4-16 今日はごめん
リトは一度も休まずに白の館まで駆けていった。
少し日が傾いてきていたが、穏やかな天候も、賑やかな城下町も、ほんの数時間前と何の変わりもなかった。 しかし、それが逆にリトを不安にさせた。
白の館に入り、迷わずにラムールの事務室へと進む。 しかしドアの前で流石に疲れて、ぜいぜいと息を整える。 呼吸ができないくらい辛い。 心臓も爆発するのではないかというほど激しく脈をうつ。
唾を飲む。 鼓動を無理矢理押さえつけるように息を止め、そして息を吐く。
もう一度唾を飲み込んで、リトは事務室の扉を二度、ノックする。
――怖い。
リトはそう思った。
さっき、確かにラムールの殺意の対象にリトも含まれていた。 きっとデイが止めてくれなかったら、ラムールは何の迷いもなくリトも切り捨てていただろう。
それだけ、先ほどのラムールの態度には覚悟があった。
天罰だ、とリトは思った。 決してラムールは神ではないが、余計な情けをすべてそぎ落としたラムールの態度は、天罰なのだとリトは思った。
しかしリトはラムールに会いに来た。 デイに頼まれたから。
デイの瞳はラムールの事を心配していた。
リトはさっきのラムールではなく、いつものラムールに会いに来たのだと自分を言い聞かせた。
あれは別人だ、別人だ、別人だ……
ところが事務室の中からは何の反応もない。
――居室の方……
リトは上へ続く階段を見つめた。 見慣れたはずの階段が地獄へ通じる通路のように思えた。
ところが次の瞬間、ガタン、と事務室の中から物音がした。
「ラムール様っ!?」
リトは反射的に事務室のドアを開け、次の瞬間、服の袖で鼻を押さえた。
むせかえりそうな位に強い、血の香り。
ラムールは、今、帰ってきたのか、リトに背を向けて事務室の窓を閉めた。 その窓を閉める手は血の気が引いて死人のように青い。
そしてゆっくりとラムールが振り向く。 同じように血の気の引いた、しかしいつものラムールと同じ、ほのかな笑みを浮かべて。
「リト?」
確かめるようにラムールが呟く。
「ラムール様!」
思わずリトはかけよって、ラムールの袖をつかむ。
「体は、お体は、平気ですか?」
急にラムールが死んでしまいそうな気がしてリトは叫んだ。
ラムールはゆっくりと、微笑んだ。
まるでスローモーションのように。
「平気、ですよ」
そしてゆっくりと穏やかに答える。
「で、でも、血の、血の香りが……」
リトはラムールの顔を見た。 今も周囲は血の臭いであふれている。
ラムールはリトの手をゆっくり払うと、上着を少しめくって自分の腹を見せた。 そこにはきめの揃った美しい肌をした腹があるだけだった。
「デイの代わりに傷を受けましたけどね。 ほら、もう、平気」
――デイの代わりに?
しかしリトは深く尋ねる事はできなかった。
「血の臭いがしますか……窓を開けて換気をしなければなりませんね」
ラムールはゆっくりと動いて窓を開ける。 外の爽やかな風が部屋の中に入り込む。
ラムールは窓の外を見たまま、言った。
「リト。 棚から眠り玉の瓶を取って貰えますか」
リトは頷きラムールに背を向けて棚から瓶を取る。
今度もゆっくりリトの方を振り向きながらラムールは言う。
「……でもちょっと、体を休める必要があります」
ラムールの手がそっと差し出される。 リトはその手に眠り玉の入った瓶を渡す。
「私はまるまる3日ほど、眠り玉を使って回復します。 その間はリトが代わりに出来る事はやっていてもらえますか?」
リトは頷いた。
「誰にも、言ってはいけませんよ?」
リトは頷いた。
ラムールは少し俯いて、思い出したように微笑んだ。
「……と、言っても、デイの為なら私はまた出て行くのですけどね」
なぜか、少し嬉しそうだった。
「デイには、傷は術で回復した、そしてまた、用があると出て行った、と伝えてもらえますか?」
再度ラムールはリトをみつめた。
リトは頷いた。
「ありがとう」
ラムールは右手でリトの肩をポンと触れた。
ラムールの右手には細い糸のような物が握られていた。
「体を休めるための小道具ですよ」
リトの視線に気づいたラムールが説明する。
ラムールはほんのちょっとリトを支えにするようにリトの肩に体重をかけて、それから体を離して事務室の出入り口へと歩いていく。 リトは慌てて先に扉を開け、ラムールは黙って部屋を出る。 そしてゆっくりと、階段をゆっくりと、まるで幽霊のように上っていく。
「ラムール様!」
リトが声をかけると、ラムールは振り向かずに、片手だけを上げた。
少しして、居室の扉が開いた音がした。
居室に入ったラムールは力尽きたかのように一瞬よろめき、床に倒れ込む寸前でこらえる。 肩で息をしながら居室の奥にある洗面室に行く。 洗面室の扉を閉めると、もう一度よろめきそうになるのを壁によりかかってこらえる。
ラムールは洗面台とは反対側の、何もない壁をみつめた。
そして力をこめて壁の隅を押す。 すると壁がくるりと回転して隙間が出来、その奥は小さな小部屋に繋がっていた。 隙間から滑り込むようにラムールが中に入り込み、再び壁を押して元に戻す。 更に床の所にある留め金をはめて壁がぐらつかない事を確認すると、ラムールは倒れるように座り込む。
「……っはぁっ……」
声にならない声を上げながら、ラムールは自分の服をたくしあげ、腹を出す。 そして力一杯その腹を掴むとベリベリと音を立てて、その人工皮膚を引きはがした。
人工皮膚の下からは大きな刺し傷がぽっかりと口を開けて、血がダラダラと流れていた。
「……っく……」
耐えきらずラムールは背を床につけて天井を仰ぐ。
顔面蒼白になりながら、肩で息をしながら、なぜかそれでもラムールの表情はどこか嬉しそうだった。
「この痛み……あの人も感じたのかな……」
ラムールはそう言って瞳を閉じ、そしてほんの一粒だけ、涙をこぼした。 しかしすぐ気を取り直して体を半身にすると、服の胸元から針を出し、そして先ほど手にしていた細い糸を通した……。