ヘーニル
―二十年後―
珍しく青い空が顔を出したイギリスは、春を迎えていた。春と言っても、やはり空気は少し冷たく、青空が顔を出すのは珍しかった。それは誰かの為に、灰色の空が席を譲ってくれたのかもしれない。
南部に有る小さな墓地には、五歳になる可愛らしい青い瞳をした、金髪の女の子が無邪気に走り回っていた。その後を、慌しくその子の父親が、花束を片手に追いかけている。
「こらっ!リナ!お墓の中を走り回っちゃ駄目だよ!」
リナと言う名の小さな女の子は、父親に捕まえられると、楽しそうにクスクスと笑う。
「パパ、お空が青いんだよ。」
「あぁ、そうだね。今日はお空が青いね。きっと伯母さんの為に、青くしてくれているんだよ。」
父親はリナを抱きかかえたまま、一石の墓石の前まで行くと、ゆっくりとリナを地面に下ろした。
「さぁ、伯母さんにご挨拶して。」
ポンポンッと優しくリナの頭を叩きながら言うと、方手に持っていたスイートピーの花束を、そっと墓石の上に置いた。
「伯母さんこんにちは。」
リナが墓石に向かってニッコリと笑いながら言うと、父親も又、ニッコリと微笑む。そんな二人の元に、慌しくリナの母親が小走りで向かって来る。コツコツとヒールを鳴らしながら近づくと、先に墓石の前に居る二人に、息を切らせながら言った。
「お待たせ。車のトランクがまた調子悪くて、中々閉まらなかったわ。いい加減直さないと。」
「あれ?この前見た時は、もう何ともなかったけど・・・また壊れたのか?」
「貴方の腕が悪いのよ。今度はちゃんとした整備士に頼むわ。それよりヘンリー、リナはもうご挨拶したの?」
「あぁ、今してる所だよ。」
リナの父親の名前はヘンリー。そう、グレイスの双子の兄、ヘンリーだった。
三十六歳となったヘンリーは、妻と共に娘を連れ、墓参りへと来ている。すっかり大人へと成長をしたヘンリーは、あれから子供の居なかった老夫婦に養子に貰われ、大学まで卒業をした。家族を失い、家を失い、妹は人を殺した上に、殺されてしまった事から、『悲劇の少年』として話題になり、そのお陰で養子申し出でも有ったのだ。大学で知り合った、今の妻と結婚をし、一人の子供も儲けている。
「さぁ、リナ。伯母さんに報告する事が有るだろ?」
ヘンリーがそっとリナの耳元で囁くと、リナは大きく何度も頷いた。
「うん!リナ、四歳になった。あれ?違う、五歳になった!」
一度言い間違えて、また言い直すリナを、二人はクスクスと可笑しそうに笑いながら、頭を撫でる。するとリナは、恥ずかしそうにその場から掛けて走って行ってしまい、母親が慌てて追い掛けた。「こらっ!待ちなさいっ!リナ!」と母親がリナを呼びながら追い掛けに行くと、一人墓石の前で佇んでいるヘンリーは、ゆっくりとその場にしゃがんだ。
そっと墓石を手で摩ると、柔らかい笑顔を浮かべ、墓石に向かって話し掛ける。
「やぁ、グレイス。娘のリナが、五歳になったよ。どんどん君に似て来る。君が居るみたいだよ・・・。僕は・・・僕はあの時、君を憎む事しか出来なかったけど・・・今は感謝しているよ。僕を守ってくれたんだからね・・・。僕の為に・・・人殺しをしたんだから・・・。ごめん・・・ごめんよ。僕がもっと強かったら・・・君を人殺しにさせずに済んだかもしれないね。ねぇ、グレイス・・・。君は幸せだったの?人を殺して・・・逃げて・・・殺されて・・・。僕は・・・僕はあの時、君の為に何にもしてやれなかったから・・・だから君の変わりに、君が出来なかった事をするよ。だって僕等は双子なんだから、僕が感じる事は、君も感じる事が出来るだろ?そう・・・信じているよ・・・。」
ゆっくりとその場から立ち上がると、青く広がる空を見上げた。遠くから聞こえて来る自分の名を呼ぶ声に、ヘンリーは笑顔で手を振ると、妻と子供の元へと駆け寄った。
