9-5 これでもう、後戻りは
午後の学びが終わり、4階に女官達の気配がただよいはじめる。
リトと弓の部屋の扉が開く。 中に入ってきたのは当然弓だ。
弓は扉をそっと閉めて、リトのベットを見る。
リトは枕元に数冊の雑誌と推理小説を散らかしたまま気持ちよさそうに寝息をたてている。
弓は小さなため息をつくと、リトを起こさないようにそっと枕元の本を重ねて整理する。
リトは枕にうつぶせに寝ていた。
弓はそんなリトを見て小さく微笑んで、リトの机の上に今日の学びの事を書いたノートを置く。
「じゃあまた明日ね。 リト」
弓は小さくそうつぶやいて、そっと部屋を後にする。
扉がきちんと閉まり、弓の足音が遠ざかっていくのを確認してから、リトは目を開けた。
そして部屋の窓から外をのぞく。
そくには義軍の手を引いて去っていく弓の姿が見える。
「……ごめんね、弓」
リトは呟いて、ベットに戻って腰かけた。
巳白に協力すると言った後、リトと巳白は作戦を立てた。
作戦といっても、「来意に気づかれない」これだけだ。
その為には来意の勘を刺激しないようにする。
刺激しない為には、来意と接する者との接触を極力抑える。
寝たふりというのは苦肉の策だった。
リトはすぐ表情に出るから弓と普通に話していたら、弓が何かを気づいて陽炎の館で来意に相談するかもしれない。
それではいけないのだ。
おそらく調査委員会に協力するなんて知られたら止められるのは目に見えている。
ただ、リトは一度、みんなに協力してもらって報酬を奪い取ってきたらどうかと言った。
しかし巳白の出した答えはNOだった。
翼族の魔力やパワーは殆どが翼に凝縮されており、それはハーフになっても変わらない。 だから翼そのものに魔力的価値があるのだという。 裏取引を使えば血統の良い翼なんかは高額で取引される。
となると、清流の翼がどのくらい残っているのかもしくは数枚の羽だけなのか、それは今は分からないが、逆にいつどこの誰に売られてもおかしくない品物なのである。
それに、無理矢理奪い取りに行ったらトシがどのようにして清流の翼を手に入れたのかは分からないが、第三者が商品として持っている以上、勝手に取り返すのは道理に反するというのである。
「……」
リトは黙ったまま、じっと床をみつめる。
この方法が正しいのかどうかなんて分からない。
それに、またシンディと会うのはためらわれる。
シンディは迷いもなくリトに危害を加えたのだから。
それでも、もう止められなかった。
「腹へったぜぇー!」
世尊が叫ぶ。
「ちょっと世尊、口を動かす暇があったらさっさとお皿並べて手伝ってよね」
清流が文句を言う。
「今日はグラタン?」
羽織が尋ねる。
「残念、ドリア」
来意が返事をする。
夕食の時間。 陽炎の館ではにぎやかに準備をしていた。
弓がサラダボウルを持ってテーブルに来る。
「あら? 巳白は?」
弓がテーブルについたみんなを見回して言う。
テーブルに巳白がついていない。
「さっき部屋に行ったら、兄さんは寝てたよ」
清流が言う。
弓が心配そうに2階に続く階段を見る。
「巳白、何か食べたのかしら」
弓の持ったサラダボウルをそっと受け取って羽織が言う。
「子供じゃないんだから、お腹がすいたら自分で起きてきて食べるさ」
「そういう事。 さ、弓。 さっさと食べよう。 僕はかなりお腹が空いてる」
来意が自分のお腹をさする。
リトはちょっとだけ考えて、頷く。
「そうね♪ 食べましょ」
そして、楽しい夕餉が始まった。
「おやすみ」
「おやすみ」
夜も更けて、みんなそれぞれに挨拶をして辺に戻る。
弓も自分の部屋に戻る。
しばらく編み物をして、ふと視線を扉に向ける。
「リト、もう寝ちゃったのかしら」
弓はリトと朝のほんの少ししか話していないので、何となく物足りない気がした。
弓は扉の側まで来ると、扉を5回、ノックする。
たいていは扉の向こうからリトの「どうぞ〜」という声がするのだが、今日はしぃんとしている。
「……寝ちゃってるみたい」
弓はちょっとつまらなさそうに呟く。
そして時計を見る。
「でも、こんな時間だから仕方ないわね。 私も寝ようっと」
弓はそう言ってベットにもぐりこむ。
――おやすみなさい
弓は目をとじて、眠りについた。
同じように、義軍も世尊も、清流も、羽織も、そして来意も眠りにつく。
館全体が水をうったように静まりかえってどの位たっただろう。
巳白がそっとベットから起きた。
その夜は、厚い雲が月を覆った夜だった。
リトの部屋の窓がカタカタと小さく揺れた。
リトはベットからそっと起きあがり、窓の鍵を外して窓を開ける。
風が、部屋に流れ込んでくる。
いや、風のように巳白が飛んできたのだ。
白い羽が折りたたまれる。
床が微かにきしむ。
「おまたせ」
