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GOD  作者: 小鳥 歌唄
二人の人間
1/9

ヘンリー

北欧神話を自分なりの解釈の元、オリジナルを交え書いたお話です。



     挿絵(By みてみん)


 薄らと、いたる所に被さる真っ白な雪。その上には、粉砂糖を上から塗しているかの様な、小さな雪が、パラパラと降り続いていた。本格的な冬が始まっていたイギリス。都市ロンドンでは、あちこちでクリスマスのイルミネーションが見られ始める中、人里離れた田舎町に存在する、ある名も無き教会。そこには華やかさとは程遠い、不気味とも言える静けさだけが漂っていた。

 イギリス南部に位置する町から、少し離れた場所に建つこの小さな教会。古い赤煉瓦で出来ており、建物の外壁は其処等じゅうヒビだらけで、一度も手入れをされた様子はなかった。時折吹き付ける潮風のせいか、むき出しのパイプは錆付き、初めて目にする者には廃墟にしか見えないだろう。

 しかし、こんな寂れた教会にも、人は住んでいる。れっきとした教会の主、つまりは牧師だ。牧師は教会の地下。薄暗く、周りは冷たいコンクリートで囲まれた、八畳程のまるで牢獄の中の様な所に、ひっそりと潜んでいた。人から隠れる為ではなく、己を隠す為でもなく。特別な来客の為に、人目に付かぬ様、そして真実の答えを求める者だけが辿り着ける様に、静かに地下に潜んでいた。

 「さて、少年。なにが知りたい?」

 黒いボサボサの髪を掻き毟りながら、一人の中年位の男が言った。その声は低くも高くもなく、滑らかで、穏やかにも感じられる、静かな声だった。髪は肩位まで伸びており、寝癖で毛先があちこちへと向かっている。真黒な牧師の服に袖を通し、首からは大きな銀色の十字架のネックレスがぶら下っていた。鏡台の上に腰かけ、男の背後には十字架に釘付けにされた、大きなイエス・キリストの像が置かれている。それ以外の物は何も無かった。傍らに小さなストーブと蝋燭が置いてあるだけだ。

 「ここに来る者は、皆何かを知りたい者だ。そう・・・通常でも裏でも中々知り得ない、答えだ。」

 男は裸足の足をブラブラとさせながら、右手に置いてあった煙草を手にした。一本の煙草を銜え、ライターで火を点けると、思い切り深く煙を肺の中へと吸い込んだ。そしてゆっくりと煙を吐き出す。

 「それで?君は何が知りたい?少年。」

 この男の他に、もう一人。教会の地下に居たのは、金色の髪をした美しい少年であった。男はその少年に問い掛ける。少年は深い海の様な青い瞳をしており、凛々しい喪服姿で男の目の前に立っていた。しかし、その顔は険しく、まるで男を睨みつけているかの様だ。

 「少年じゃない。ヘンリーだ。それに僕はもう十六歳だ。」

 綺麗な顔とは裏腹に、強い口調で鋭く発する。ヘンリーと名乗る少年は、男が吸う煙草をじっと見つめると、冷めた口調で言った。

 「牧師の癖に煙草を吸うのか。」

 ヘンリーの言葉に、男は軽く鼻で笑った。

 「違うよ。牧師だって煙草を吸うんだ。やっぱり君はまだ少年だねぇ。」

 この男が教会の主、牧師だ。牧師の言葉に、ヘンリーの顔は更に険しくなる。そんなヘンリーの事等気にもせず、牧師は淡々と話出した。

 「人間は失敗に始まり、失敗に終わっている。イカロスは空を飛ぼうと、調子に乗って太陽に近づきすぎ、落っこちた。パンドーラーはせっかくの贈り物を、誘惑に負けて開けてしまった。あぁ・・・これは知っているかい?サルモネウスは偉そうにしたいが為に、神様の名前を勝手に使って、罰せられちゃったんだよう。有名だよね?全部ゼウスが絡んでるって事。」

 なんの反応も示さず、無言で聞くヘンリーとは裏腹に、牧師は楽しそうに話しを続けた。

 「まぁさ、知恵の実を食べてしまった時点で、人間は終了している訳なんだよ。でもさ、面白い事に、ソロモン七十二の柱ってあるだろう?悪魔の。あれってさ、シェム・ハ=メフォラシュの七十二の神名と天使に対応してるんだって。結局神様も悪魔も、同じって事だよねえ。じゃ、人間は?人間なんて、初めから彼等のただの玩具だったって事だよ。」

 ケラケラと可笑しそうに一人笑う牧師に、ヘンリーは更に眉間にシワを寄せた。

 「それでも牧師かよ。」

 呟く様に言うヘンリーに、牧師はケラケラと笑うのを止め、彼の目をじっと見つめると、口元をニヤリとさせた。

 「あぁ、牧師だよ。だから一応、神様のお話をしたんじゃないか。牧師らしいだろう?」

 皮肉にも聞こえる牧師の言葉に腹を立てたのか、ヘンリーは牧師に背中を向け、地下室の小さい入り口と歩き出した。地下室から出て行こうとするヘンリーを、牧師はなにも言わず、ただじっと彼を見つめていた。

 地下室の入り口まで差し掛かると、ヘンリーは足を止め、しばらく立ち止まると、体をクルリと回し、また牧師の元へと歩み寄った。牧師はその姿を、ただ顔をニヤニヤとさせながら、見つめているだけだ。牧師の目の前に新たに立ったヘンリーは、牧師が吸っていた煙草を乱暴に取り上げると、それを床へと放り投げ、右足で思い切り踏み付けた。

