9-7 記憶の糸
「さて、それじゃあまず、巳白の脳にアドレナリンを投与してみるわ」
シンディは手元のボタンを操作する。
そしてじっとモニターの巳白を見つめる。
画面に映し出された数字やグラフが微妙に変化するが、巳白に目立った変化は見られない。
そしてすぐに変化していた数値が初期設定に戻る。
「巳白は気づいていないけど、コルチゾールやセロトニンが分泌されて、バランスを取り戻したわ。 なかなか本能的に対処ができるタイプみたいね。 いい感じだわ」
「つまり理性的ってことか」
「そうね。 理性を保とうと本能が働いている。 結構、内にためちゃうタイプね。 こうなければいけないと潜在意識で抑圧している。 これはちょっと、お嬢ちゃんを襲わせるには手がかかるかも」
シンディが背もたれにもたれる。
「――ま、時間も無いし、無事に帰す必要もないし、記憶の糸でやっちゃおうかしら」
ヒュウ、と、トシが口笛を吹く。
「記憶の糸か。 人を襲った翼族の記憶を紡いだ糸を、巳白の脳とリンクさせて巳白に疑似体験してもらうつもりだな? 疑似体験だが、その時の感情時の脳内ホルモンの分泌バランスを完璧に再現しているから”その気”になっちゃうってか」
「そうよ。 翼族が人間を襲う時の脳内バランスはある種特異なパターンだから、それを巳白の脳に何度も擦り込む。 何度かやれば巳白の脳は襲う時独特の脳波に支配され、彼女を襲う、と」
シンディはふと、自分が検査された時のことを思い出した。
この脳内ホルモンの分泌操作をされると、自分の意志とは関係なく感情を動かされた。
何も起こっていないというのに、どこまでも幸せな気持ちにもなったし、どこまでも暗く塞いだ気持ちにもさせられた。 気持ちよくもなったし、痛みも感じた。
感情の操作をさせられているシンディを見ながら、脳はあらゆる意味で素直なものだと開発者の喜ぶ姿が思い浮かんだ。
それはたいそう、気持ちが悪かった。
本来の自分の意識と、作られた意識のせめぎあい。
自分の意識が負けた時、作られた意識のせいで私はあんな――!
「シンディ?」
トシの声に、ふと我に返る。
シンディは唇を噛んだ。
――思い出す事は、負ける事だわ。 過去の事は何も考えないのよ、シンディ
シンディは自分に言い聞かせる。
「ええ、トシ。 それじゃあ始めましょうか」
シンディが近くのロックを外すと引き出しが開き、その中には沢山の試験管が入っている。
試験管の中には絹糸のような色とりどりの糸が一つずつ入っている。
シンディはそれに貼られたメモを一つずつ眺めた。
「ノクータル地方で30人を虐殺した奴の分……は、ちょっと強烈ね。 北地方のリード山脈で殺滅されたロイボックル、この位が最初は適当かしら」
シンディは試験管を持ったまま、別のスイッチを押す。 するとすぐ側にそれを入れる空間が作り出される。
シンディが試験管の蓋をあけて、そっと糸を掴む。
「意識を開くなよ。 この糸の記憶をお前が見ることになる」
トシが注意を促す。
シンディは笑った。
「今更、開くはずないじゃない」
そして糸を空間の中に閉じこめると空間は消え、代わりにモニター上に数値の表示が出た。
「開始、っと」
シンディがボタンをクリックした。
「!」
一瞬、巳白が痛そうな感じで片眼をつぶった。
「どうしました?」
リトが不思議そうに尋ねた。
「あ、いや、別に」
巳白は答えた。
そして周囲を見回す。
別に何も変わったことはない。
ただ、なんとなく、不安だ。
どうして、ずっとひっそりと生きてきたのに、こんな事に巻き込まれなければならないんだろう。
ただ僕はこの人を抱きしめたいだけなのに
「はいっ?!」
巳白がいきなり声を上げた。
――俺、今、何を考えた?
リトが目を丸くして驚いている。
「あ、ゴメン、ゴメン」
巳白は取り繕う。
「そういえば、巳白さん、もう翼は平気なんですか?」
リトが尋ねた。
――本当は……かなり痛いんだけど
「ああ、もう平気。 ここに来る時だって飛んだだろ?」
巳白は返事をする。
飛ぶ時は二人きりじゃないか
このまま彼女を連れ去りたい
彼女を抱きたい
何度でも抱きしめたい
「!」
巳白はブルブルと頭を振った。
そして肘をついて考える格好をした。
――何だ? いまの感情は?
