【9部 悪魔の誘い】 9-1 誘い
洞窟から救出されて三日後。
清流が巳白の部屋の扉を開けて顔だけ入れた。
「兄さん。 それじゃ、ぼく達、行ってくるね。 ちゃんとぼくが煎じた薬も飲んで、しっかり休んで、お昼は下の厨房の冷蔵庫に……」
「んー。 わかったわかった」
巳白はベットに寝たまま手だけを降って、清流の話を止めた。
「兄さぁん」
清流がもどかしげに体を揺らした。
しかし巳白はブランケットを体に巻き付けてベットで丸まる。 清流は呆れたようにため息をつくと、
「ぜーったい、薬は飲んでよねっ!」
と、念を押して扉を閉めた。
窓の外から「遅いぜ、清流」と、世尊達の声が聞こえる。
巳白はベットの中で気持ちよさそうに寝息をたてていた。
穏やかな時間が流れる。
鳥のさえずりと、木々のざわめき、川のせせらぎ。
農作業をするスイルビ村の人達。
そして誰かが扉に触れた時のガタリ、という音の気配で、巳白はゆっくりと目を開けた。
「ふぁ……」
巳白は大きなあくびをしながら起きあがり、大きく背伸びをした。
目にうっすらと涙を浮かべて、気持ちよさそうに首をまわす。
「いい夢だったなぁ」
巳白は少し嬉しそうにそう呟くと、ちらりと窓の外に目を向ける。
そして軽く首をかしげるとベットから降りる。 床が軽くきしむ。
巳白は立ち上がって再び大きく背伸びをしようと翼に力を入れた。
「――いったたっ」
ところが巳白はそう言って翼から力を抜く。
そして再度、ゆっくり翼に力を入れる。 しかし翼はほんの少ししか動かさない。 あまり動かせない。
「痛ぃなぁ……」
そうぼやきながら部屋を出て1階へ階段を下りる。
弓と義軍は白の館に学びに行っているし、羽織、世尊、来意、清流の4人は陽炎隊として国内や森の自警に出ている。 よって陽炎の館は巳白一人だけしかおらず、静まりかえっている。
歩きながら巳白はシャツを脱ぐ。 片手で脱ぐのも慣れたものだ。 上着は佐太郎が特別に作ってくれたよく伸びる生地を使っているので翼があってもあまり苦にならない。
服を脱ぎ散らかしながら巳白は厨房に行き、テーブルの上に置かれたパンと壁から吊られたソーセージをちぎる。 パンをほおばりながら冷蔵庫の扉を足で開ける。 瓶詰めの牛乳と、清流が煎じた薬の入った小瓶、その二つを取り出すと、再び足で冷蔵庫の扉を閉める。
もぐもぐと口を動かしながら巳白はふと窓ガラスに写った自分の姿に視線を向ける。
――行儀が悪いって怒られるな、これじゃ
そう心で呟いて笑う。
――ま。 誰も見てないから目をつぶってもらいましょ
巳白はガラスに写った自分に向かってウインクをした。
そしてソーセージもほおばりながら広間の大きいテーブルへと歩いていく。 テーブルにつくころにはパンもソーセージも食べ終わっており、巳白は椅子に座ると同時に清流の煎じた薬湯を一気に飲む。 巳白は顔をしかめ、翼はブルブルと水気を切るように震えた。
「まずっ!」
巳白がそう言って舌を出し、次に牛乳を一気のみして息をつく。
そして翼を再び軽く動かし、顔をゆがめる。
「さすがに簡単に治らないなぁ」
巳白はそう言うと立ち上がり、玄関へと向かった。
扉がノックされ、弓が白の館の部屋に入ってきた。
「リト、起きてる?」
リトはベットの上で本を読んでいた顔を上げる。
今の時間は、まだ午前の学びの最中だ。
「起きてるっていうか、もぉ寝るの疲れたぁ」
リトはそう言って大きく背伸びをする。
「ああもぅ、早く学びにも出たいし、仕事も行きたいっ! こんなにグタグタしてたら溶けちゃうよ」
リトがぼやくのを見て弓が笑う。
「だからって、また勝手にいなくなったら、みんな心配するんだからね?」
「……はーい」
リトは申し訳なさそうに舌を出す。
先日、神の樹を使って白の館の裏庭まで帰ってきたはいいが、実はその頃、白の館ではリトが部屋にいないと言うので大騒ぎになりかけていたのだ。 すると誰かよく分からない者が見舞いに来た後だというではないか。
