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月明かりに照らされた屋上に、ぼんやりと浮かぶセーラー服の少女の後ろ姿。
遙一は恐ろしさのあまり持っていたデジカメを危うく落としそうになった。左手の甲で目をこすり、パチクリさせてみる。だが幻でも目の錯覚でもなく、確かに少女はそこに立っていた。
遙一は少女から目を離せないでいた。一瞬でも目を離せば、次に見た時には目と鼻の先にまで迫っているのではないか、という恐怖にとりつかれていたのだ。
唇や両手がわなないている。冷静になれ、冷静になれ、と何度も心中で唱えた。
(そうだ! よく見ろ! あの女にはちゃんと全身あるだろ)
幽霊にはよく足がないと言われている。それにここで噂になっているのは上半身だけの女だ。だが、そこにいたセーラー服の少女は、後ろ姿は普通の人間となんら変わらないのだ。遙一が通う中学校の制服は男女ともブレザーなので、ここの生徒ではないのは明らかだ。
突如屋上に強い風が吹いた。その強風によって鉄扉が、ストップ装置が外れて鈍い金属音を立てながら閉じ始めたので、遙一は慌ててドアノブを掴んで扉の動きを止めた。
セーラー服の少女の方に視線を戻すと、腰まである彼女の長い黒髪が風で靡いていた。
彼女はいったい何者なのか? 幽霊か? それともただの人間か? 人間だとするなら、他校の女子がなぜこんな時間にこんな場所へ?
遙一は徐々に冷静さを取り戻してきたのか、ふと考えを巡らせた。もし仮に彼女が普通の人間だった場合、深夜の旧校舎の屋上で見知らぬ女子とばったり遭遇する確率はどれほどのものだろうか、と。
常識的に考えればほぼゼロだろう。また、自分たちの他に肝試しをしている連中がいたならばその確率は多少なりとも上がるだろうが、遙一たちが旧校舎に侵入してからここまでの間に、別の肝試しのグループが入ってきた、または、既に入っているという気配はなかった。
(くそっ!)
遙一は込み上げてきた焦りと苛立ちから心の中で舌打ちした。無闇に考えたところで彼女の正体にたどり着けるわけがない。一旦思考回路にリセットをかけることにした。
今彼女の正体を知った所で意味はない。幽霊にしろ人間にしろ、初めて出会った場所が真夜中の旧校舎の屋上になる者とは関わり合いになりたくはなかった。
兎にも角にも、今は一刻も早くここから退くことが最優先だ。しかし、このままおめおめ引き返してしまうと、屋上に上がっていないと三枝と鷹谷から文句を言われるのではないか。ならさっさと当初の目的であるここの写真だけ撮って退けばいい。それもそうなのだが、写真を撮るにしても、ここから撮ればあの少女も一緒に写すことになってしまう。かといってここから先には進みたくはない。
どうするべきか、と遙一はまたも思案し始めたが、ふと不自然な点が浮かんで動き出していた思考回路にブレーキがかかった。
先ほどの強風によってストップ装置が外れて扉が閉じようとした時に、金属の軋む音が周辺に響いた。当然それはセーラー服の少女にも届いていたはずだ。だが、依然セーラー服の少女は背中を向けたままで、振り向くどころか身動き一つしない。まるで人形かマネキンのよう――そうだ。
誰かが悪戯でここに訪れた者を脅かすために、ウィッグをかぶせてセーラー服を着せたマネキンを置いていったのではないか。
しかし、それならどうして最初ここに来たときは何もなかったのだ? 今少女は扉を開けたらすぐ目につく位置に立っているのだ。マネキンだというならカメラを構えてファインダーを覗く直前からそこにないとおかしい。やはり説明はつかない。堂々巡りではないか。
遙一はまた心中で舌打ちした。
この時点でもう頭の中の思考回路からは熱が漏れ出し、それが知恵熱となって遙一の判断力を鈍らせていた。
(もういい。考えるのはやめだ。あの女ごと写真撮ってダッシュで撤収しよう)
何かが吹っ切れたように遙一はデジカメを構える。左手はドアノブを握ったままだったので、右手だけでデジカメを持っていた。
