1.解体屋と狙撃手
月明かりの綺麗な晩だった。
とあるビルの屋上。
冷たい夜風に晒されながら、フェルナンド=シルバは静かにスコープを覗き込む。
照準はただ一点のみを狙い済まし、少しも動く事は無い。
スナイパーライフルを構えた姿勢で、フェルナンドは微動だにしないでいた。
ただ、時を待ち続ける。照準はほんの僅かもずれることはない。完全なる『静』がそこにあった。
サングラス越しに覗き込むスコープの向こう側。
林立したビルの隙間から、道路が見える。距離は大体二百メートルといったところ。
障害物は無く、構えたスナイパーライフルから目標地点までは一直線。
風が吹いているが、フェルナンドにとっての障害には成り得ないレベルだ。
筋肉の微細な動きにより、数ミリ単位のズレが生じる事もある。ただでさえ、人間はじっとしていても『動いている』のだから。
人体はいつもどこかしら動いているもので、本当の『安定』は中々得られない。
だが、フェルナンドはしっかりとライフルを構え、緊張することもなく標準を定めている。
時はすぐそこまで迫っているのだ。一瞬でも気は抜けない。
たった一発の弾丸。
弾丸なんてものは人間に比べれば何て事の無いちっぽけな存在に過ぎない。
それにも関わらず、弾丸は人を簡単に殺せる。驚くほど簡単にだ。
人間とは何とちっぽけな存在なのだろうか。
命とは何と虚しいものなのだろうか。
奪い合い傷付けあい……醜いことだ、とフェルナンドは思った。
だが、醜いと分かっていても、それでもやらねばならない。
生きるとはそう言う事だ。どこかで割り切らなければ、自分の正しさを保てない。
これから自分がする事は紛れもない『犯罪』だ。『悪』と呼ばれる行為だ。
それら全てを自覚した上で――フェルナンドは引き金を引く選択をする。
人差し指で一回引くだけで、命が一つ奪える。
自分が指をかけている引き金とはそういうものだ。フェルナンドはそう戒めている。
罪悪感の類の感情ではなく、己がしている事を確実に認識する為の自戒だ。
それを忘れてしまえば、自分は本当にただの人殺しになってしまう気がする。
都合の良い考えだと自分でも思う一方で、フェルナンドはそうなりたくはない、という気持ちも抱いていた。
ただ人を殺すだけの存在には、なりたくないと。
『旦那。――来たぞ』
耳に装着したイヤホンから相方の声が聞こえると同時、フェルナンドはカウントを開始する。
三。
冷静に、淡々と、狙撃手は時を待つ。
二。
夜風が追い風となって、背中に吹き付ける。
一。
そしてフェルナンドは己の動体視力と反射神経をフル稼動させ、その時に備える。
零。
ビルとビルの隙間に現われた『それ』を見た瞬間、フェルナンドは殆ど反射的に引き金を引く。
その瞬間でさえも、スナイパーライフルは微動だにせず――
弾丸は、解き放たれた。
ヘンリー=グラハムはこの街のマフィアの幹部だった。
多くの人間の人生を狂わせてきた。敵対組織を血祭りにしてやった事もあったし、強力な薬を撒いて多くの人間の運命を狂わせた。
順風満帆な人生だと、最期の瞬間までグラハムは思っていた。
人の上に立ち、人を支配できる。これほどの優越感はそうそう味わえない。
自分は人生の勝ち組だ。そんな思い上がりが、グラハムの心を支配していた。
生まれた時から、自分は勝ち組だったのだ。会計士としてマフィア組織に入り込み、幹部の座まで手に入れるに至った。
もはやアル=カポネもラッキー=ルチャーノも目ではない。自分は歴史に名を残す人間だ――絶頂期にいると思っていたグラハムは、そんな夢まで抱きだす。
その日とて、麻薬の取引を順調に終え、護衛と共に帰る途中だった。
両脇には腕の立つボディーガードを座らせ、後部座席の真ん中でふんぞり返る。
夜の街。その支配者は自分なのだと、グラハムは違和感も無しに思っていた。
目を閉じれば、栄光への階段が見えるような気がする。
ああ、幸せだ。これが勝ち組の人生か……!