リナを真ん中に、三人仲良く手を繋ぐ姿を、そっと遠くの木陰から見守っていた、エダとグレイスは、二十年前と変わらぬ姿で佇んでいた。
「答えてあげたら如何ですか?」
相変わらず白けた表情で言うエダに、グレイスも相変わらず素っ気なく言い返した。
「死んだ人間が答えるなんて、どんなオカルトよ!」
「まぁ・・・確かに・・・。貴女は死んだ事になっていますからねぇ。チャッカリお葬式まで挙げて。」
グレイスはムスッとした顔をすると、不満そうに言う。
「えぇ、貴女の提案でね。お陰でずぅ~っと葬儀中は死んだフリだし、埋められた土の中から這い出て来るのに、大変だったけど!」
すると今度は、エダが不機嫌そうな顔をして言って来た。
「追ってから逃げる為の事です。その方が手っ取り早いでしょう?殺されてあげるのが。それに、掘り返したのは私ですが?お陰で手が痛くなってしまいました。よかったですねぇ、火葬が多い国では無くて。」
「火葬したって、どうせ骨から再生するでしょっ!それに、殺されてあげる為に、すっごく痛い思いしたんだから!エダの手よりもねっ!」
「それはそれは・・・ご愁傷様です。同じ事を何十年言い続けるおつもりですか?」
「それはエダもでしょっ!」
二人は互いに頬を膨らまし、睨めっこをする様に睨み合っていると、同時にブッと噴き出して、クスクスと笑い出した。可笑しそうに笑っていると、二人は車の中へと戻って行く、ヘンリー達の姿に気が付いた。
「よかった・・・ヘンリーが幸せで・・・。」
ポツリとグレイスが呟くと、エダは優しい笑みを浮かべながら、ヘンリーを見つめる。
「そうですね・・・。記憶も元通りに戻っていましたし、もう何も心配いらないでしょう。貴女は残念ですか?グレイス。彼だけが大人になってしまい・・・。」
グレイスは小さく首を横に振ると、微かに微笑んだ。
「いいの・・・いいのよ。ヘンリーの言う通り、私達は双子。ヘンリーが感じる事は、私も感じる事が出来るから・・・。それに、姪のリナは、小さい頃の私にソックリ!リナを通して、自分が大人になって行く様を見られるわ。」
そう言いながらも、グレイスはどこか寂しそうな表情を浮かべた。そんなグレイスの手を、エダはそっと繋ぐと、ニッコリと笑い、優しくグレイスの頭を撫でる。
「大丈夫ですよ。貴女には、私が居ますから。私にも、貴女が居てくれます。」
「そうね。」
グレイスもニコリと微笑んだ瞬間、突然地面が揺らぎ始め、大きな地震が起きた。二人は慌てて地面にしゃがみ込むと、互いに肩を抱いて、不安な表情をさせる。
「また・・・また地震・・・。この二十年ずっとね・・・。突然の大きな地震。」
不安そうにグレイスが空を見上げると、エダもゆっくりと空を見上げた。見上げて見た空は、それまで青空が顔を出していたのに、いつの間にかいつもの灰色の空へと変わってしまっている。黒い雲に覆われている空は、何処となく暗闇を連想させてしまう。
「ロキ様でしょうか・・・。」
悲し気な表情でエダがロキの名を口にすると、グレイスも又、悲しそうな顔へと変わる。
「ロキ・・・。この地震は、ロキのせいなの?」
「分かりませんが、きっとロキ様が関わっているのでしょう。あの方が消えてから、地震が起こり始めました。」
「変化が近づいているって事?ユグドラシルの変化が、地上にも影響しているの?」
グレイスはギュッと強くエダの肩を抱くと、エダはそっとグレイスの背中を摩った。
「大丈夫です。きっと・・・地震が起きている間は、大きな変化は訪れないでしょう。この地震がロキ様と関係が有るのならば、尚更。ですが地震が止んだ時・・・。」
「その時は、本当に変化が訪れるって事ね・・・。」
エダは真剣な眼差しで、大きく頷くと、しっかりと灰色の空を見つめながら、グレイスに言い聞かせる様に言った。