 「此処に来れば、どんな事でも教えて貰えると聞いた。」

 ヘンリーは、今度は静かな声で言った。牧師は相変わらず顔をニヤニヤとさせ、彼を見つめている。

 「知りたい事がある。」

 真っ直ぐに牧師を見ながら言うヘンリーに、牧師もまた真っ直ぐに彼を見つめる。

 「いいよ、教えてあげよう。それで?君は何が知りたい?そしてどう失敗する?」

 薄笑いを浮かべる牧師に、不気味さを感じながらも、ヘンリーは牧師の目を真っ直ぐに見つめながら言った。

 「不死・・・。」

 ただ一言のその言葉に、牧師は更に顔をニヤニヤとさせた。裸足の足を大きく持ち上げ、鏡台の上に両足を乗せると、体操座りの様な格好をした。

 「不死・・・ねぇ・・・。」

 左に軽く首を傾けると、少し何かを考えているかの様な素振りを見せる。しばらくしてから、牧師は首を元の位置に戻し、右手の指を二本立て、顔の横にかざした。

 「どちらが知りたい?一つ、不死になる方法。二つ、不死を殺す方法。」

 牧師の問い掛けに、ヘンリーは迷う事なく答えた。

 「どちらもだ。」

 迷いのないその答えに、牧師は嬉しそうに薄笑いを浮かべると、また横に置いてある煙草を手に取り、吸い始めた。牧師の吹かす綿菓子の様な煙草の煙を、ヘンリーは煙たそうに右手で何度も掃った。

 「いいよ、教えてあげよう。」

 あっさりと言う牧師に、ヘンリーは少し驚いた様子で言った。

 「本当か?本当に、知っているのか?」

 険しい顔以外の表情を見せたヘンリーに、牧師はまた嬉しそうにする。

 「うん・・・君、笑った顔の方がきっと素敵だろうね。」

 そんな牧師の言葉に、ヘンリーは照れ臭そうに、耳を赤くしてソッポを向いた。その彼の仕草もまた、嬉しそうに牧師は見つめる。牧師は鏡台に上げていた足を下ろし、今度は少し真剣な顔をした。

 「一つ忠告しておくよ。不死について聞かれたのは、君が初めてじゃあない。中には一度不死になり、元に戻る方法を聞きに来た者も居る。でも残念な事に、一度不死になってしまえば、元の体に戻る方法なんて無いんだよ。不死から解放されるには、死ぬしかないんだけど・・・その辺は大丈夫?」

 ヘンリーはまた牧師の目を真っ直ぐに見つめると、真剣な眼差しで頷いた。

 「覚悟は出来ている。人間らしい死を迎える事は出来ないと。」

 ヘンリーの覚悟が伝わって来るかの様で、牧師はニコリと笑い頷いた。

 「それともう一つ。」

 牧師は煙草を無雑作に鏡台の上に押し付け、火を消すと、人差し指を掲げた。ヘンリーはその指を不思議そうに見つめた。

 「不死と不老は、これまた残念な事にワンセットなんだよ。まぁ・・・その理由はすぐに分かるけど・・・。君の場合その歳で生き続ける事になるんだけど、これは大丈夫?」

 今度は少し考えた様子で、ヘンリーは一度視線を足元に下げた。もう一度視線を上げ、牧師の顔を再び見た時、彼は覚悟を決めたかの様な顔で言う。

 「問題無い・・・と思う。いやっ。問題無い。」

 少し言葉を濁しながらも、自らで決めた決断を告げた。まるで己にも言い聞かすかの様に。余程の信念でもあるのかと思った牧師は、鏡台から立ち上がり、ヘンリーの近くへと歩み寄った。彼の目の前まで行くと、顔を近づけ、今にも唇と唇が触れてしまいそうな距離まで近づける。そして宝石の様な深い青色の瞳を、じっと覗き込んだ。目の真正面に映り込む牧師の瞳は、薄茶色をしており、その瞳の中にはヘンリーの姿が映る。

 しばらくすると牧師は顔を引き、ゆっくりとまた鏡台の上へと戻った。邪魔そうに長いガウンを持ち上げながら、右足を大きく上げ、足を組む。

 「いいだろう、教えてあげるよ。」

 牧師の言葉に、ヘンリーは微かに嬉しそうな顔をした。

 「ただしだ!支払いはちゃんとして貰うよ。例え子供でもね。」

 支払いと言う言葉に、やはりそう来たかと言った具合に、ヘンリーは上着の右ポケットの中に手を突っ込んだ。そんなヘンリーの行動に、牧師は溜息を吐きながら、首を何度も左右に振った。

