。もう来てたなんてびっくり」
水無瀬の元に行き、緊張しながら挨拶をした。
「遅れたら悪いだろ。さっそく始めようか」
その一言で、一緒に夏休みの宿題をしているだけなのだと残念な想いになった。ただの男友だちでそれ以上の関係にはならないし、取り巻きに殺されたくないし、恋愛ほど苦しいものはないと信じてはいても、なぜか寂しいと感じてしまう。
「今日は数学にするね。水無瀬くんは?」
言ってから、水無瀬が教科書もノートも机に置いていないのに気付いた。
「あれ? 宿題は?」
続けて聞くと、水無瀬は苦笑して即答した。
「実は、昨日の英語が最後の宿題だったんだ。ここに来たのは新井さんの手伝い。好きなだけ俺のこと使っていいからさ」
水無瀬は神様かと疑った。爽花のためだけに嫌な仕事をしてくれているのだ。
「せっかくの夏休みなんだから、あたしなんか放っておいて、彼女とデートにでも行けばいいのに」
呟くと、水無瀬は首を横に振って真剣な眼差しを向けた。
「俺は新井さんと一緒にいるのが楽しいんだ。こうやってそばにいるだけで癒される」
そして爽花の手に自分の手を重ね、かなり距離を縮めてきた。
「ねえ、新井さん。もしよかったら、俺と」
「は……早く勉強しよう! 宿題始めよう! 時間の無駄遣いはもったいないもんね!」
慌てて遮り、教科書で火照った頬を隠した。
どきどきして指が震えてしまう。数字がへろへろになって、呪文の暗号みたいになる。あちらこちらにペンが動いて勉強どころではなかった。落ち着けと繰り返し深呼吸をしても全く効果はない。水無瀬のかっこよさは尋常じゃないレベルだった。魅力的過ぎてめまいを起こしかけた。かなりダメージを喰らっている爽花にトドメを刺すように水無瀬は肩を掴んで体を寄せて、そっと囁いた。
「新井さんは、欲しくて堪らないものってある?」
耳の中に直接ハスキーボイスが飛び込んで、ぞわぞわと全身に雷が走った。あわわわわと勢いよく立ち、痛いほど速い鼓動を抑えた。ハスキーボイスは色っぽくてかっこいいと誰かが言っていたが、確かに威力は半端ない。
「欲しくて堪らないもの……?」
掠れた情けない声で聞き返し、真っ直ぐ水無瀬を見つめた。
「生きていれば、必ず欲しいものってできるよね。他人に奪われたくない、自分だけのものにしたいっていう宝物が」
ばくんばくんと心臓がおかしな跳ね方をしている。冷や汗もだらだらと流れる。
「俺は、一つだけ欲しいものがあるんだ。それが手に入れば、もう何もいらない。喉から手が出るほど欲しくて欲しくて堪らないんだ」
水無瀬も立ち上がって急に不安になった。とにかく違う話題に変えないとだめだと水無瀬の席に置いてある本を指差した。
「水無瀬くんが読んでた本って何? 面白いの?」
後ろを振り返って、水無瀬は本を手に取った。
「別に面白くもないよ。新井さんも読んでみる?」
はい、と渡され、タイトルを見てハテナが頭の中に浮かんだ。日本語でも英語でもなかった。
「これ……何語?」
「フランス語。新井さんはフランス語得意かな」
がーんとタライがまた振ってきた。
「水無瀬くんってフランス語読めるの?」
「うん。まあ……生まれた国の言葉だから」
衝撃のあまり黙り込んだ。水無瀬がフランス出身とは予想外だった。爽花の想いが伝わったのか、水無瀬は付け足した。
「フランス生まれだって隠してるんだ。いつも自慢してるなって顔されるからね。別にどこの国で生まれたなんて関係ないって俺は思うんだけど。新井さんはどう?」
確かに出身地が日本でもフランスでもいいとは思うが、悔しいという気持ちが浮かんでしまった。
「あ……あたしは、羨ましいなって憧れるよ。日本語もフランス語も話せるなんてかっこいいし。もしかして英語も話せるの?」
試しに聞いてみると、水無瀬は曖昧に頷いた。
「四年くらいアメリカにも住んでたからね。日本人なのに日本にいる期間が一番少ないんだ。だから日本語がすごく苦手で。漢字とかも難しいし」
しかしノートに書かれていた文字は、爽花より遥かに上だった。あれほど綺麗な文字が書けるなら充分じゃないか。
突然、水無瀬の携帯が鳴った。何十万もしそうなバッグから、もっと高そうな携帯を取り出し「なんだよ」と呟いた。
「……えっ? B5? A5? どっちでもいいのか? ……しょうがないな。買ってくるよ。二冊でいいんだな」
先ほどとは違う、ぶっきらぼうな口調だった。一体どんな話をしているのかわからない。B5、A5、二冊。ということは……。
「次は自分で買いに行けよ」
短く言い切って電話を終え、水無瀬は残念そうな笑みで両手を合わせた。
「ごめん。ちょっと用入っちゃった。あとは一人でも平気かな?」
「うん。あの、今の電話って」
「じゃあ、頑張ってね。ごめんね」
爽花を遮ってもう一度謝り、すたすたと歩いて行ってしまった。
結局、爽花もそのまま帰ることにした。ゆっくりと進みながら、水無瀬に電話をかけたのは誰か推理した。B5A5は紙のサイズだ。二冊と言っていたので、もしかしたらスケッチブックを買ってきてほしいと母親に頼まれたのかもしれない。しかしあの口のきき方は母親ではないようにも聞こえた。次は自分で買いに行けと、息子が母親に言うだろうか。水無瀬は、実は母親と仲が悪いのか。
「あたしが欲しくて堪らないものって何かな?」
もう一つの疑問に意識が移った。仲のよい大親友はいるし、優しい両親もいるし、特に不足していることはなく順風満帆だ。むしろ爽花は欲しくないものの方が多い。恋愛も恋人も必要ない。独りで暮らしていける自信はすでに存在している。
はあ、と息を吐いて夏空を眺めた。どこまでも続く美しい青空は、どんな時でも爽花を癒してくれるのだ。