リトの部屋に降り立った巳白が言った。
「用意はいいか?」
巳白が尋ねた。 普段着に着替えていたリトは頷いた。
巳白が右手を伸ばす。 リトは吸い寄せられるように巳白の右側へと行き、抱えられる。
巳白の翼が広がり、リトと巳白は宙に浮く。
一瞬だけ、自分の重みがその場に取り残されたような感覚がする。
次の瞬間はリトはまるで風になったように巳白と一緒に空中にいた。
「二度目ですね」
空中を飛びながら、リトは言った。
「私、最初に巳白さんに会った時に飛んだもん」
巳白は返事をしなかったが、微笑んでいた。
リトは不思議な気持ちになっていた。
ラムールにつかまったまま飛んだ事はあったが、巳白の飛び方はラムールの飛び方よりも自然で気持ち良かった。 巳白と飛ぶと空気が柔らかいというか、風の流れが見える気がした。
ほら、こうやって地面に向かって急降下して行く時も、必ずぶつからないという安心感がある。
――シンディがレセッドとのデートで空を飛ぶのが大好きだったっていうの、分かるなぁ
リトはそんな事を一瞬考えて、頭を横に振る。
――ダメダメ。 あの人はきっと私が記憶をなくしてるって思ってるから。 そうふるまわなきゃ。
そうこう考えているうちに巳白は闇夜を切り裂いて広場に着陸する。
巳白がリトを地面に降ろし、この前トシが消えた樹の前まで行く。
巳白がじっと、樹をみつめる。
リトもおそるおそる、巳白の背後に立つ。
次の瞬間。
目の前に黒い空間がぽっかりと口を開けた。
『ようこそ』
その中からトシの声が機械を通して聞こえる。
空間を覗くと、その先には下へと続く長いらせん階段が見えた。
まず巳白が足を踏み入れる。
『お嬢ちゃんも』
機械から声がした。
リトはごくりとツバを飲んで足を踏み入れる。
リトが中に入ると自動的に空間が閉じた。
これでもう、後戻りはできなかった。
リトと巳白は長いらせん階段を下に降りていく。 ぐるぐる回っていくのでどの位下の階に来たのかが想像つきにくい。
「結構、長い階段ですよね……」
リトがそう言ったが、巳白の返事はない。 話している余裕なんて今の巳白には無いのだろう。
ぐるぐる回って、リトがちょっと酔いそうだと感じた時、巳白が足を止めた。
リトが巳白の肩越しに見ると、先には扉が一つある。
『どうぞ、入ってちょうだい』
今度はシンディの声がどこからかのスピーカーから流れてきた。
巳白は一度、リトの方を振り返る。 そして左側の翼を浮かせて、リトを促す。
リトは巳白の左側に入る。 リトを守るマントのように巳白の翼がリトを包む。
巳白が扉に手をかけ、開ける。
「――!」
扉の先の部屋のあまりの明るさに、リトは目をつぶる。 リトを包んだ巳白の翼が少し動いてリトのために日影を作った。
「こっちへどうぞ」
今度は直接、シンディの声が聞こえる。 巳白が声の方向に向かって進む。 リトは巳白にしがみついて進みながら少しずつ目を開ける。
巳白が歩みを止めて、翼をたたむ。
リトはようやく目が慣れて周囲を見回す。
そこは、とても広い部屋だった。 天井の高さも部屋の広さも普通の部屋の3倍はありそうだ。 だが全体的に真っ白で、装飾が無いどころか天井にも電気すら無く壁全体が明るくなっているこの部屋は、まるで大きな紙箱の中にいるようだった。 ただ、一カ所だけ壁のかなり天井に近い部分にガラス張りの窓が見え、その窓の先には無機質なコンクリートの壁に機械のランプが時々点滅している部屋が見え、そこにトシの姿がある。 トシはリトが自分を見た事に気づくと片手を軽く上げて挨拶をした。
そしてこの部屋の中央には簡易なベットが並んで二つ置いてあった。
他には、何もない。 機械すら。
リトはちょっと意外だった。 きっと、シンディの記憶で見たような訳の分からない機械が所狭しと並べられているのではないかと考えていたから。
ただ――リトは「何かの」気配を感じていた。
この気配は巳白も気づいているのだろうか?
リトは巳白の横顔を見る。
巳白は目を逸らさずにシンディを見ている。
「ようこそ! 協力に感謝するわ」
シンディが社交的な笑顔で近づいて来て、巳白に握手を求める。
巳白はその手を握りかえす。
シンディはもう一度”にっこりと”微笑み、今度はリトの方を向く。
「あなたも友達想いなのね。 今日は協力者としてここに来てくれて御礼を言うわ」
そして手を差し出して握手を求める。
リトはちょっとためらってから、握手をした。
手を離した後、シンディは”にっこりと”微笑む。
「それじゃあ検査の内容を教えるわね。 といってもお嬢ちゃんは何もしなくていいわ。 巳白くんと一緒にこの部屋に数時間いてくれたらいいだけよ。 その間は巳白くんと話をしててもいいし、寝てもいいし、とにかく好きなことをしていてちょうだい」