 「違う違う。カードでも取り出す気かい?支払いはねえ、お金でも物でもないんだよ。」

 牧師の言う通り、ポケットの中からクレジットカードを取り出そうとしていたヘンリーは、そっとカードをポケットの中へと戻した。

 「情報はお金で買う物じゃないのか?」

 不思議そうに聞く彼に、牧師はまた顔をニヤニヤとさせた。

 「まっ、普通はね。でも此処での情報は普通じゃあないし、そして私も普通じゃあない。」

 楽しそうに笑いだす牧師に、ヘンリーは膨れた顔をする。

 「神父様が普通じゃないのは分かっている。なら情報料は何だ?」

 牧師はニンマリと笑うと、今までの中で一番嬉しそうな顔をして言った。

 「理由だよ。何故その事について知りたいのか、そしてどうしたいのかって理由。」

 「理由・・・。」

 少し後退りをするヘンリーに対し、牧師は身を乗り出して続けた。

 「私はね、何よりも人の不幸話が大好きなんだよ。だってほら、優越感に浸れるだろう?自分より下が居るってねえ。あぁ・・・どうして理由=不幸かってのはね、決まっているからだよ。私から答えを聞きに来る者達は皆、この上ない不幸や絶望を味わったから訪ねて来るってね。此処は最終手段みたいな所だからさ。」

 クククッと薄気味悪い笑い声を上げながら、牧師は更に続けた。

 「それにさ、不幸って振り返りたくない物だろう?それを思い出して、初対面の相手に全て打ち明けて、話さなければならない。それって物凄く屈辱で嫌ぁ~な事だよね?その時のあの歪んだ顔を見るのが、たまらなく好きなんだよ。」

 楽しそうに話す牧師に、ヘンリーは眉を顰めた。

 「悪趣味だな・・・。」

 そんなヘンリーの言葉も、牧師には褒め言葉に聞こえる。

 「良い趣味だよ。実に人間らしくて、素直でねえ。」

 眉を顰めながらも、牧師の言う事に間違いは無いと思ってしまう自分に、ヘンリーは黙り込んでしまった。

 確かに、身近な者でも他人でも、何らかの不幸が降り注いだ事を耳にすると、同情したり憐れみを感じると同時に、心のどこかでは己より悲惨な者が居る事を知り、安心してしまっている自分が居る。しかしそれを表に出せば、周りから批判を浴びるのは目に見えている。だから誰しもがその心を隠すのだ。自分の心の中だけに仕舞い込み。それに比べ、牧師はそれを隠す事なく、逆に求めている。皮肉な事に、誰よりも正直で素直なのかもしれない。

 だがそれはこの牧師だからだ。ひっそりと地下に潜むこの牧師だから。地上に住み、社会で生活をする者達がそんなにも素直になれば、それこそただの悪趣味な歪んだ奴だ。待つのは孤立、批判、剥奪しかないだろう。そしてその事を理解しており、認めているからこそ、ヘンリーは反論をする事が出来ないでいた。それと同時に、少しでも牧師の気持ちが分かってしまう自分が、嫌で仕方がなかった。

 「理由・・・だな。・・・分かった。」

 覚悟を決めたかの様に、ヘンリーは低い声で話しだした。牧師は彼の話を嬉しそうに、耳を傾ける。濃厚なチョコレートを、ゆっくりと舌で味わうかの様に。

 「妹を・・・。妹を殺す為だ。」

 小さな地下室の入り口からは、時折冷たい潮風が吹き付ける。渦を巻く様に入り込む風は、外から小さな粉雪を時折運んで来た。頭上からは狼の呻き声の様な、ウォーウォーとした音が響き、誰かを呼んでいるかの様にも聞こえる。ヘンリーの様な、答えを求める者を。

 地下室の灯りは、四本の蝋燭に、ストーブの火だけであった。暗い地下室の四方に置かれた大きな蝋燭の火は、風が吹き付ける度に揺れ、炎の影が手の様に見える。伸びる影の手は、そこに居る者を掴もうとしているかの様に見えた。狼の呻き声と影の手で、後戻りはもう出来ないのだと、忠告を受けているかの様にも思える。目の前に座る牧師に、その存在を知らしめるかの様に、背後に立ち竦むキリスト。

 どんなに不気味で薄気味悪くとも、間違いなく此処は教会なのだと実感をしてしまう。ならば今から言う言葉は、これは懺悔なのかもしれない。ヘンリーは深く息を吸い込むと、ゆっくりと吐き、呼吸を整えた。懺悔の心の準備でもしたかの様に。

 「妹を殺す為に、不死になりたい。」

 ハッキリとした声で言うと、じっと牧師の顔を見つめ、反応を窺った。ゴクリと生唾を飲み込み、自分の言った言葉への返事を待つ。

 「成程・・・妹を・・・ねぇ。」

 牧師はまた煙草を手に取り、それを吸い出すと、首をコキコキと左右に鳴らした。

 「おいっ。ちゃんと理由を言ったぞ。」

 予想外に余り楽しそうな反応をしない牧師に、ヘンリーは少し戸惑いながらも言った。今までの牧師の話を聞く限りでは、間違いなく牧師が喜びそうな話だと思っていたからだ。

 「おいっ!」

 声を大きくして言うヘンリーに、牧師はまた煙草を持ったまま、人差し指を掲げる。

 「それは理由になっていないよ?少年。」

 理由になっていない、と言う言葉に腹を立てたヘンリーは、怒鳴り気味の声で言った。

 「これが僕の理由なんだ!」

 怒るヘンリーとは裏腹に、牧師は顔をニヤけさせながら言った。

 「違うよ。だってほら、おかしいだろう?妹を殺すのなら、別に不死にならなくてもいいじゃないか。普通に殺せばいい。だろう?」

 全てを見透かされているかの様に思えた。ヘンリーは牧師を睨みつけると、腹をくくったかの様に、肩の力を抜き、ゆっくりと語り出した。

 「分かった。理由を言おう。」

 これからが本番だと言わんばかりに、牧師の顔は一段とニヤけた。

 「妹は・・・不死なんだ。・・・多分、あんたの所に来たと思う。僕と同じ顔をしている。一卵性の双子だ。」

 ヘンリーの言葉に、牧師は少し考え込んだ。何かを思い出そうと、上を向いてはヘンリーの顔を見てと、視線を行ったり来たりとさせた。何度か繰り返ししていると、今度はじっとヘンリーの顔を見つめる。そして思い出したかの様に、口を大きく開け、手に持つ煙草をヘンリーの方へと指した。

