3-10 シンセ
姫も気づいたのだろう、ちらりと書記官を見る。
「面白いだろう? 私にとってシンセは大切な宝だが、部下達にとっては禁句なものでな」
「禁句?」
「そう。 いつもなら――そうか! いつもなら近衛隊長が叱ったり話題を変えたりするのだが、今は書記官だけだったな。 書記官は私に口だしはできぬのだった。 これはいい!」
書記官はオッホオッホと咳き込むのに必死である。
姫は自由を得たとばかりに目を輝かせ、身を乗り出す。
「私とシンセが接触したことは、私の国では無かったことになっている。 だから部下達は私がその事について話しても記録に残せないのだ」
「それは、また、どうして……」
リトは首を傾げながら書記官を見た。 書記官は目をそらし、咳き込む。
姫はもう一度椅子に座り直して、ちょっと考える。
「どうして……って、うーん」
それは確かに何かを警戒していた。
「シンセ、ってもしかして、スイルビ村の陽炎の館にいた、新世さんのことですか?」
リトは思わず尋ねた。
「なぜその者だ思う?」
姫が逆に尋ねた。
「え? いえ、私の知る限り「シンセ」という名前の人はその人しか思い浮かばなかったし、――翼族の人だったそうだから、書記官の人が拒否する理由かな、とか……」
「会った事は?」
「それはありません。 陽炎の館に遊びに行った時に写真を友達から見せて貰った位で……」
「遊びに行った事があるのか? 陽炎の館に?」
姫の表情がぱあっと明るく晴れ、もう一度身を乗り出す。
「陽炎の館は今も昔のままか? 裏庭に二人乗りのハンモックはまだあるのか? 森の奥の大きな木に吊り下げられた二人乗りのブランコは?」
姫は一気にまくしたてる。
「も、申し訳ありません。 遊びに行ったのはそんな前からではないから、よくは分からないですけど、裏庭のハンモックは、あります」
「そうか!」
姫は満面の笑みを見せた。
「実はな、私はずっと前になるが、デイ王子の後を追いかけて陽炎の館まで行ったことがあるんだ」
それは驚きだ。
「その時、やはり今回のように近衛兵が、先に現地の安全を確認すると言って陽炎の館になだれこんだ」
姫は嬉しそうに話す。
「するといつまでたっても先陣部隊が戻ってこない。 次に行った者も、戻ってこない。 これは危険だということで帰ろうかとしたが、陽炎の館の扉が開いて、シンセが出てきた」
「はい」
姫はくっくっと、思い出し笑いをする。
「すると私の周囲にいた近衛兵達は一瞬にしてみな気を失ってしまってな」
「へ? なぜですか?」
「丁度その日はシンセの処に翼族の者が4人来ていてな。 シンセの後ろに立っている訳だ。 恐れのあまり、失神したのさ」
書記官は何も聞こえないとばかりに咳をする。
翼族が5人も集まれば、それはさぞかし怖かったのだろう。
「で、姫は? 怖くなかったのですか?」
リトは尋ねた。
「怖い? シンセをか? とんでもない。 それどころか美しい天使かと思った。 後ろにいた翼族の者達には顔が怖い者もおったが、みなシンセに従順で優しかった」
「それからどうしたのですか?」
「事情を聞いてくれたシンセは、それでは従者はこのまま眠らせておいて、デイと二人で遊びなさい、と言ってくれてな、ブランコをしたり、シンセに抱かれてデイと三人で空を飛んだり、ハンモックで昼寝をして隣で歌を歌ってくれた」
姫の瞳の奥にとても楽しかった想い出が溢れる。
「後にも先にも、あの一度きりであった。 あんなに自由な思いをしたのは」
大切な思い出を愛でるように姫は語る。
リトはここで不思議に思った事を尋ねた。
「じゃ、お付きの方達が眠っていたから記録に残らなかったってこと?」
「いや」
姫は答えた。
「翼族と接した者で保護責任者がいない場合は、翼族調査委員会で調査されるきまりとなっている。 一国の姫がそのような機関に送られることはあってはならぬ事だ。 しかも姫を守るべき近衛兵が守るどころか気を失って何が起こったか分かりません、という失態では近衛兵全員、いや、その親族まで処分ものだ。 そこで、デイもいたし、特に異変は無かったので二人は仲良く遊んだという事だけにして他はいっさい記録は残らなかった、という訳だ」