一人恍惚に浸るグラハム。
終焉は、音も無くやって来た。
「…………は?」
気付くと、右隣のボディーガードが死んでいた。
直前、ガラスの割れる音とボディーガードの短い悲鳴が聞こえた気がするが、動転したグラハムには思い至らない事だった。
グラハムは隣を見て、絶句する。気付いた時にはもう、ボディーガードの男は動かなくなっていたのだ。
左隣のボディーガードも異変に気付き、車を止めるよう運転手に指示する。
車が止まる。
左隣のボディーガードは、唖然とするグラハムを車外に連れ出す。
助手席に座っていたもう一人のボディーガードと運転手と共に、車から離れて歩道に出る。
深夜の三時を回ると、人気もないに等しい。繁華街から少し離れた区域だったので、それは仕方が無かった。
そしてそれが、グラハムの命運を分けてしまった。
「くそ、頭を撃ち抜かれて死んでやがる!」
ボディーガードの一人が、驚愕の混じった声色で叫んだ。
頭を撃ち抜かれた。その事実を、グラハムはすぐには飲み込めなかった。
一体どこから、撃たれたのか。そもそも、動く車の窓越しに人の頭を狙い撃ちできるのか。
ぶるりと寒気が走るのを感じながら、グラハムは周囲を見回す。
夜の闇に包まれた街の静けさが、グラハムを恐怖に染め上げていく。
「とにかく、ここから離れ――」
ボディーガードの男が言いかけた瞬間、グラハムはその姿を見た。
薄暗い歩道の先に、一人の男が立っている。
作業着に身を包み、赤みがかった茶髪を夜風に揺らす男。
緑色の目が、こちらの姿を真っ直ぐ捉えた。
グラハムは思わず後ずさりする。
マフィアの幹部として、目の前の男にただならぬものを感じたからだ。
男はこちらに歩み寄ってくる。ボディーガードたちは瞬時に反応し銃を構えた。
しかし男は怯んだ様子も見せず、立ち止まった。
口を開く。
「パーフェクト……そう、パーフェクトだ!」
叫んだ。
グラハムも、ボディガードたちも、車の陰で震える運転手も、唖然とした。
空気が凍ると言うのはこういうことを言うのだろう。
寒い空気の中、作業着の男は一人喋り続ける。
「相変わらずフェルナンドの旦那の仕事はパーフェクト……パーフェクトワークだ! 素晴らしすぎて涙が出る……!
そして俺は俺の仕事を果たさねばならない! プレッシャー……そう、プレッシャーだ!
これで俺がしくじれば旦那のパーフェクトワークが無駄になる……おいおいヤベェな緊張してきたトイレ行ってもいい? ダメ? だよなやっぱり。
そう……俺は昔から緊張するとトイレに行きたくなる男だった……。
あれは確か定期テストの当日だったろうか――」
過去の失敗談を赤裸々に語りだした男に対し、グラハムは何と声を掛けたら言いか分からなくなる。
二人のボディーガードも顔を見合わせ「どうするよ?」といった表情を浮かべている。
それでも作業着の男は喋り続ける。聞いてもらえなくても喋り続ける。
「――かくして俺はジュディと出会い華やかな新生活をスタートさせる予定だったのだが、やはりそこはエリザベスが黙っていなくて修羅場突入というパターンが……って、話が逸れている……! 何と言う時間の無駄遣い……!」
勝手に頭を抱え始める作業着の男。
これはひょっとしたら、最近流通を始めた新薬の利用者かもしれない。
そうなれば『客』になる――グラハムは先ほどの恐怖など忘れ、金勘定のことを考え始めていた。
余裕を取り戻し、グラハムは口元に笑みを浮かべる。
そんなグラハムをよそに、作業着の男は未だに声を張り上げていた。
「スピーディ……そう、スピーディーだ! 俺は迅速に仕事を片付けなければならない……!
一体何の仕事か知りたいか? 知りたくない? どっちでもいい? それもアリだろう……!