 「あぁ!あの美少女か!」

 思い出した牧師は、嬉しそうに何度も頷く。

 「うん、うん。君、どこかで見た事あると思ったら、あの美少女の双子の兄か!深い青色の瞳が同じだ。」

 瞳の事を言われたヘンリーは、思わず視線を牧師から逸らした。

 「妹の名は、グレイスだ。」

 牧師は聞き覚えのある名前に、また何度も頷いた。

 「あーそうそう、確かグレイスちゃんだ!長い金色の、サラサラヘアーの子だったなあ、確か。」

 段々とグレイスの姿を思い出して来た牧師は、嬉しそうに彼女が来た時の事について、話し出した。

 「そうそう、確か彼女も此処に来た時は喪服姿だったねぇ。どれ位前だったかな?君と同じ様に、険しい顔をしてさ。笑うと可愛らしい顔だろうに。」

 嬉しそうに思い出話をする牧師に、ヘンリーは少し呆れた表情で言った。

 「数か月前の事なのに、忘れてたのか?」

 「え?いや、ほら。沢山の人に会うから、覚えきれないんだよ。ハハハッ。」

 そう言うと、頭を掻き毟りながら笑った。ヘンリーは軽く溜息を吐くと、更に呆れた顔になる。そんな彼の事等お構い無しに、牧師はヘラヘラと笑いながら続けた。

 「まぁ、それなら分かるねぇー。うん。君が何故不死になりたいのかも、何故不死を殺す方法が知りたいのかも。だって、相手が不死じゃあ~普通の殺し方じゃ無理だしね~。」

 その言葉にほっとしたのか、ヘンリーは少し嬉しそうに言った。

 「なら、教えてくれるのか?」

 今すぐにでも教えてくれと言い出しそうなヘンリーを遮るかの様に、牧師はチッチッと舌を数回鳴らした。そしてまた煙草を鏡台に押し付けると、鏡台の小さな引き出しを開け、その中に吸殻を二本放り込んだ。引き出しの中は、牧師の吸った煙草の吸殻が、ぎっしりと詰まっていた。どうやら灰皿替りの様だ。引き出しを閉めると同時に、ココアパウダーの様な細かい灰が、宙を舞う。

 「まだ詳しく聞いていないよ?ちゃんと何故そうしようと思ったのか、何故そうしなければならないのか、そして将来的にどうしたいのか、を細かく教えてくれよ。」

 まるで作文の駄目だしをされたかの様に言われたヘンリーは、眉を顰めながら不満そうに言った。

 「学校の教師みたいな事を言うなよ。」

 膨れるヘンリーに、牧師は嫌味にも似た笑顔で答えた。

 「ほら、私は牧師だから。子供への教えは大切だろう?」

 ニコニコとする牧師に、ヘンリーは軽く舌打ちをすると、地下室の中をキョロキョロと見渡した。

 「椅子は無いのか?少し、長くなるかもしれないから・・・。」

 そう言うヘンリーに対し、牧師は溜息混じりに言う。

 「はぁ~・・・若い者が、すぐに楽をしようとしたらいけないよ。体力有り余ってるんだから。」

 むっとするヘンリーを余所に、牧師は入り口の方に向かって、大きな声で叫んだ。

 「おぉ~い!少年は椅子と紅茶を御所望だぁ~!暇なら持って来てよ!」

 誰かに呼び掛けるかの様に言う牧師の姿に、ヘンリーは入り口の方を振り返った。此処に来た時も、引き返そうとした時も、確かにこの牧師以外は誰も居なかったはず。そう思い、不思議そうに入り口の方に体を伸ばし、覗き込んだ。

 静まり返った教会の中には、相変わらず風の呻き声は聞こえて来るが、それ以外の目立った音は何もしない。ゆっくりと入り口に向かおうとした瞬間に、奥の方からガタガタと、大きな物音が聞こえ出した。その物音は段々と近づいて来る。何かを引きずる様にも聞こえて来るその音は、入り口付近でガタンッ、と大きな音を立てると、その姿をヒョッコリと入り口から顔を出した。それは古びた木製の、ダイニング用の椅子であった。ヘンリーは目をパチクリとさせながら、宙に浮く椅子を見つめる。

 「椅子・・・が。歩いて来た?」

 突拍子もないヘンリーの一言に、牧師は大口を開け、大笑いをした。

 「いやいや、それはないだろう。ハハハハハッ!」

 確かに、それは流石にないな、と思いながら、ヘンリーは椅子の方へと向かった。椅子の目の前に立つと、その奥には、椅子を持った一人の若い男の姿があった。

 「椅子・・・中に運んで。俺は机を運ぶから・・・。」

 男は低い声で、物静かに言った。ヘンリーは言われるがまま男の持つ椅子を受け取り、地下室の中へと運んだ。男もヘンリーの後に続く様に、小さな丸いテーブルを持ちながら、地下室の中へと入って来た。

