とある嘘つきの物語
これは――人間の?
食事を終えて戻った私を迎えたのは、懐かしい匂いだった。
ねぐらは風格のある屋敷なのだが、森に呑まれた廃墟で、使われていた当時の空気などとうに散っている。誰かが入り込まなければ、人間の匂いなどするはずが無い。
――居た。
地面の匂いをたどって中庭をのぞきこむと、案の定。一人の少女が木に寄りかかって眠っていた。
私は音を立てないように足を運び、翼をたたんで尻尾も持ち上げて、そっと少女に鼻を寄せてみる。確かに匂いの主だ。
燃えるような赤い髪はきちんと編まれ、スカートの上には薬草の入った籠と細長い布包みがある。薬草を採りに森に入り、ここに迷い込んだのだろうか? だとしたら随分と無用心なものだ。
中庭には、私の体から剥がれ落ちた硬い緑の鱗と、大きな足跡がそこら中にあるのだ。少し考えれば、ここが何の住処かぐらい分かりそうなものなのに、少女の寝顔は無防備そのものだった。
久々の人間をしばらく観察したが、一向に目を覚ます様子がないのには困ってしまった。
もうすぐ日が沈む。私の匂いがたっぷりついたここなら他の獣も近寄らないが、少女が帰る道は別だろう。
声をかけようと口を開いたが、やめた。私を目にした人間の反応は大体決まっている。腰を抜かしては帰るものも帰れないだろうし、他の人間を呼ばれて狩り立てられても面倒だ。
姿を見られずに起こす方法はないかと考えて、落ちている鱗を一つくわえて屋敷の陰へ。顔だけ出して少女の位置を確認し、首をせいいっぱい伸ばして放り投げる。
「いたっ!」
私が縮こまったところで、小さな声が聞こえた。少し物音がすればいいと思ったのだが、直接ぶつかってしまったらしい。
「……あれ? そっか、ここで寝ちゃったんだっけ」
目を覚ました少女が身を起こし、伸びをしている気配が感じられる。やれやれ、これで帰ってもらえるだろう。
「何かぶつかったみたいだけど……どこから来たのかな」
ほっとしたのも束の間。飛来物を探す足音に、飛び上がらんばかりに驚いた。姿を見られるのは、まずい。
「く、来るな!」
「ひゃ! だ、だれ? 男の人?」
思わず声に出してしまい、慌てて口を閉じたがもう遅い。
「あの、そこにいるのは誰? あなたが起こしてくれたの?」
少女のこちらを探る問いに、答えたものかと迷っていると、さらに言葉は続く。
「ねぇ、どうしてそっちに行っちゃいけないの?」
「わ、私は、その……病気なんだ。君にうつしたくはないから、来ないでくれ」
「そうなの? じゃあ、顔も見せないで失礼だけど、起こしてくれてありがとう。あのままだと風邪引いちゃうところだったわ」
自分でも下手な嘘だと思ったが、彼女は信じてくれたようだ。
「どういたしまして。さぁ、そろそろ日が暮れるぞ。家に帰った方がいい」
「そうだけど……あなた、病気なんでしょ? お医者さんに診てもらわなきゃ。それにここ、ドラゴンのねぐらじゃない、危ないよ。……その、鱗を拾ってつい入っちゃった私が言えた台詞じゃないけど」
「君はここがドラゴンの住処だと気づいていながら入ったのか? 何て馬鹿なことを」
私は絶句してしまった。ドラゴンは基本的に雑食だが、肉を好まないわけでは決して無い。相手が常日頃ドラゴンを狩り、売りさばいている人間ならばなおさらだ。
「そりゃ、危ないって分かってたけど……薬草よりずっといいお金になるんだもの。あなたもそう思ってここに来たんでしょ?」
「私の事はいい、君は早く家に帰るんだ! いくらなんでも、夜の森がどんなに危険か知らないわけじゃないだろう」
「か、帰るわよ! でも、こんな所に人を置いていくわけにはいかないでしょ!」
「私に構わないでくれ」
ぴしゃりと言い切る。名残惜しくはあったが、ずっとこうしている訳にもいかない。
――ほんとうに、いつぶりだろう。こんなに人間と話をしたのは。
「私はこの病気で、二目と見られない顔になったんだ」
彼女はよろめいて小枝を踏んだらしく、ぱきりという音がした。
「……あの、ごめんなさい」
聞こえるか聞こえないくらいの小さな声。
だんだんと遠ざかっていく足音。気づかれずに済んだのだろうか?