「私達は、その変化を目撃し、その後の変化も又、目撃する為に存在するのです。貴女の復讐劇は中断されてしまっていますが、これはそれ以上に大切な事なのですよ。ですから、決して目を逸らしてはなりません。」
グレイスは小さく頷くと、悲しい顔をしながら、空を見上げた。
「私・・・今なら分かる気がする・・・。ロキがどうして、あそこまで怒っていたのか・・・。酷い目に遭うかもしれないって分かっていて、あんな馬鹿な事を仕出かしたのか・・・。」
「グレイス?」
エダがチラリとグレイスの顔を見ると、その瞳からは涙が溢れ出ていた。
「ロキは只・・・家族で一緒に過ごしたかっただけなのよ。家族皆で、食卓を囲みたかったの・・・。それが子供達を捨てられて出来なくなっちゃったから、それが出来るオージンが羨ましくて憎かったのよ。私の家族も皆死んじゃったから・・・分かるわ・・・。もう帰って来ないんですもの。一緒に食卓を囲みたくても、ヘンリーにとっては、私は死人。死んだ人とは・・・過ごせないわ・・・。引き離された子供は、死人と同じなのよ・・・。」
ポタリとグレイスの目から涙が零れ落ちると同時に、空からもポタポタと冷たい雨が降り出した。まるで空が泣いているかの様に降る雨は、地面に落ちる度に悲しい音を奏でる。
「泣いているのでしょうか・・・?ロキ様も・・・。」
悲しい瞳で空を見つめながら、エダが呟くと、グレイスは無言で頷いた。
「そうですね・・・。私にも分かります。ロキ様は、家族揃って食事がしたかっただけなのですよ。それが引き離されれば、すぐ目の前に有るのに届かない林檎と同じ・・・。生殺しです・・・。」
エダはゆっくりと立ち上がると、雨に打たれながら、大きく空に向かって両腕を伸ばした。
「いつだってそう・・・。届きそうで届かない。そのもどかしさは、この上無い行き地獄です。それを無くす為には、全ての崩壊が必要・・・。小さな物を欲する為に、全ての物を壊さなければならない・・・あの方にとっては『秩序』の崩壊。」
グレイスもそっと立ち上がると、エダはゆっくりと両腕を下ろした。
雨の中二人空を見上げ、只佇んでいると、やがてすぐに雨は止んだ。イギリス特有の通り雨が終わると、灰色の空からは微かに太陽の光が零れる。水滴をキラキラと照らす光は、小さいながらも幾つも重なり合わさると眩しく、希望の光に見えて来てしまう。それでも不安が過る心の中は、決してこの先善い事が起きる訳では無いと、どこか悟っているせいだろうか。
「いつだって・・・本当に欲しい物は小さな事なのよね・・・。」
グレイスは濡れた髪を手で拭うと、もどかしい気持ちを抱えたまま、その場から立ち去って行った。
エダは滴り落ちる水滴を気にせず、濡れたままじっと空を見つめると、雲の隙間から覗かせる太陽に向かって呟いた。
「結局・・・人間も神も同じですね。定義が違うだけで・・・根本的な所は同じ・・・。只・・・家族を求めるだけなのですね・・・ロキ様。それを引き裂くのも守るのも、又人間と同じ・・・ですよ、オージン様。結局貴方方は・・・玩具と同じ事をしているのですよ・・・。その事すら気付かない愚かな神々様・・・私は・・・貴方方の終わりを願います・・・。」
太陽を背に、ゆっくりとその場から去って行くと、其処には冷たい風だけが残った。
その後、二人がユグドラシルの神達に会う事は無かった。時たま空の上に、オージンのワタリガラスを目にするだけだ。オージンもヘーニルもソールも、それにロキも、隠れ家には一度も姿を現さなかった。有るのは時たま起こる、大きな地震だけ。大人へと成長をして行くリナと、歳老いて行くヘンリーの姿だけが、後に残った。
全ての者を飲み込み、全ての物を引き摺り込む、寒くて暗い長い夜が訪れると、次に太陽が昇った時には、何も残されてはいなかった。ポッカリと穴が開いた様に、地上に住む人々の心は無心へと変わり、『夢』『希望』『光』と言った輝かしい物等無く、『失望』『絶望』『闇』と言った暗く淀む物すら失われた。『無』だけが其処には存在し、喜びも憎しみも、愛すら存在は許されない。只其処に有るだけの存在となった人々は、それが当たり前の様に、何も感じる事無く日々を暮らす。