なるほど。
「御礼をしたいと言ったがシンセは受け取ってくれなかったしな。 センセーがシンセの保護責任者だと知ったのはかなり後の事だ。 そうと知っていればきちんと報告もできたのに、と
近衛隊長がぼやいたが、一度記録を変えたからにはもう引き返せないのだ」
姫はぱちりとウインクした。
「姫は、翼族が怖くなかったのですか?」
リトは再度、尋ねてみた。
「シンセは怖くなかった。 もっとも兵士達はシンセですら怖かったみたいだが」
姫はくっくっと笑った。
「何にしろ、昨日はお前に対して申し訳ない事をした。 許せ」
姫が気を取り直してそう言うと、やっと書記官が筆を動かした。
「それで、何だ? 今日は具合が悪いそうだが、病気か?」
「あ、いいえ。 ちょっと。 たいした事じゃないんです」
実際、姫の屈託のない笑顔を見て新世の話を聞いていたら気分転換が出来たのか、気分も少し良くなっていた。
「お前はセンセーの元髪結いとやらだから、相当優秀なのだろうな」
「そ……そんな事は全然ありません」
本心だった。
「そうか? センセーは無駄な事は一切なさらない方だぞ」
「はあ」
「どの国もセンセーが欲しくて打診しているが、全くその気が無いそうだし」
「そうなんですか?」
「そうだぞ? 給与も国から貰っていない、というか、貰いたくないそうだから、いくら他の国が金で釣ろうとしても釣れないし、どんな条件も聞く耳すらない」
は?
「給与を貰っていないって、じゃあラムールさまはどうしてるんですか?」
「分かり切った事を。 自分の発明や著作等だ」
知らなかった。
「じゃあ、ラムール様が仕えているのは、ボランティアみたいなものだから何も欲しく無いのでしょうね」
リトはそう言った。 ところが姫の言葉は意外なものだった。
「違うぞ。 センセーが欲しいのは、みんな知っている事だが、権力だ」
――権力?
リトは我が耳を疑った。
「だから教育係にもなったのではないか」
更に続く姫の言葉にリトは訳が分からなくなる。
しかも不思議な事に姫の口調で判断する限り、それは悪口のようには聞こえなかった。
理解できずに首を傾げるリトを見て、姫は急に不安そうになってリトに顔を近づける。
「私は自国語ではないから、もしかしたら語句が正しい意味じゃなかったり、文法が変かもしれん。 もし変なところがあれば後で誰か信頼できる者にきいてくれ」
「あ、いえ。 とてもお上手なテノス語です。 ただ、ちょっと凛々しすぎるかと思いますが……」
「凛々しすぎる? 何をだ? どうすればよい?」
思いがけず、姫は鋭く反応した。
「え、いや、別に……」
リトは躊躇した。 王族の話し方にケチをつけるなんて、あってはならない、だろう。 ところが姫は不安そうに眉を寄せてリトに再度言った。
「デイも時々、そう言うのだ。 そのままで良いと言うのだが、女の子としてやはり可愛らしい話し方の方が、きっとデイも好きになってくれると思うのだが、どうだ?」
姫の表情は、確かに恋する乙女のそれだ。
「え……っと、王族の方がそのような話し方をして良いのか私には分からないので正しいかどうかは分かりませんが……」
「構わぬ、女性の目線で聞きたいのだ」
「それでは、言葉の最後に「だ」をつけるのを止めたらいいかと思います」
「だ、だな?」
姫はしっかり頷く。
リトも頷く。
なんだか姫が、とても可愛い。 恋する女の子に共通する可愛さだ。
「ようし、やる気がでたぞ! デイをびっくりさせてやるぞ!」
「あ、”ぞ”をつけるのも止めた方が」
「ぞとだ、だな? ありがとう。 ええっと、リトゥア=アロワ」
「恐縮にございます」
リトは一礼した。
姫は立ち上がる。
「長居したな。 疲れているのに申し訳ない。 ゆっくり休んでくれ」
”れ”もだな、とリトは思ったが、これ以上言ってもパニックだろう。 リトは黙っておくことにした。
書記官がサラサラサラと快調に筆を進める。
この書記官も後半は書く事があったので嬉しかった事だろう。
姫は言った。
「シンセは本当に天使だな。 あれから大分たった今、私にまた、自由な時間をくれた」
書記官が慌てて咳き込む。
リトと姫は顔を見あわせて笑った。