私が人間ではなくて――ドラゴンだということを。
◆
人間に見つかるようでは、もうこのねぐらを離れた方がいいかもしれない。
そんな風に考えていた私は、翌日さらに驚く事になった。
食事を終えてねぐらに帰ってくると、少女の匂いは消えておらず、新しいものが残されていたからだ。
昨日のように音を立てずに中庭を覗き込む。
誰の気配もないそこに、あの少女が持っていた籠がぽつんと一つ。中には『良かったらどうぞ』と書かれた紙切れと一緒に、薬草を使った丸薬や膏薬、お茶までもがぎっしり詰められている。
確かに「二度と来るな」とは言わなかったが、昨日の今日でこんな行動に出るとは。まったく、危機意識がなっていない。
呆れてため息が出たが、これも私のついたつまらない嘘のせいかと思うと、さすがに良心が咎めた。
少なくとも、あの少女をほったらかしにしたままここを離れるべきではない――という程度には。
◆
それから一週間。身を潜めて中庭を窺う私の前で、少女は毎日やって来ては籠を取り替えて帰って行く。もしやと思い籠を空にしたり手をつけなかったりしておいたのだが、少女の行動に変わりは無く。
ここは、説得してやめてもらわねばなるまい、と結論付けた。
「おい、君。ご厚意はありがたいのだが、もうここには来ない方がいい。以前も言ったが森は危険だ。安全を保障する事はできないし、怪我でもしたら家に帰れなくなるぞ」
そう声をかけると、きゃっという悲鳴の後に深呼吸が聞こえた。驚かせてしまったらしい。
「いるならいるって言ってよ、びっくりするじゃない。危険に対しては護身用の武器を持っているから大丈夫だよ。それに、怪我ならもうしたしね」
「……なんだって?」
彼女の言葉に耳を疑った。怪我をもうした、だって? いつのことだ?
「あ、えと、違うの! ここに来るまでにした怪我じゃなくて、もっとずっと前だから! それにもう治ってるし」
「本当に平気なのか?」
「ちょっと足に違和感は残ってるけど、全然平気。だけど、前してた仕事が出来なくなっちゃって、今外で出来るのは薬草採りくらいなの。わたしが家に篭ってるとみんな心配するし、体を動かす方が好きだから」
「そう、か」
ほっと安堵し、ふと気になったことを聞いてみた。
「以前君がしていた仕事、とはどういうものだったんだ?」
「わたしの両親は隊商の長をしててね、各地を渡り歩くついでに手紙を届けたりとか、その他にも色々な仕事を引き受けてるの。わたしの担当は……まぁ、傭兵みたいなものかな。特に依頼が無いときは、隊商の自警団で働いてたんだ」
「傭兵? 君のような可憐なお嬢さんがか?」
「ぶふぅっ!」
聞き返した途端、彼女は急に吹き出した。
「私は何かおかしな事を言ったか?」
「ご、ごめんなさい。だって、可憐なお嬢さん、なんて一度も言われたことなかったんだもの。アイリスっていう名前だって、可愛すぎて似合わないって言われるのに」
「私はそうは思わないが……もしかして、ご両親は君の瞳から名前をつけたのではないか? 見た事はないが、あやめのような青みがかった紫色をしているのなら、ぴったりじゃないか」
今度はどんな言葉が返ってくるかと思ったら、息をのんだような音が聞こえただけで。しばらくの沈黙の後、くすくすという笑い声がした。
「……わたしの目の色とか、よく分かったね。あなた、誰にでもそういうこと言うの?」
「そういうこと、とはどういう事だ? それに誰にでも、と言われても……私は人と話すこと自体絶えて久しかったのだが」
そう答えると、また笑われた。
「そういえば、まだちゃんと名乗ってなかったっけ。わたしはアイリス。あなたの名前、聞いてもいい?」
――名前。
その言葉は否応なしに記憶を掘り起こした。私に名前をつけ、人間の言葉を教え育ててくれたあの人。