ファインダー内の中心を少女の後ろ姿に合わせて、右手の人差し指でシャッターボタンを押した。
周辺が閃光でぱっと明滅する。そして異変は起きた。
「なっ!?」
遙一は凍りついた。
カメラのフラッシュ直後、ファインダー内から少女の姿が消えていたのである。まるでフラッシュの消滅と同時に少女も消えたように。
ファインダーから目を離し、撮影した場所周辺を見渡してみても、セーラー服の少女の姿はやはりどこにもなかった。今の一瞬の間に隠れることなどできないはずだ。
「そうだ!」
デジカメを右手だけで慌てて操作して、撮った写真を画面に表示させてみると、
「いない!?」
面食らった遙一の顔はみるみるうちに青白く染まり、ガタガタと震え出した。そして握ったままだったドアノブから左手を離すと、半回転して一目散に屋上から階段を駆け下りていった。
遙一が階段から三階廊下に着地した時、屋上鉄扉のガチャンと閉まる鈍い音が上から階下へと広がるように反響した。遙一はその音を意に介することもせず三階廊下を我武者羅に駆け抜けてゆく。途中に何があったかなんて覚えてないくらいに。
闇夜に目が慣れていたからか、懐中電灯に頼ることをすっかり失念していた。右手に握ったままのデジカメも手からすっぽ抜けて落としたら、などと考えてる余裕もなかった。もし廊下にワイヤーが張ってあったり、ど真ん中に落とし穴があったりしたなら見事なくらいあっさりひっかかっていただろう。
三階一番端の階段まで辿り着くと、一段飛ばしで一階まで駆け下りる。そして一階に着いたが三枝の姿は見あたらなかった。
もしやさっきの少女が追ってきてやしないかと不安げに今降りてきたばかりの階段を見上げたが、上から何かが現れるようなことはなかった。
ひとまず両手を膝について肩で息をして呼吸を落ち着かせる。
それから間もなくして、廊下の奥から懐中電灯を持った三枝がのんびりとした歩調で現れたが、遙一のただならぬ事態を物語っているような顔色に、怪訝そうに眉をひそめた。
「ん? どうしたんだよ?」
「屋上に変な女がいた」
「はあ? 変な女?」
遙一はデジカメの液晶画面に先の写真を表示させて三枝に見せ、そこに映った屋上の錆びた柵の中央を指差した。
「ここに、セーラー服の女子が立ってたんだ。でも写真撮ったら一瞬で消えたんだ」
三枝は更に眉間にしわを寄せて画面を見つめる。
ちょうどそこへ鷹谷が走って階段を下りてきた。
「どうした? 三階からドタバタ走る音がしたから気になって急いできたんだが」
三枝は遙一が今説明したことをそのまま鷹谷に伝えた。すると鷹谷は興味深そうな面持ちで三枝からデジカメを受け取り、例の写真を見て思案顔になった。
「セーラー服の女子か。確かうちの学校の制服ってちょっと前まではセーラー服じゃなかったっけ? 最近になって今のブレザーに変わったって聞いたけど」
「なるほど。じゃあ、もしかしたらこの旧校舎がまだ現役だった時に、ここに通っていた女子が死んでしまった。それで幽霊になった今でもなんらかの未練があってここに住み着いてるって感じか」
三枝が即席で組み上げた仮説に、一理あるね、と鷹谷は頷きながらデジカメを返す。
「でも、ここの噂は上半身だけの女がいるって内容だったよな? セーラー服ってのは聞いてないが」
首を傾げる鷹谷に、全身はあった、と遙一は即座に答えた。
「だとすると、噂と別物か」
「じゃあよ、確かめに行ってみようぜ。屋上へ!」
三枝の提案に鷹谷は途端に人の悪い笑みを浮かべる。
「ほう。いいねえ。何か撮れるかもしれない」
カバンに収めていた一眼レフを出すと、スクープは一切見逃さないと意気込む新聞部のように、鷹谷は一人勝手に盛り上がり始めた。
付け加えるが、ここにいる三人はみんな帰宅部だ。部活動で汗水流したり、何か一つのことに夢中になって取り組んだりするという考えは微塵も持ってはいない。
「いや、もう帰ろう。俺疲れたわ」
遙一は辟易して中腰になりながら反対を述べる。が、
「まあまあ。そんなこと言うなよ」
「え!? おい! やめろこらっ!」
後ろから三枝に押されて遙一は無理やり階段を上らされたのだった。