10-8 狂った翼族、登場
「な、なんだ? ありゃ、何だぜ?」
世尊が壁にぽっかり開いた別の部屋への空間を見て驚きの声を上げた。
来意も、羽織も、弓もただ言葉を失った。
”それ”がゆっくりと、かなり前屈みで歩きながら検査室に姿を現す。
巳白がリトを自分の背後に回す。
リトは巳白の翼の間から、”それ”を見る。
”それ”の大きさは、巳白達の2倍はあった。
長く伸びた四肢、ところどころ硬質化した皮膚。 布を幾重にも巻いただけの変色した服はボロボロにあちこちが垂れ下がり、調査委員会のマークが入ったネックレスや腕輪が首や腕に何個も付けてある。 長くのび放題の髪に隠れて顔はよく分からない。 かろうじて見える口元は血で真っ赤に染まっている。
そして――髪の間から突き出す、笹の葉状の長い両耳と、背中に生える、身を覆いつくさんばかりに大きい翼。
「翼族……」
清流が呟いた。
「リト、俺の後ろから離れるな」
巳白が緊張した面持ちでそう告げる。
リトは巳白の背後で巳白の服をつかむ。
狂った翼族はゆっくりゆっくり、歩いて検査室の中まで行くと立ち止まり、身をのけぞらせて大きな咆哮をあげた。
その声は雑音のような甲高い鳥の鳴き声のような地を這う大蛇のような、おぞましい響きだった。
狂った翼族が巳白とリトの気配に気づき、二人の方に体を向ける。
ヒューゥ、ヒューゥ、と細い管で息をしているような音が検査室に響く。
リトに触れる巳白の翼がチリチリと小刻みに震えて緊張している。
狂った翼族は、ゆっくり、ゆっくりと巳白達に近づき、巳白達は少しずつ後ずさりをした。
シンディは窓からその光景を見ながら大きく肩で息をした。
顔色は蒼白で、目を見開いている。
狂った翼族を二人の前に見せた今、もう引き返すことはできなかった。
――もう嫌。 あんな辛い目に遭うのは絶対嫌。 思い出したくない。 知られたくない。
シンディは震える手で制御笛を握りしめた。
――怖い。 また拷問を受けるのは怖い。 成果を出さなければ
シンディが制御笛を吹く。 セルビーズは動きを止め、シンディの声を待った。
――そうよ、あの子さえ殺してしまえば、殺してしまえば、コロシテシマエバ
恐怖と混乱がシンディを突き動かした。
『殺しておしまいっ!!』
シンディの叫びにも似た命令が冷たく検査室に響き渡る。
狂った翼族がものすごい勢いで巳白達に襲いかかった。
一方、記憶を見終わったトシはただ立ちつくしていた。
無意識に涙が流れていた。
毬がポンポン、と床を転がる。
長い、長い、記憶だった。
突然スピーカーからシンディの声がした。
『殺しておしまいっ!』
トシが我に返る。
――止めなければ!
トシは部屋を飛び出した。
狂った翼族【セルビーズ】はものすごい速さで巳白達に襲いかかった。
その異常なほど長く伸びた指が力強く空気を切り裂く。
巳白がとっさにリトを抱いて宙へ舞ったのと、たった今まで立っていた場所に翼族の指がめりこむのはほぼ同時であった。
いつもなら空に逃げさえすれば安全だった。
しかし今回の相手は、翼を持っていた。
セルビーズは床の一部分ごとつかんで手を持ち上げると上空を見上げ巳白を視界に入れる。
そのざんばらになった髪の間からギラリと鋭く光る目がのぞく。 セルビーズの背中の翼が小さく2度ほど上下に揺れると――
「!」
巳白が考える間もなくセルビーズがすぐ目の前まで飛んできた。 半分しかない巳白の片腕をセルビーズがつかみ、まるでボールを投げる動作のように反動をつけて床に向けて投げ飛ばす。 巳白はリトをかばいながら背中から床に激突する。
「ぐぁっ!」
「きゃっ!」
しかし想像以上に衝撃は強く、巳白は床から跳ね返り、つかんでいたリトの手を離す。 リトは床に転がった。
セルビーズは結果的に二手に分かれた相手を交互に見て、体を起こしかけているリトに標的を定めると放たれた矢のように鋭くリトに向かって行った。
「リト危ないっ!」
巳白がそう言ってリトを横からすくい上げるように抱えて飛びのくのとセルビーズの爪が宙を切るのはこれまたほぼ同時だった。
しかしその後の動きの速さが巳白とセルビーズでは天と地ほども差があった。 セルビーズは身を翻してすぐさま巳白の後を追う。 巳白の片足があっと言う間にセルビーズにつかまり巳白は再びリトと一緒に放り投げられる。 今度も巳白はリトの盾となって壁にぶち当たった。
「早い!」
「リト!」
「兄さん!」
それを見ていた来意達は口々にそう言った。
すぐさま羽織が剣を抜き壁を切る。 しかし壁はびくともしない。 世尊が拳で殴りつけるがやはり壁ガラスにはヒビすら入らなかった。
「殺しておしまい! 殺して! 殺すのよっ!!」
悲鳴にも似た口調でシンディがマイクに向かって叫ぶ。
そこに顔色を変えたトシが部屋から飛びだして来た。
「巳白!」
トシはまずガラスに貼り付いて検査室の巳白を見た。
巳白はリトを背中に回してセルビーズと向かい合っている。
セルビーズがじわりじわりと間をつめる。
「殺すのよっ!!!」
シンディが再び叫ぶ。
トシが慌てて振り向きシンディに駆け寄る。
「やめ、やめるんだシンディ!」