「父がつけてくれた名は、ディー、というんだ」
ある日突然、背を向けて去ってしまった父のことを。
◆
「ねぇディー、いる? 今日は甘いお菓子を持ってきたんだけど。良かったらどうぞ」
「おお、ありがとう。後でいただくよ」
籠が草の上に置かれるやわらかい音。アイリスがいつものように薬草を採り始める気配を察知し、私はごろりと横になる。
名乗り合ってから随分話し合ったのだが、たった一回眠りを醒ましただけの私に礼をする、という彼女の決意は固く。
結局押し切られて、森の外で天幕を張っている隊商が移動するまでの間、という期限付きでこの廃墟に通うようになってしまった。もちろんこちらも、明るいうちに帰ること、私には絶対に近寄らないこと、という条件をつけさせてもらったが。
「前から不思議に思っていたのだが。君のいる隊商では、毎日採りに来なければならないほど大量の薬草が必要なのか? 怪我や病気の人間をそんなに抱えているとは、大変だな」
「えーとね……それもあるけど。隊商っていうのは、何をどこで仕入れてどこで売れば一番儲かるか、を常に考えておかないといけないの。時と場合によっては危険な道を通る事もあるし、そこで都合よく薬草が生えてるとは限らないのよね。だから売る分とは別に、こうやって日頃から備えておくってわけ」
「なるほど」
最初はつい説教などしてしまったが、アイリスと話が出来るのは、正直なところとても嬉しかった。何せ、久方ぶりの話し相手なのだ。父やその周りの人間と違って、大抵の輩はドラゴンが喋るなどと考えもせず、私を追い掛け回すばかり。姿かたちの同じドラゴン達は、人間の言葉を話す私を気味悪がって受け入れてはくれなかった。もちろん、人間に育てられた私の方も、ドラゴンの言葉は分からなかったのだが。
「それにね、足を怪我してからみんなが気を使ってくれてるのは分かるんだけど。なんだか、息苦しくってさ」
「息苦しい、とは?」
「わたし、みんなを守れる自警団の一員である事が誇りだったの。自分で言うのもなんだけど、体を鍛えて修行も一生懸命やって、長の一人娘として恥ずかしくない程度にはなれたかな、というところで怪我しちゃったわけ。分かる? もう、自分のマヌケさにがっくりきちゃった」
「……そうか」
「そりゃ、贅沢なこと言ってるって分かってるよ? でも、腫れ物に触るような態度が、割ときついのよね。お父さんとお母さんだって、私の怪我より長としての面子を気にしてるだけなんだから」
「……そうなのか?」
「そうに決まってるでしょ!」
そう言ったきりアイリスの声は聞こえなくなり、薬草をむしるぶちぶちという音だけが耳に届く。
「私はそうは思わないな」
「じゃあ、なんだっていうの?」
「……何事も、決め付けるのはよくない。特に心なんてものは、な」
返事は来なかったが、薬草をむしる音もなかった。彼女が耳を傾けてくれていると判断していいだろう。
「ご両親と隊商の皆が君を心配しているのは本当のようだし、今君がしているように、しばらく離れてじっくり考えをまとめるのもいいだろう。私としては、少し感謝しているくらいだ。色々な事が重なって、こうして君と話が出来るわけだからな」
「ディー、あなたねぇ……」
ぎくっ、と思わず地面を引っかいてしまった。彼女の声には明らかに怒気が滲んでいたからだ。
「あ、いや、君の怪我を喜んでいるような言い方になってしまってすまない。失言を許してもらえないだろうか」
「違うわよ! 長年の付き合いってわけじゃないけど、あなたはそんな事言わないと思うから」
「……では、なぜ怒っているのだ?」
私の問いに、小さなため息まで聞こえてきた。――あれは怒っているというより、呆れているのか?