そう……俺は昔から他人の意見を尊重する男だった……」
男はいつの間にか、銀に輝くスパナを取り出している。
自動車工場か何かで働いているのだろうか? とグラハムが思った瞬間だ。
作業着の男は、それを思い切りぶん投げた。
スパナは白銀の輝きを放ちながら、円盤のように飛来する。
反応する間もなく、スパナはグラハムと両脇を固めるボディガードの頭上を掠めていった。
意識がスパナの方へと傾く。
はっとグラハムが気付き、視線を作業着の男の方へと戻した時にはもう遅い。
作業着の男は、グラハムの眼前に迫っていたのだから。
「ヘンリー=グラハム……恨みは無いが俺は貴様を殺さなくてはならない……悲しい話だ」
「てめえ!」
ボディーガードたちが怒声を上げ、銃の引き金を引く。
だが、作業着の男は瞬時に後退し、銃弾を苦も無くかわして見せた。その動きの速さは、グラハムが今まで目にした事の無いようなものである。
驚きを隠せないグラハムの胸中に、再び暗雲が立ち込め始める。
殺される。
先ほどの作業着の男の言葉から、グラハムは確信に近いものを得ていた。
同時、恐怖が湧き上がってくる。死を間近に感じる、恐怖だ。
今まで自分は陥れる側の筈だったのに、いつの間にか自分が崖っぷちにいた。
「銃……銃か……しかし残念なことに俺には通用しないらしい……!」
作業着の男の姿が掻き消える。
右。
グラハムの右に立つボディーガードの男に向かって行ったのだと気付いた時には、作業着の男はボディーガードの懐まで入り込んでいる。
そして、銃を構えるボディーガードの右手首を、思い切り掴んだ。
「!」
一体どんな力で締め上げているのか、ボディーガードは銃を取り落とした。
そればかりか、表情が苦痛に歪んでいく。ミシミシ、と骨の軋む音まで聞こえた気がした。
ゴキン! と。
作業着の男は、赤子の手を捻るかのように、ボディーガードの手首を三百六十度捻って見せた。
「ぐあああっ!?」
ボディーガードが悲鳴を上げた。
男は手首から手を離すと、今度は首を引っ掴む。
そしてボディーガードの身体を引っ張り、グラハムの方に向けた。
グラハムの左にいたボディーガードが銃を構えていたのだが、首根っこを掴まれたボディーガードの身体は作業着の男の盾となってしまっている。
「人を盾にするとは……我ながら卑怯な行いだ! 自己嫌悪するね!
だが! 俺は昔から目的の為には手段を選ばない男だった……!」
首を締め上げる手に、さらに力がこもっていく。
グラハムは立ち尽くし、その光景を見ていることしか出来なかった。
目の前の『異質』に、成す術を持たないのだ。
「ふんっ!」
掛け声と共に、作業着の男はボディーガードを思い切り地面に叩き付けた。
頭から、真下に。
大柄なボディーガードの身体が、頭から地面に突っ込む。いやな音がして、首が変な曲がり方をしていた。
全体重が首にかかれば、そうもなるだろう。
最早ボディーガードは動かない。
グラハムの護衛は、残り一人となってしまった。運転手はいつの間にかいなくなっている。
「て、てめぇっ!」
我を取り戻したもう一人のボディーガードがグラハムを押しのけ、銃弾を放とうとするが――
作業着の男が投じたプラスドライバーが、ボディーガードの目に突き刺さる方が先だった。
「が、ああっ!?」
「スロウリィ……そう、スロウリィだ!」
ボディーガードが怯んだ隙に、作業着の男は一瞬にして距離を詰める。
途中にいたグラハムのことは完全無視だった。本来標的はグラハムの筈なのだが、そんな事はどうでもいいと言わんばかりの無視だった。
グラハムは懐の拳銃を取り出す。
恐怖の中に、グラハムは怒りを感じていた。
これ以上自分の栄光を汚す事は許さない。感情の炎が燃え上がる。
だが、グラハムの勇気は眼前の光景によりへし折られる事となった。
ボディーガードの背後に回りこんだ作業着の男は、ボディーガードの首を右手で。そして右のこめかみを左手で前から押さえている。
何だ、とグラハムが思った瞬間。
作業着の男は、左手を思い切り引いた。
恐ろしい剛力によって、ボディーガードの首がいやな音を立てて、殆ど百八十度回転した。
即死だと分かる一撃。
グラハムは両手の震えを堪えきれず、拳銃を落としてしまう。
作業着の男がこちらを見ている。最早邪魔者は誰もいないのだ。
「あ……ああ……」
一歩。また一歩。
作業着の男は近づいてくる。
「たっ……助けてくれ! 金ならいくらでも出す! だから、命だけは……!