 丸いテーブルを牧師とヘンリーの間に置くと、左脇に挟んでいた、白いテーブルクロスを一気に広げ、テーブルへと被せた。ヘンリーは不思議そうにその男を見つめながら、テーブルの前へと椅子を置く。男は背が高く、スラリとしていた。短い真黒の髪に併せているかの様に、真黒なロングコートを羽織っており、どこか貴族の様な気品が溢れていた。

 「いやぁ~気が効くねえ。クロスまで持ってきてくれるとは。」

 牧師は嬉しそうに足をブラブラとさせた。

 「紅茶・・・今から入れてくる・・・。」

 男は少年の方を一瞬チラリと見ると、地下室から出て行ってしまった。

 ポカンと口を開けたまま、放心状態のヘンリーに、牧師はこちらに呼び戻すかの様に言った。

 「彼は私の友人でね。長い付き合いだよ、名をジンと言う。だからよく此処にも来るんだ。なんの用事も無くてもねえ。」

 牧師の言葉にはっとしたヘンリーは、驚いた顔で言った。

 「友人なんていたのか?」

 ヘンリーの一言に、牧師は少し引きつりながらも言う。

 「君さ、私をなんだと思っているんだい?私にだって友人くらいは居るよ。」

 思わず本音を言ってしまった自分に気付き、ヘンリーは顔を赤くした。

 「しっ、失礼。神父様が相当変わってらっしゃるから・・・。」

 赤く染まった顔を隠すかの様に、俯きながら椅子に座ると、ヘンリーはコホン、と軽く咳をした。

 「いっ・・・いつから居たんだ?あの人は。」

 恥ずかしそうにする彼を見ながら、牧師は首を傾げて言った。

 「さぁ?いつからだろうねえ?気付いたら、居る人だから。」

 返答になっていない答えに、ヘンリーは顔を上げ、牧師の方を見た。

 「なんだよそれ・・・。確かに存在感は余りないけど・・・。」

 眉間にシワを寄せて言うヘンリーに、牧師はまたクククッと薄気味悪い笑い声を上げる。

 「まぁ彼の場合・・・。存在感が無いと言うよりは、実際に存在していない様なもんだからねえ。」

 意味有り気な物言いに、一瞬ぞっとした。余り深くは聞かない方がいいと、心のどこかで忠告をしてくる自分が居る事に気付き、ヘンリーは話題を逸らすかの様に話した。

 「それで、理由の続きなんだけど・・・。」

 そんなヘンリーの気持ちを知るかの様、ワザとらしくに、牧師はまた先程の男、ジンの話をし出す。

 「彼ね、実は元々、私のお客さんだったんだよ。」

 ニヤニヤとしながら話して来る牧師に、ヘンリーはむっとしながら返した。

 「そんな事は聞いてない。理由を聞きたかったんじゃないのか?」

 不機嫌そうに言うヘンリーをからかうかの様に、牧師は更に続ける。

 「理由はちゃんと聞くよ。でもその前に、友人を紹介するのが礼儀ってもんじゃないのかい?」

 一々嫌味ったらしく言って来る牧師だが、その言葉に間違いが無い事ばかりなのが、ヘンリーには更に嫌味に思えて仕方なかった。

 「あぁ!心配しなくても大丈夫だよ。彼、余計な事は言う癖に、肝心な事は言わないから。此処での話を聞かれても、対して問題はないよ。」

 一々遠まわしに物事を言っているかの様な牧師の物言いに、ヘンリーは苛立ちを隠せずにいた。険しい顔は一層険しくなり、牧師を見る目は一層鋭くなる。

 「そんな怖い顔しないでよう。せっかくの綺麗な顔が台無しだ。」

 顎を上に付き上げ、まるでヘンリーを見下すかの様な物言いに、彼はますます腹が立った。「ふざけるな!」と、思わず声を露わにして、怒鳴りつけてやりたい気分だったが、ヘンリーはその気持ちをグッと堪えた。

 (落ち着け・・・。あの牧師はああ言う嫌味ったらしい性格なんだ。ここでキレて、出て行ってどうする?何も得られないし、何の解決にもならない。)

 何度も心の中で自分に言い聞かせると、彼はまた深く息を吸い込んだ。今度は一端息を止めると、吸い込んだ息を一気に吐き出す。精神統一でもさせるかの様に、心を落ち着かせると、ヘンリーは頬を引きつらせながら笑って見せた。それはなんとも不器用な、作り笑いだ。

 「あぁ・・・いいよ。無理に笑おうとしなくても。」

  自分の中での精一杯の作り笑いを、あっさりと牧師に流されてしまい、彼の表情は無表情に変わる。

 「それで?その不死の妹さんを殺したいんだっけ?」

 ジンの話になったかと思うと、また理由の話へと戻った。ころころと変わる牧師の話に、一々腹を立てていたら切りが無い、と思ったヘンリーは、もう牧師を睨み付けるのも、険しい顔をするのも止め、いわゆる普通の表情で話した。

 「あぁ・・・。不死のグレイスを殺すには、まず不死を殺る方法を知らなくてはならない。それと同時に、自分も不死でなければ、攻撃をされた時に、こちらに勝ち目は無いからね。」