「別に怒ってないから、そんなにビクビクしないでよ。私が聞きたいのはね、えーと、その……『君と話が出来てうれしい』とか、誰にでも言うの? ってこと」
「以前も言ったが、私は人と話すどころか会うのも久しぶりでな……記憶が正しければ、今までに一人もいないはずだ」
そう。ずっと昔、父を訪ねてくる人間たちは皆私を可愛がってくれた。特に頼まなくても、すぐに誰かが話し相手になってくれたのだ。
「そう? ならよし。でもま、あんな台詞を恥ずかしげもなく言うなんて……ディーのお父さんって一体どんな人?」
「どんな、と言われても……身寄りの無い私を引き取ってくれて、教職にあって沢山の教え子が遊びにくるような人だったな」
まだ父と一緒に暮らしていた子供の頃は、私は自分を人間だと思っていた。父と血の繋がりが無いなどとは考えもしなかったし(今考えるとバカらしい事だが)大きくなればこの尻尾や翼がなくなって、父のような『人間の』大人になるのだと信じていた。
「父は一日の仕事を終えた後、熱心に言葉を教えてくれたんだ。私が不自由なく話せるようになると、次は読み書き、その次は学校と同じ授業……という感じでな。まるで教師になる為に生まれたかのような人だったよ」
授業といっても、内容は専らドラゴンの生態について教えるものだった。父は私の勘違いを正し、困った顔で『少しお前を可愛がり過ぎたかな』とよく漏らしたものだ。
「あなた、本当にお父さんが好きなのね」
「君は違うのか?」
「ち、違わないよ? 違わない、けど」
彼女の言葉は一旦途切れた。
「……傍にいて、ほしかったの。お前なら大丈夫だよって、そう言って欲しかった。だけど、怪我をしたのはわたしの不注意からだし、自分で頑張らなきゃって。お父さんもお母さんも、毎日やる事いっぱいあって、いそがしい、から……」
しばらくして、涙交じりのか細い声が聞こえてきた。彼女を慰めたくとも、ドラゴンの身でそれは叶わず、歯噛みするしかない。
「アイリス」
でも、私は『それ』を知っているような気がして、名前を呼んだ。心の奥底でぴたり、と符合する――彼女の傷と同じものを、味わった事があるのではなかったか。
「寂しいとき、つらい時、誰かに傍にいて欲しいと思うのは、おかしな事じゃない。ただ、私が知る限りの君は、しっかりした人のようだし、君の周りの人もそれを知っているのだろう。だから、言い出せなかったのだな」
堰を切ったように溢れ出る嗚咽の声に、彼女が望んでいる言葉をかけるべきかと思ったが、やめた。それは私の役目ではないだろう。
「あのね、わたし、もう子供じゃないから。そういうの、言っちゃいけないんだと思ってた」
「そうか? 私は――」
「『私はそうは思わないな』って言うんでしょ?」
彼女の声に私の言葉は遮られてしまい、はじけるような笑い声が聞こえる。
――何がおかしいのだ?
「ディー、今日はどうもありがとう。……なんか、すっきりした」
「そうか。それは良かった」
「もう時間だし、わたし帰るね。また明日」
アイリスが服のほこりをはたいて、立ち上がる気配。返事をするべく、私も口を開いた。
「ああ、また明日。気をつけて」
もう何度も聞いたはずなのに。遠ざかる足音に、なぜか追いかけたい衝動にかられた。そして彼女と知り合ってから初めて、屋敷の陰から顔を出して見送る。
背を向けて去っていく後姿。それは、かつての父と恐ろしいまでに酷似していた。
私の胸の内にある想いも、寸分違わぬまでに同じで。
――どうして私は人間ではないのだろう。
――人間でさえあったなら。追いかけて、傍にいることが出来たのに。
◆
『良かったらどうぞ』
一言を書いた紙切れと、お菓子を入れた籠。いつもの場所にそれはある。
アイリスがやって来る時間に出かけるようにして、彼女の帰りを空高くから見送る。それが、最近の過ごし方だった。
森の外にある天幕の群れに彼女がたどり着くのを確認してから、ねぐらへ戻るのだ。
誰もいない中庭を見渡すと、薬草は殆ど採りつくされ、散らばっていた私の鱗もない。アイリスにはねぐらの主はここを捨てたのだと誤魔化しておいたから、新しい鱗が落ちていたら変だ。私はさっさと屋敷の裏で横になった。
初めてアイリスの後姿を見送ってから。