トシはシンディから制御器を取り上げようとするがシンディが振り払う。 トシの眼鏡が飛んだ。
「何よ! 何をするの! 邪魔しないでっ!!!」
シンディは追いつめられた獣のように荒れた瞳でトシを見た。
トシがシンディに近づく。
「止めるんだ! あの子は――巳白は――俺の妹の子供なんだ! 俺の大事な甥っ子なんだ!!」
トシの声はスピーカーを通してゲストルームに響き渡る。 弓達が声を聞いてシンディ達の方を見る。
「甥っ子?」
「あの人の?」
「ぼくと兄さんが?」
それぞれにトシの顔を見る。
眼鏡を取ったトシの顔は――トシの瞳は――
「――あ!! だからあの時不思議な感じがしたのね」
弓が女官長と一緒に馬に乗って帰ってきた時に、トシをみて変な感じがした事を思いだした。
同じように検査室にもトシの声が流れる。 だが巳白によそ見をする余裕は無い。
「何言ってるの! 復讐するんでしょ! 苦しめて苦しめて殺してやるんでしょ!」
シンディが怒鳴る。
トシがなだめる。
「違う! 違うんだ、いや、もういいんだ、そんなこと、どうだっていいんだ!! だからセルビーズを止めろ。 あの二人を解放するんだ!」
しかしシンディはガタガタと震えながらかすかに引きつって言った。
「開放? 無理よ。 もうあの二人は殺すしかないのよ。 いいから、殺すの、殺すのよっ!」
シンディの声を聞いてセルビーズが巳白に襲いかかる。 巳白はしゃがんでセルビーズの足をつかむとそのまま飛んでリトから離れる。 セルビーズが翼を広げてブレーキをかけ、まるで風車のように体ごと回転して回ると、その翼の先端が巳白の体に斬りかかる。
巳白の服が裂け、血がにじむ。 巳白はそれでも構わずにセルビーズを壁にぶちあてようとした。 だが再度セルビーズが翼をひろげてブレーキをかけると、もはや巳白の力では空中にいるセルビーズを動かすことはできなかった。
セルビーズはその長い腕で巳白をつかむとベットに落ちた。 巳白はセルビーズに下敷きにされる形でベットにたたきつれられた。
セルビーズは巳白が手を足から離したのを確認すると、リトの方を向いた。
セルビーズがじわりじわりとリトとの間合いを縮める。 リトは壁の端まで来て、もうこれ以上逃げる場所は無い。
「シンディ! いいから止めるんだ!」
トシがシンディから制御器を取り上げようとするがシンディが暴れる。
トシはシンディを突き飛ばすと行動室に設けられた黒いスイッチを押してセルビーズを見る。 そして拳で壁を叩いた。
「ちくしょう! どういう訳だ! 緊急自動制御装置を作動させたのに効かないじゃないか!」
床にうずくまったシンディが嗤いながら答えた。
「あっはっはっ。 さあ〜? さっきそこら辺の機械なぎ倒しちゃったから壊れたのかもね」
「その制御笛を貸すんだ!」
トシはシンディから制御笛を取り上げようとする。
しかしシンディは笛を握りしめて叫ぶ。
「殺すのよ! 殺すのよ! 殺すのよっ!!!」
トシはやっとのことで制御笛を取り上げると思いきり吹いた。吹いた。 吹いた。
もうこれで大丈夫なはずだった。
トシはセルビーズの様子を見る。
そして愕然とした。
セルビーズは何の変わりもなく殺意に満ちた目でリトとの間合いを近めていく。
「何故だ!!」
トシが叫んだ。
あーっはっはっはっ、と、シンディが叫ぶように笑った。
セルビーズとリトの間合いがかなり近くなったとき、セルビーズが「その気配」を感じて動きを止めた。
「その気配」は背後から、そう、巳白をたたきつけたベットの側からただよってくる。
セルビーズが振り向く。
巳白が翼を大きく広げて立ち上がっていた。
羽の一本一本が緊張し小刻みに震えている。
巳白を中心に重力が集まり始める。
巳白を中心に冷気が溢れてくる。
「……リトには何もさせない」
巳白が呟く。
「弓の友達に、手は出させない」
巳白が顔を上げてセルビーズを見る。
さきほどちらりと見せた絶対威嚇とは比べようもないほど強い絶対威嚇だった。
セルビーズはリトに背を向けて巳白に向かって歩いていく。
巳白の体中から絶対威嚇が立ち上る。
セルビーズは構わず巳白に近づいていく。
かなり強い圧力の中、セルビーズが更に近づいていく。
セルビーズの呼吸音が細く長く、響いた。
そしてセルビーズの唇が動く。
「若造が」
次の瞬間、セルビーズが体から出した絶対威嚇で巳白は跳ねとばされ、壁にめり込むほど体を打ち付ける。
そしてセルビーズはすかさず身を翻してリトに向かって襲いかかった。
リトは目を閉じた。
「リトっっ!!!」
弓の声が、した。
空中に光の筋が弧を描いた。
振り下ろされたセルビーズの硬質化した手が何かにぶち当たり硬い音をあげた。
リトはおそるおそる、目を開く。
見えるのは長い黒髪を一つにまとめた少年の背中。
「羽織くんっ!!??」
そう。 羽織だった。
羽織がセルビーズとリトの間に入り込み、振り下ろされたセルビーズの手を陽炎の剣で止めていた。
「羽織さまっ!」
弓が壁ガラスごしに言った。
「マジだぜ!」
「羽織だ!」
世尊と清流も声を上げる。
ガラスには割れた後は一切ない。
「進化だ」
来意が呟いた。