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ポケットに煙草と鍵と財布だけを入れ、僕と彼女は並んで眠った住宅街をゆっくりと歩き始めた。真夜中のひんやりした空気が肌を撫で、暖かい春の予感を孕んだ桜の蕾が、寝返りを打つように夜風に揺れている。辺りは静かで、二人の足音と木々の風に揺れる音だけが聞こえ、新緑の匂いを包んだ風の中に、微かだが冬の泣きたくなるような匂いもまだ混じっていた。電燈の光が暗闇と健気に領土争いを繰り広げ、その結果暗闇は薄く引き伸ばされている。
「まだ少し冬の匂いがするわね。」
「そうだね、冬は粘り強くて狡猾だから。」
「本当にそう思うの?」と不思議そうな顔をして訊いた。
「わからない。ある瞬間ではそう思うし、ある瞬間ではそう思わないかな。」
「正直なのね。」
「終始一貫できないだけだよ。」と言い、僕は誤魔化しの意味を含めて弱々しく笑った。
10分程、夜の空気や匂い、木々などに身を馴染ませながら歩くと、ブランコと鉄棒とベンチしかない小さな公園があった。その公園に入り、二つあるベンチのうち一つの白いベンチに並んで座った。ポケットから煙草を取り出しライターで火をつけると、彼女も煙草に火をつけ、ホッと一息つく、といったような雰囲気で煙を吐く。ピンで留めた前髪、前髪化粧をしないとほんの少ししかない眉毛、二重瞼の奥の潤んだ瞳、小さい鼻、その下にある薄い唇から出される煙は、まるで子供の手から離れてしまった風船のように、もの悲しげに飛んでいき、あっという間に見えなくなってしまう。
夜空を見上げると、月が綺麗で、空を眺めるのも久しぶりだな、と思った。月が煌々と辺りを照らす夜には、星の光がそれに負けて弱々しくなる。両方綺麗に光っていてはくれなくて、暗闇の中に光と光が共存できないのは何故だろう? どこの世界でも、強いものは弱いものを食いつぶすのかもしれない。そこに理由はなくて、月や星も例外ではない。単に月の光が強烈で、星の光の方が弱いから結果的にそうなってしまうだけだ。ロマンも何もない。
光があるから夜を安心して過ごせると云うが、もしも夜空に星も月もなければ、人間は今よりもっと暗闇に慣れ親しむことができたのではないだろうか。そう考えると、とたんに夜空の月も星も両方が憎くなった。暗闇があって月や星があるのではなくて、人間にとっては月や星の光があって暗闇があるのだから、もしもそれは逆ならば暗闇に先に順応し、光というのは付属的なものであると捉え得る可能性もあったのではないだろうか。ふとそう考えて、人間に暗闇に対する恐怖を植え付けたのはお前たち手の届かない光る天体だ、と思考で罵詈雑言を浴びせようとしていたら、出し抜けに、隣にいた彼女が「月が綺麗ね。」と言ったので、僕は安心した。この子にとっては月や星の光はやはり綺麗であって、歓迎すべきもであるということに。そして僕は真人間に戻って「そうだね、こうやって何の目的もなく夜空を見上げる時間をつくるのも悪くない。」ともっともらしいことを言い、彼女に感謝した。彼女はいつだって僕をまともに直してくれる。そういうところが魅力で、それと同時に処女の女の子みたいな危険性を持っていると思う。