 素直に話し出すヘンリーに、牧師はにこやかに頷きながら話を聞いていた。一度足を組み換えると、軽く身を乗り出して言う。

 「そうだねえ・・・。グレイスは銃で撃たれたとしても、すぐに生き返るけど、今の君は首を絞められただけで、死んじゃうんだからねえ。反撃されて殺されちゃったら、やり直しが効かないからねえ。」

 牧師の言う事に、ヘンリーは無言で頷いた。

 「確かに・・・リセットが効かない命対、何度でもリセットが効く命だと、リセットが効かない方が不利だもんね。ぶっつけ本番!一回ポッキリってねえ。」

 同じ言葉を繰り返しながら、牧師は何度も頷いく。

 「だから!教えて欲しいんだ!」

 マイペースにゆっくりと話しをする牧師とは裏腹に、ヘンリーは焦っていた。少しでも早く答えが欲しいと。少しでも早く、不死になりたいと。そんなヘンリーの想いを知ってか、知らないのか、牧師は相変わらず薄気味悪い笑みを浮かべながら、優雅に煙草を吸い始める。

 「教えてくれよ!グレイスに教えたって事は、知っているんだろ?」

 必死に訴える様に言うヘンリーを余所に、牧師はプカプカと、ドーナツ型の煙を作って浮かべて見せる。

 「どう?上手でしょう?練習したんだ、これ。」

 カッとなり、思わず思い切りテーブルを叩きつけながら立ち上がったヘンリーだったが、すぐにまたゆっくりと椅子に座り直した。

 「教える気はあるのか?」

 怒りを抑えながら、牧師に問い掛けるその声は、微かに震えていた。今にも火山が爆発しそうな位、腸が煮えくり返っていた。そんな彼の様子も楽しむかの様に、牧師はニヤニヤとしながら答える。

 「勿論。教えてあげるよ。」

 この牧師は自分をからかっているのか?それとも本当は知らない癖に、知っている振りをしているだけなのか?段々と不安を覚えてきたヘンリーだったが、グレイスの事を思い出すと、知らない事は無い、と思い、ただ単に自分がからかわれているだけだと感じた。

 「いい加減にしてくれ!僕はあんたのお望み通り、言いたくもない事を話しているんだぞ。」

 ピリピリとし出すヘンリーだったが、牧師は彼の事等気にもせずに、相変わらずプカプカと煙草の煙を吹かせている。

 「まぁまぁ、ちょっとは落ち着いて。それに最初に言っただろう?私は屈辱に歪む人の顔を見るのが好きだって。そして険悪に満ちる人の顔を見るのも、好きだ。」

 ニヤリと笑う牧師に、ヘンリーはどこか恐怖にも似た憎悪を感じた。膝の上に置く掌を、ズボンごとぐっと握ると、下唇を軽く噛み締めた。

 「少しリラックスをしようか。ちょうどいい香りのする紅茶が到着したみだいだしね。」

 牧師の言う通り、後ろからは甘い香りが漂って来た。ヘンリーが振り返ると、入り口からは紅茶の入ったポットと、ティーカップ三つを銀のお盆に乗せ、それを静かに運んで来るジンの姿があった。

 ジンは無言でテーブルの側まで来ると、手慣れた様子でティーカップを並べ、順番に時計回りにポットに入った紅茶をカップに注ぐ。紅茶が注がれると同時に、甘いシナモンの香りが漂い、それは地下室中を覆った。カップの中に甘い香りの紅茶がもう一周注がれると、その香りはより一層強くなり、先程までの苛立ちや怒りを飲み込むかの様に、ヘンリーの頭の中に入り込んだ。

 「うぅ~ん、シナモンティーか。今の彼にはピッタリだねえ。」

 牧師はカップの近くに鼻を寄せると、その香りを吸い込むかの様に嗅いだ。ヘンリーは甘い香りに酔いしれ、自然と表情は緩やかになっていく。

 「砂糖は・・・?」

 ジンがヘンリーに聞くと、ヘンリーは首を横に軽く振った。ジンの声はいつも静で、話す言葉の数は少ない。牧師とは違った、不気味な雰囲気を醸し出してはいたが、嫌悪を感じる性質のものではなかった。どこか近寄り難いと言うより、簡単に触れてはいけない様な存在であった。

 ヘンリーはティーカップをそっと手にすると、品定めでもするかの様に、カップをまじまじと見始めた。

 「へぇ・・・いいカップを使っているんだな。これはロイヤルドルトンのディザイアじゃないか・・・。」

 みすぼらしい古びた教会からは想像し難い、思わぬ高級なティーカップに、ヘンリーは関心をしながら見つめていた。

 湯気が立ち込むカップにゆっくりと唇を近づけると、鼻の中からシナモンの香りが一気に入り込んで来た。暖かい紅茶を一口飲み込むと、甘い香りと少しのスパイシーさに、心がほっと安らぎ暖まる。小さなストーブがあると言っても、やはり冬の地下室はとても冷えて寒い。この場所が暖房の効いた、フカフカのソファーでも置いてあるリビングであったら、もう少し余裕を持ってこの牧師とも話が出来たのかもしれない。体の冷えと言う物は、心の余裕さえ奪ってしまうのか。体が冷えると同時に、心まで冷えてしまっているのかもしれない。そんな事を考えながら、ヘンリーは暖かいシナモンティーを啜った。