当然、女官長達は「肩書きの意識」を使われて翼族調査委員会がやってきたのだと思い、リトが連れ去られたのではないかと上へ下への大騒ぎ――の中、リトはハルザに連れられて白の館に無事帰宅。 こっそり抜け出して庭を散策していたと思われたリトが大目玉をくらったのは当然だろう。
という訳で、念には念を入れて、リトには面会謝絶&時々誰かがきちんと部屋にいるか確認、という環境においやられた訳で。
弓は自分の机の引き出しを開けて何かを探しながら嬉しそうに告げる。
「でも女官長様がおっしゃってたわよ。 委員会の人達、あと数日もしたらもう国から出て行くって。 報告書が完成したから決済が降りたらここにいる理由もないからって。 それまで我慢我慢」
「はーい」
リトは素直に返事をした。
「ところで弓、何探してるの?」
リトは問いかける。
「うん。 この後の学びがハーブブーケ作りなんだけど、それに使うつもりで持ってきてたハーブ……が、……無いの」
弓は首を傾げながら引き出しを探す。
「弓、今朝来た時、そんなの持ってきて無かったよ? 陽炎の館に忘れてきたんじゃない?」
リトが言う。
「ホント? 持ってきてなかった? 厨房に置きっぱなしだったかしら」
弓が首をかしげる。
「いーじゃん、弓。 扉使って取りに行ったら?」
「そっちの方が早そう」
弓が頷き、扉に向かう。
「あっ、弓。 せっかくだから私もついていっていい?」
リトは思い立ち身を乗り出す。
「だって、暇なんだもん! この部屋に缶詰なんだから、少しは部屋を出たいっ!」
リトは思いきりダダをこねる。
弓が少し考えて答える。
「……ちょっとだけよ?」
「ありがと、弓っ! 大好きっ!」
リトは跳ね起きるとカーディガンをはおる。 さすがにパジャマを着替える時間はくれそうになかったから。
弓は苦笑してから気を取り直し、扉を5回、リズミカルにノックして、扉を開ける。 扉の向こう側には白の館の廊下ではなく、陽炎の館の弓の部屋に続いている。
リトと弓は一緒に弓の部屋の中に入って扉を閉める。 そして再び、扉を開ける。 すると今度は扉の先には陽炎の館の廊下が続いている。
「やっぱり不思議よねぇ」
リト達はそう言いながら廊下に出る。
陽炎の館はしんと静まりかえっている。
「静かだねぇ」
リトが言った。 弓が頷く。
「羽織様達は自警に出かけているもの。 巳白はまだ寝てるのかしら? ……あーっ!」
弓が辺りを見回して軽く叫ぶ。
弓が叫んだのも仕方がない。 なぜなら通路や階段に、巳白の服が一枚ずつ放置されているからだ。
よくよく見ればテーブルの上に飲み干した薬瓶と牛乳瓶も放置されている。
「うっわぁ、散らかしてあるねぇ」
リトが笑った。
まるで気をぬいた時の自分の部屋のようだ。
「んもぅ、巳白ったら」
弓がふくれる。
「大丈夫よ、弓。 巳白さんだってまさかこんな時間に弓が帰ってくるなんて思ってもいないから散らかしたのよ。 普通に弓達が帰って来た時には綺麗になってるんじゃない?」
リトはまるで自分をかばうように、巳白をかばう。
弓は軽くため息をつく。
「ならいいんだけど。 でも、散らかしたまんまだなんて、巳白らしくないわ」
そう弓は言ったが、本当は巳白らしい行動だったのだ。
巳白は誘いに乗って出かけていたのだから。
そう、清流のために。
行動室でモニターを見ていたトシが呟いた。
「――来たか」
その言葉を聞いてシンディもモニターに目を向ける。
「驚いた。 本当に来たわね」
モニターには城下町の隅にある広場に空中から舞い降りてくる巳白の姿が映し出されている。
「何て手紙を出したのよ」
シンディが感心したようにスイッチを入れる。
行動室全体が軽く唸り、扉のロックが外れる音がする。
「別に」
トシはそう答えると、扉へと向かう。
「私も行くわ」
シンディが腰を浮かすが、トシは首を横に振る。
「とりあえず俺にまかせておけ。 心配するな。 必ず俺たちの望み通りになるさ」