それはユグドラシルの神々が、崩壊をした証であった。海へと沈んだ神々の大陸は、そこから小さな命を掻き集める。一つ、二つと見付けると、その度に人々の心の中に、新しい物が生まれた。やがて全ての心を取り戻した人々は、時代の移り変わりへと移行し、新たな知識を会得した。其処から生み出される物は、最先端技術。住み心地の好い環境や、便利な道具を次々と創り出すと、医療分野の発達、科学分野の発達、IT分野の発達と、目白押しく発展を遂げて行った。それと同時に、取り戻したはずの心の一部を、失い続けて行った。
知識と引き換えに、心の一部を失って行ったのだ。それはオージンが知識を得る為に、左目を失った様に。何かを得る為には、必ず何かを代償にしなければいけない。それが『秩序』だったのだ。
エダとグレイスは、時代の変貌を目撃すると、『黄金の林檎』の効果が切れ、只の人間へと戻ってしまった。家の中に有ったユグドラシルの物は枯れ果て、砕け散り、ぬこさんは静かに息を引き取った。それに合わせるかの様に、何百年振りに、以前とは違い凛々しい姿となったヘーニルが、二人の元に突然姿を現せた。
最後に会ったクリスマスイヴの時と変わらぬ姿の二人に、ヘーニルは悲し気な表情をさせると、礼儀正しく一礼をし、オージンとロキの完全なる死を告げた。その瞬間、その場に泣き崩れてしまったグレイスの肩を、エダはそっと優しく抱きしめた。
「僕の魂が、ロキとオージンの魂に出会った時、全てを聞いたよ。」
ヘーニルの言葉を聞いた、エダとグレイスは、互いに顔を見合わせると、自分達の役目を果たす時が来たのだと感じた。
エダはヘーニルに、オージンの目撃者としての視点から見た、地上で起きた変貌の出来ごとを、凛とした態度で告げる。そんなエダの姿を見たグレイスは、涙を拭いながら、真剣な眼差しで、ロキの目撃者としての視点から見た、時代の変貌を告げた。ヘーニルはエダとグレイスの話をしっかりと聞くと、力強く頷き、優しく二人の頭を撫でた。
「長い間、お疲れ様・・・。これで本当に、二人の役目は終わったよ。」
柔らかい、穏やかな声でヘーニルが言うと、その場に座り込んでいたグレイスは、ゆっくりと立ち上がり、ヘーニルに右手を差し出した。
「さようなら・・・。」
涙声でグレイスが言うと、ヘーニルは悲し気に微笑みながらも、強くグレイスの手を握り、握手を交わした。これで本当に、二度と会う事は無いのだと、互いに察する。
「どうぞ、善き世界をお作り下さい。」
エダもゆっくりと右手を差し出すと、ヘーニルは大きく頷きならが、エダの手を握った。
「どうか二人は、残りの寿命を後悔する事無く、好きな様に自由に過ごして。それが僕の、二人への最後のお願いだよ。」
ヘーニルはニッコリと笑うと、また一礼をした。二人もヘーニルに向かい、深くお辞儀をすると、頭を上げた時には、既にヘーニルの姿は消えてしまっていた。
「終わりましたね・・・。」
エダがポツリと言うと、グレイスもポツリと呟いた。
「そうね・・・。ヘンリーはとっくに死んじゃったし・・・リナも・・・。これからどうする?」
エダは微かに微笑むと、遠い灰色の空を見上げた。
「そうですね、青空の在る国へでも、行きませんか?もう灰色の空は見飽きましたし。」
グレイスも微笑むながら頷くと、同じ様に空を見上げた。
「だったら、南の島にでも行きましょっ!年中真っ青な空の国に!」
エダとグレイスの、本当の人生が始まった瞬間だった。
二人はその後歳を取り、エダが先に静かな眠りに付くと、その後を追う様に、グレイスも又、安らかな眠りに付いた。雲一つ無い晴れ渡わる、青い空の下で・・・。
END