 「詳しいんだな・・・。」

 完全に力が抜けきっていたヘンリーに、ボソリとジンが言った。その言葉に、ヘンリーは少し焦った様子で、カップをテーブルに戻すと、誤魔化すかの様に返す。

 「こっ、これ位は知っていて当然だ、教養の範囲だ。」

 精一杯の言い訳でもあったが、その言葉は全く言い訳になっていない所か、余計にヘンリーの育ちの良さを現わしている様であった。

 「教養の範囲ねぇ~・・・。グレイスもそうだったけど、君も随分といい喪服を着ているよね?それ、どこのブランド?」

 けし掛ける様に言う牧師に、ヘンリーは何も答えずにまた紅茶を飲み始めた。そんな彼の様子を、ニヤニヤとさせながら見つめ、そしてこう言い出す。

 「先に言っておくけど、君のお家の事なら知っているよう?グレイスから聞いているからねえ。」

 クククッとまた不気味な笑い声を上げる牧師に、ヘンリーは耳を真っ赤にしながら思わず立ち上がった。

 「お前!忘れていた様な事を言っていたけど、本当はちゃんと覚えているんじゃないか!」

 改めてこの牧師に遊ばれていると感じたヘンリーは、クールダウンをしたはずの気持ちが、また赤い炎の様に怒りが込み上げてきた。牧師はそんな彼の姿を見て、ケラケラと笑い出す。今にも牧師に飛び掛かりそうなヘンリーを止めるかの様に、ジンが一言牧師に言った。

 「悪ふざけが過ぎる・・・。」

 ジンの言葉に、牧師はケラケラと笑うのを止め、鏡台から立ち上がり、右手を胸に翳しながら、ゆっくりとヘンリーに向かってお辞儀をした。

 「これは失礼。」

 牧師なりに謝ってみせると、ヘンリーは怒りが残るものの、ここで殴りかかったとしても仕方が無いと思い、ゆっくりと椅子へと座った。牧師はそんな彼の行動に満足気な表情をさせ、また鏡台の上へと腰掛ける。

 「うん、君は思っていたよりも大人だ。」

 そして優雅に紅茶を飲みだした。ヘンリーはむっとした表情で、乱暴にティーカップを手にすると、カップの中の紅茶を一気に飲み干した。

 「おかわりは・・・?」

 ジンが聞くと、彼は無言でカップを差し出す。紅茶を注ぎながら、ジンはボソリと言った。

 「イラつくのは分かる・・・。でも今はまだ審査段階だから・・・。」

 「え?・・・審査?」

 ジンの審査と言う言葉に、ヘンリーは首を傾げ、牧師は溜息を吐きながら右手で頭を抱えた。そして手にしていた煙草を、また鏡台に押し付けて火を消すと、呆れた様子でジンに言う。

 「君ねえ。だから余計な事は余り言わないでよ。」

 ヘンリーは不思議そうに、ジンに審査の事を聞いてみるが、ジンは何も答えようとはしない。

 「だから言ったでしょう?彼は余計な事は言う癖に、肝心な事は言わないってさ。」

 牧師は参ったと言わんばかりに、頭をぐしゃぐしゃに掻き毟りながら言った。

 「審査って、何の事だよ?」

 ヘンリーは鋭い目付きで牧師を睨むと、納得のいく答えしか受け付けない、といった顔をさせた。牧師はティーカップをテーブルに戻すと、仕方が無いといった具合に、穏やかな顔をさせた。不気味な笑みでも、薄気味悪いニヤケ顔でもなく、それは初めて見る表情だ。

 「私はね、誰かれ構わず、此処に来た者全員に答えを教えている訳じゃあないんだよ。厳選なる審査をした上で、あ~こいつになら教えてもいいかなぁ~って奴にだけ教えている。」

 ヘンリーは真剣な眼差しで牧師の話を聞いた。

 「理由は簡単。中にはそれを悪用しようとする者も居るから。まぁほら、一応私、神様に使えてる身だしねえ。」

 「悪用・・・は分かるけど・・・。それをどう見極めるんだ?」

 ヘンリーの質問に、牧師はニヤリとさせた。

 「簡単な事だよ。今君にしている様な事だよ、少年。」

 牧師のその答えだけで、何となく察しが付いた。

 「答えを焦らす・・・って事か?」

 「正解!」

 牧師は嬉しそうに手をパチパチと叩くと、ヘンリーは照れ臭そうにする。

 「まぁね、焦らす長さは人によって違うよ。中には物凄く辛抱強い奴も居るからねえ。最長で三十年の奴も居た!」

 そう言うと、今度はケラケラと笑い始めた。

 「三十・・・年・・・。」

 思わず自分に当てはめ想像をしてしまったヘンリーは、ゴクリと生唾を飲み、ジンの顔を見た。

 「俺じゃない・・・。」

 ジンのその一言に、何故かほっとしたヘンリーは、また鋭い目付きで牧師を見つめる。

 「その方法を選ぶ理由は?」

 ヘンリーの真剣な目付きに、牧師は、今度はクスクスと小さく笑った。ジンはそんな二人の様子を、無言でただ見つめているだけだ。

 「理由ねぇ・・・。今度は私が理由を話す番って事かい?」

 またもからかう様に言う牧師だったが、ヘンリーは腹を立てる様子もなく、ただじっと牧師を見つめる。

 しばらくはヘンリーと牧師の睨み合いが続いたが、牧師はフウッと息を吐くと、ゆっくりと話し出した。

 「人間誰もが共通する、一番苦手で嫌いな事って何だか分かるかい?それはねえ、我慢だ。中には痛みと言う奴も居るが・・・ドMからしたら痛みは快楽になってしまうからね。でもねえ、そんなドMでも、一生物の放置プレイなんて、耐えられないだろう?ランナーズハイとか言うけど、ハイになるのは一瞬の一時だけだ。また苦痛に戻り、目の前にある巨乳を、歯を食い縛りながら見つめる事しか出来ない。辛いよねえ?目の前にあるのに、触れないなんて・・・。」