家では娘が待っているんだ……! 頼む……!」
気付けば、グラハムは必死に命乞いしていた。
死の間際になると、プライドや体面などというものはどうでもよくなる。とにかく命を優先したがるのだ。
死んでしまえば何の意味も無い。生きることにこそ価値がある。
そう思っているからこそ、グラハムは命乞いする。必死に言葉を並べ立てる。恥も外聞もかなぐり捨てて生にしがみ付く。
「……ファミリー……そう、ファミリーだ……!
アンタのような男にも家族はいる……アンタの死を悲しんでくれるような家族が……!」
作業着の男はグラハムの手前で立ち止まり、そんな事を言い出した。
もしかしたら助かるかもしれない――そんな希望が、グラハムの心の中に灯る。
「そ、そうなんだっ……だから頼む! 命だけは見逃してくれぇ……!」
「……そこまで言われてしまっては、仕方が無い。命を取るのは止めにしよう」
すんなりと、作業着の男はグラハムの命乞いを聞き届けてしまった。
その瞬間、グラハムは一瞬歓声を上げそうになる。世の中、こんなに上手くいっていいのか?
やはり自分は勝ち組だった。至上の歓喜がグラハムの中に満ち溢れる。
「――命だけは、な」
「へ?」
作業着の男は、グラハムの右手を掴み、そのまま背後に回っていた。
目にも止まらぬスピード。グラハムは少しも反応する事が出来なかった。
「……人体はいい……人体は最高のパズルだ……そうは思わないか?」
手首が、ありえない方向に捻られた。
激痛が走り、グラハムは悲鳴を上げる。
背後の男は、ぶつぶつと語っている。
「幾つもの複雑な部品が重なり織り成す複雑なパズル……生物は凄いと俺は思うね……!
生まれた時にはもう、そのパズルは完成しているんだ。一体誰が組み立てた……! 母親か? いや遺伝子か? それとも神様か?
しかし誰が組み立てたかなんてことはさして重要じゃあない……」
肘が、普通とは逆の方向に曲げられた。
二度目の悲鳴。右腕を襲う激痛に、グラハムは死にたいと思い始めていた。
先ほどまであれだけ生きる事にしがみ付いていたと言うのに、だ。
「俺はそういうものを壊すのが大好きだ……! 分かるか?
組み上げたものを壊すという、あの達成感と喪失感の同居した行為がたまらなく大好きなんだよ俺は……!
ジグソーパズルを完成させた後で、それを派手にぶっ壊すんだ……たまらないぞ。
自分の努力が一瞬にして水泡に帰す瞬間の、あの何とも言えぬ喪失感……!
はっ! ひょっとして俺はマゾヒストだったのか!? いやいやしかし壊す事に快楽を感じているのならばむしろサディストでは……」
ぶつぶつと訳の分からない事を語っているが、グラハムには届いていない。
グラハムはただ、この痛みから解放されたい一心だった。
この作業着の男は、自分を殺すつもりは無いのだろう。
ただ、壊すつもりだ。
生か死かは関係なく、ただ『壊す』。
シンプルで、しかし残虐な行動だった。
作業着の男が、グラハムの二の腕を掴む。
そして、思い切り腕を左側――右腕が曲がれない所まで押し曲げた。
肩が外れた激痛が襲い来る。
「があああああああああああああああああっ!」
「さてと……次は左腕だ。安心しろ。すぐに……すぐに終わる」
耳元で囁かれた言葉は、グラハムの絶望感を加速させる。
そして次の瞬間、さらなる苦痛が訪れた。
――誰か……助け……
最早言葉は出ず、グラハムは代わりのように悲鳴を上げ続ける。
それでも、地獄は終わらない。
はじめまして、リゾットと申します。
拙いところが多く、突っ込みどころ満載の作品ではありますが、ツッコミを入れつつ楽しんでいただければ幸いです。
感想、批評などお待ちしております。