私の中に、何故自分が人間ではないのか、という想いが甦ってから。
このまま嘘をついて彼女に会い続ける事は出来ない、と思ったものの。さりとて何をすればいいのかは分からず。
目に映る季節は春から夏に移ろうとしている。先程飛んだ際、遠目でも隊商の人間が忙しく働いているのが見えた。天幕を畳んで旅立つ日が近いのだろうか。
「アイリス。私は、君に謝らなければならない事があるんだ」
「な、なに? いきなり」
翌日、廃墟にやってきたアイリスに声をかけた。
「最近居なかったから心配してたんだよ? 籠はいつも空になってたから、病気が酷くなった訳じゃないんだなって分かったけど」
「……すまない。私は、病気なんかではないんだ。君に嘘をついたことを謝らせてくれ」
「病気じゃ、ない……?」
「それから、ねぐらの主がここを捨てたというのも、嘘だ。私の顔が二目と見られない、というのは嘘ではないかもしれないが」
「じゃあ何? ディーっていう名前も嘘なの? お父さんの話は?」
「それは本当だ」
私は息を吸い込んで、足を踏み出した。
「アイリス、今から君の前に出て行く。難しいとは思うが、どうか驚かないで欲しい」
「驚くなって、どういう」
屋敷の陰から恐る恐る顔を出すと、彼女はあんぐりと口をあけた。
「この廃墟をねぐらにしているドラゴンというのは私で、病気というのはそれを知られない為についた嘘だ。君を騙したりして、本当にすまなかった」
「ディー、あなた……人の言葉が分かるの?」
驚きに見開かれた彼女の瞳は、私の想像通りあやめの青みがかった紫色だった。
「私は物心着いた時から人間に育てられたんだ。父が私に言葉を教えてくれたと話しただろう?」
「じゃあ、嘘をついたのはどうして?」
「ずっと一人だったから、君と話がしたかったんだ。人間の言葉を話すドラゴンなんて、誰も相手にしてくれなかったからな」
「ドラゴンだって私に知られると、逃げられちゃうと思ったの?」
「そうだ」
アイリスの瞳と視線が交わる。おずおずと伸ばされた小さな手に、私は鼻を寄せた。
――ああ、人間の匂いだ。
同じ人間でも、父とは違いふわっとした甘い匂いがするのが、少し不思議だ。
「そっか。じゃ、しょうがないな」
アイリスは私の鼻先を撫でながら、困ったような顔でくすりと笑った。
「人間はドラゴンと見れば、逃げるか狩るかのどっちかだもの。普通は隠そうとするよね」
「……許して、くれるのか?」
「もういいよ、気にしてないから」
その言葉を聞いて思わず、ほぅっと息をついていた。
「ふふっ、なぁに? そんなに緊張してたの? 小娘一人に大のドラゴンが」
「いや、その……この前空から見た時に、隊商の人間達が忙しそうだったのでな。もしかしたら移動の時期なのかもしれないと思ったのだ。そうなれば、嘘をついたまま君とお別れすることになってしまう。それはどうしても、嫌だったんだ」
私がそう言うと、彼女の顔が強張り、険しい顔で空を見上げた。――が、その表情はすぐに消えて、寂しそうな笑顔に変る。
「……そうだよ、もうじき出発なの。だから、さよならを言おうと思って探してたんだよ、あなたのこと」
強い風が吹いて、アイリスのスカートと真っ赤な前髪を揺らした。中々止まないので、私は翼を広げて彼女に当たる風を遮る。
「アイリス、私の話し相手になってくれてありがとう。感謝している。……さよなら、だな」
「こっちこそありがとう。私も、あなたと話が出来てよかった。さよなら、ディー」
◆
翌朝。
私が目を覚ますと、なぜか目の前にアイリスがいた。
「あら、おはよう」
「どうして君がここに? ……これは」
身を起こそうとしたが、なぜか体がきっちり縛られていて動けない。そのくせ口だけは自由で、喋ることはできた。
「頑張ってもムダよ。ちゃんと対ドラゴン用の装備で、馬鹿力に耐えられる縛り方をしてあるんだから」
「どういう事だ? 君が私を縛ったのか? なぜ?」
「もぅ、うるさいなぁ」
彼女はそれだけ言うと、細長い布包みを支えにして立ち上がる。その包みこそいつもと同じだが、今は籠も持たずスカート姿でもない、動きやすそうなぴったりした服装だった。
「隊商のみんなが縛ったの。これからあなたを売り払う為にね」
「う、り……はらう?」
――売り払う。彼女が、私を?