愛してる。
愛している。
彼女のすべてを自分のものに
「!」
巳白はぎゅっと目を閉じた。
「巳白さん?」
リトが尋ねる。
巳白は薄目を開けて、行動室のシンディ達を見た。
ニヤニヤと笑いながらこちらを見ている。
――世尊の言う通りだな。 あいつらか。
巳白は再度、目を閉じて言った。
「リト。 ゴメン。 ちょっと疲れた。 休みたい。 離れてくれ」
「――えっ? 大丈夫ですか?」
リトが心配するが、それは巳白にとっていい迷惑でしかなかった。
「翼が痛むんだ。 ちょっと翼を広げたいから。 広げた時に羽の先が当たったら切れたりするからさ。 だから離れてくれるとありがたい」
しかし巳白は、優しく告げた。
「あっ、分かりました」
リトは素直に従い、自分のベットの方へ行く。
――サンキュ、リト。 素直だな。
巳白は感謝する。
素直だな。
素直だな。
僕の望みどおり、君は体を捧げてくれる。
僕は君を――
巳白に出来ることはただ耐えるだけだ。
巳白が翼を広げて気を逸らす
そして検査室にはだんだん変な雰囲気で満たされていくのだ。
「おっかしいわねぇ。 反応がかなりイマイチだわ」
シンディがモニターで巳白を見ながら呟く。
「どうした?」
トシが尋ねる。
「いえね、平常心からアクセスできたから、かなり自然に意識にとけ込んだはずなのに、まるでこういう事もあると昔から知っていて心づもりができていた感じ」
「つまり?」
「自分の意識の中に沸き上がった感情を他人の物だと早くも認識したってこと」
シンディが面白く無さそうに言う。
「まぁ、それならそうで――」
シンディは別の試験管を取り出す。
「もっと先にいってもらうとしましょう」
そして中の糸を空間に入れる。
すると、モニターの中の巳白が、一瞬微かに震える。
「次は何を見せてるんだ?」
トシが尋ねた。
シンディは試験官を指で転がしながら言う。
「人を殺したいという衝動に駆られた翼族の意識ね。 一人だけのバージョンも、複数を殺したいと思っていたバージョンもあるし。 ああ、仲間を殺されて激昂してるのもあるわ。 ただの性衝動から相手を襲う――あら、これは人間製か。 まぁいいわ、ハーフだから効くでしょう。 他にも、ハーフならではの拷問を受けた記憶もあるし、よりどりみどり。 どこかで彼の意識も限界に達するわ」
トシが頷いて言った。
「シンディ。 奴が限界に達しそうな、最後の時は俺に操作させてくれないか?」
シンディがトシを見上げて、ふふ、と笑った。
「そういう事? 分かったわ。 巳白が狂うその瞬間はあなたにさせてあげる」
トシは頷いた。
「でもトシ。 人間ってね、よほどの事がないと最後に情けをかけちゃうってタイプも多いのよ。 行くからには最後まで行かなくちゃダメ。 ここは私一人でも平気だから、あなた今のうちに憎しみをきちんと再確認して固めておくことね」
シンディの瞳が冷たく光る。
トシは尋ねた。
「ああ。 分かった。 それで、お前は――情けはかけないのか?」
シンディは言った。
「翼があるというだけで、すべてこの世から消してしまいたいから、情けなんてかけないわ」
拷問できる人間には二種類あると、聞いたことがある。
一つは、他人の痛みを知らないが為に無茶な拷問をするタイプと
もう一つは、自ら痛みを知ったためにその記憶よりも更に痛みを与えようとするタイプ。
シンディは後者のようだった。
トシは少しだけヒヤリとしながら、自分の部屋に行った。
このままで、俺はこの拷問についていけるのだろうか?
”狂う”なんて、言葉で言うのは簡単だが、実際、そこまでの拷問をやったことの無い自分にその一線を越えきれるのか?
憎しみを再確認する必要がトシにはあった。
トシの部屋の中には最も適したものがあったから。