巳白は広場に降り立つと、周囲を見回した。
四方は樹や壁ばかりで誰もいない。
巳白の額にうっすらと汗がにじみ、軽く肩が上下する。
「かなり急いで来てくれたみたいだな」
急に背後でトシの声がした。
巳白は驚いて飛び退くと、トシの声がした方を見る。
するとそこには樹によりかかったまま腕を組んで立っているトシがいた。
巳白の翼が呼吸とともに上下する。
「×マークのある広場だなんて、面倒な指定っすね。 普通分からないでしょ」
「だけど君は見つけきれた。 この広場には大きく二本の線が引いてある。 地上しか歩かない人間にとってはただの線だ。 しかし、君は空から見ることができる。 線がただの線ではなく、印だと」
トシはそう言って組んでいた腕をほどき、巳白に向かって歩いてくる。
トシは巳白の顔をじっとみつめた。
――こいつは憎いあの男にも、妹にも似てないな
ふとそんな事を考える。
――まぁいいか。 あの男にそっくりな弟の方だったら俺はこうして話しすらせずに殴りつけてしまうだろうからな
「――俺が何か?」
巳白が怪訝そうに問う。
「いや。 別にたいしたことじゃないんだ。 ただ俺としてはだね、保護責任者に邪魔されずに君と話をしたかった、君に協力してほしい、それだけさ」
トシが唇の端を上げて笑ったふりをする。
「俺は保護責任者の意志を無視して協力するつもりはありません」
巳白ははっきり言った。 しかしトシは気にもしていなかった。
「だけど君はここに来た。 安心したまえ。 保護責任者の意志に背いた行動を取れば、君は保護責任者から抹殺されても仕方がない。 でも俺としてはだね、別に協力してもらった事を保護責任者に報告したりするもつりは毛頭無いんだよ。 だから君の身は安全なんだよ」
巳白が黙った。 トシが続ける。
「それに俺としてはだね、別に君に悪い事に手を貸してくれとか犯罪に手を染めろとか、その類のお願いをしたい訳じゃない。 ただ、データが欲しいんだよ。 翼族の血を引いた者のデータがね」
「データが……?」
巳白が呟いた。
「そう、データだ。 といっても、もし仮に君が自分の他に翼族の血を引いている者を知っていたとしても、そいつのデータまで欲しいなんて言ったりしないさ。 サンプルが多いのにこしたことはないけどね。 そこまで望んだら誰も協力してくれないだろう?」
トシは巳白の表情をほんの少しの間、観察する。
そしてつとめて明るく話し出す。
「君。 深く考えなくていいんだよ。 データの提供なんて、結構、大勢の翼族やハーフの者が協力してくれてるんだから。 君としては俺たちのいる委員会ってとこは翼族に対して酷いことをするって位にしか考えてないだろう? だけどそれは誤解だ。 人間だって、悪いことをした人間を逮捕したり処罰したりするじゃないか。 俺たちとしてはだね、それと同じで共存していける翼族を殺したりはしないさ。 誰かを襲ったり危害を加えるなら、そういう者が捕まったり、処罰されるのに人間も翼族も関係ないだろう?」
巳白がかすかに頷く。
トシは巳白の周りをゆっくり歩く。
「それに人間と翼族が手を結んで研究を進めれば、どうして翼族が急に人食になるのかのメカニズムが解明されるかもしれない。 例えば、それがウイルスによるものだったとしたら? そのウイルスを除去することができたら? 人間だって、翼族と仲良くやっていきたいんだよ。 しかし翼族はなぜか時に人食に走る。 だからおびえるんだよ、人間は。 弱いからね。 だからその人食の原因を突き止めて解決すれば人間と翼族は永遠に良きパートナーとして力を合わせていけるんだ。 すばらしい事とは思わないかい?」
巳白は黙っていた。
そこにトシがたたみかけるように一言追加する。
「協力してくれるのなら、きちんと望み通りの報酬をあげよう」
二人の様子をモニターを見ながら、シンディが笑った。
「訓練所で教わった通りのなかなかの説得術ね。 うふふ。 合格点」