「そうよ。あ、でも安心して。人間の言葉を喋るドラゴンなんて珍しいから、きっとペットとして大事にしてもらえるわ。普通のドラゴンみたいに鱗を剥がれて鎧の材料にされる、なんて事はないと思うから」
「何を言っているんだ……? これは、一体」
「こりゃあ驚いた。本当に喋るんだな」
私の声を遮るように、別の人間の声がする。やって来た背の高い男を、彼女はお父さん、と呼んだ。
「森の上空を飛んでるこいつを見た時にゃ、久々の獲物だと喜んだもんだが……まさか人間の言葉を喋るとは。狩りの準備中にお前の話を聞いた時は半信半疑だったんだが、最高の値段で売れそうだな」
「でしょ? お父さん、これで私も狩りに復帰していいよね。少しずつだけど、怪我する前の感覚も戻ってきたし」
「やめておけ。母さんが心配するだろ」
「ちょっと、約束が違うじゃない! いい獲物を見つけられたらって話だったでしょ」
二人はまるで私などいないかのように言い合いを始めたが、男の方が一方的に話を打ち切ってこの場を離れて行った。
「あ、アイリス! 君はまさか、最初からそのつもりで……私を、獲物と思って近づいたのか?」
私の声に彼女は振り向いたが、目を合わせようとしても逸らされた。思い返せば、おはようと言った時でさえ彼女はこちらを見ていなかった事に気づく。
「それ以外に何があるの? わたし達の本業はね、ドラゴンを狩って売る専門の商人なの。あなたの優しいお父さんは教えてくれなかった? 竜狩り師、っていうドラゴンの天敵のこと」
アイリスの唇が動き、言葉を続けようとしている。私は思わず目をつぶった。耳を塞ぐ事は、できなかったから。
「狩りの仕事を失った時……死んだような気分だった。でも、死ぬ気になれば何でも出来るものね。ドラゴンのねぐらで隙だらけに振舞ったり、つまんない話にえんえん付き合ったり。でも、仲良しごっこもようやく終わり」
――この、耳をつんざくような叫び声はなんだろう。
――どうして、喉が引き裂かれるような痛みを感じるのだろう。
「……本当にうるさいドラゴンね。喋れなくするわけにもいかないし……面倒くさいったらないわ」
その言葉に、刺されたような激痛を覚えて呻くと、アイリスが包みを解いて武骨な刃を取り出した。
びゅん、と音を立ててそれが振るわれると、僅かな痛みとともに、鱗が数枚飛び散る。
「言葉を喋れる脳みそがあるなら、いい加減分かりなさいよ。人間がドラゴンと仲良くしたりする訳ないでしょう? 黙らないと痛い目にあわせるわよ」
「黙るのはそっちだ!」
熱いものがこみ上げ――私は文字通り口から火炎を吐いた。アイリスからは逸れたが廃墟に直撃し、周りの木立と共に燃え上がる。気づけば、私を拘束しているものは何も無かった。夢中で引きちぎったのだろうか。
彼女の周りに人間が沢山集まってきて、私を見て何か言っている。だが、もうそんな事はどうでもいい。また捕まらないうちに、さっさと逃げるとしよう。
羽ばたいた高みから燃える廃墟を見下ろすと、今日始めてアイリスと目が合った。気分は最悪なのに、炎に照らされる赤毛と紫の瞳をきれいだ、と思ってしまった事にわれながら呆れてしまう。――だが。
突然、父が私に背を向けたあの日のことを思い出した。国中に広がる戦火と兵士に追い立てられた時、まだ飛べなかった私に父が言い放った言葉を。
『ドラゴンなんて拾うんじゃなかった。こんな大荷物がいては逃げるものも逃げられん』
自分の耳が信じられず、荷物なんかじゃないと証明するために、私は生まれて初めて空を飛んだ。それなのに、父は走り去ったのだ。
背を向ける前に一度だけ合った父の目は、今のアイリスとそっくりだと気づく。
見つめる私に、彼女はにっこりと微笑んで口を開いた。どきりと心臓が高鳴る。
何も問題はなかった。
声は聞こえずとも、唇の動きから言葉を読むことはできるから。
空の捕食者たるドラゴンの視覚と、父が教えてくれた言葉があればたやすいことだ。
『元気でね』
――あぁ。どうか君も、元気でな。
私はそう呟いて、背の翼に力を込めた。