 「おい・・・。」

 牧師の言葉を遮るかの様に、ジンが声を掛けた。牧師はジンの方を見ると、ヘンリーの方を指指している。ヘンリーの頬は少しピンク色に染まってしまっていた。

 「あぁ・・・ハハハッこれは失礼。下品な例えはよくないねぇ。君・・・もしかして童貞?」

 牧師の言葉に、ヘンリーは更に顔を真っ赤にさせた。

 「ちっ・・・違う!」

 焦りながら拒否をするヘンリーに、牧師は顔をニヤニヤと嫌らしくさせる。

 「何?じゃ、経験少ないとか?」

 嬉しそうに質問をする牧師の姿を見て、ジンは軽く溜息を吐いた。ヘンリーは顔を赤くさせたまま、小さく頷いた後、俯いてしまう。

 「話の続き・・・。」

 ジンがヘンリーに助け舟を出すかの様に牧師を促すと、牧師はコホンッと一つ咳を吐いてから、続きを話しだした。

 「悪い事をこれからしようと考えている奴はねえ、只でさえ苦手な我慢が、更に苦手になるんだよ。だってさあ、今すぐにでもそれをやりたくて仕方ない訳じゃん?勿論中には我慢強い人も居るよ?辛抱強く待って、待って・・・待って、後からドカーンっと儲けるってね。」

 牧師は両腕を大きく上げた。腕を下ろすと、煙草に手を掛け、一本取り出そうとしたが、すぐに手から煙草を離した。

 「でもさ、そんな奴でも、ワザとらしく焦らされたり、話をコロコロと変えられたりされ続けたら、やっぱり頭に来ちゃうよねえ?人間の本性はどこで一番出るかって?怒りだよ。思い切り頭に血が昇って、理性的な判断が出来なくなる位怒り狂う時、心は真っ裸になるんだよ。」

 怒りと言う牧師の言葉に、ヘンリーは胸がドキッとした。

此処に来てから、何度も頭に血が昇り、怒っていた事を思い出す。それでもまだ全てを怒りに任せ、ぶちまけなかったのは、完全に怒り狂うまでに到達していなかったからだ。まだ自分は、入口に入ったばかりに過ぎないのだと実感した。

 「だから私は、まず相手をイラつかせ、怒らせる事から始める。徐々にとね・・・。」

 ニンマリと不適な笑みを浮かべる牧師の顔を見て、ジンはチッと舌打ちをした。

 「でも・・・。」

 「でもそんな事を僕に話してしまっていいのか?っと聞きたい?」

 言いたい事を先に言われてしまったヘンリーは、どこか不満そうに頷いた。

 「構わないさ。だって君が何故グレイスを殺したのかは分かっているし、それに君は、一度此処から出て行こうとしたからねえ。」

 牧師の言う事は、一々的に当たっており、反論のしようがなかった。だが一つ、疑問に思う事はあった。

 「何故・・・一度出て行こうとした事で分かるんだ?」

 頭の回る者なら、それを計算の内に、ワザとそういった行動に出る者も居るのではないのか?そう思ったのだ。しかしヘンリーの考えとは裏腹に、牧師は意外な答えを出した。

 「あぁ・・・だって君みたいな子供が、カッとなって出て行くなんて事は、本当に頭にきたからだろう?もういいよ~みたいな感じでさあ。何かしら悪巧みがあるなら、堪えると思うからねえ。特に頭のいいガキはさあ。」

 頭のいいガキと言う言葉に、ヘンリーはむっとした。まるで自分は頭が悪いと言われている気分だ。だからと言って、ここでまた怒りでもしたら、それこそ頭の悪いガキと見なされてしまう。そう思い、ヘンリーはぐっと堪えた。

 「何故グレイスを殺したいのかは、分かっていると言ったが、それはどういう意味だ?」

 牧師へのムカつきを堪えながら聞くヘンリーの口元は、ピクピクと引きつっていた。牧師はそんな彼が面白くて仕方が無い様子で、クスクスと笑いながら、何度もヘンリーの顔を見ては逸らして、と繰り返している。ジンは相変わらず、無言で無表情のまま、二人のやり取りを見ているだけだ。

 「そのままの意味だよ。」

 クスクスと笑いながら言う牧師に、ヘンリーは自棄酒でも飲むかの様に、また紅茶を一気に飲み干した。空っぽになったティーカップをジンの目の前に突き付けると、今までで一番低い声で言った。

 「おかわり・・・。」

 ジンは無言でカップに紅茶を注ぐ。紅茶を注ぎ終えると、ジンはヘンリーと牧師の顔を順に見て、静かに言った。

 「俺は知らない・・・殺す理由・・・。」

 ジンの思わぬ発言に、ヘンリーはキョトンとした顔をした。

 「当然だろ?無関係なんだから。」

 突然この男は何を言い出すのだと思い、呆れた様子でジンの顔を見ると、ジンはヘンリーの顔をじっと数秒見つめてから、そっと側を離れ、傍らにあるストーブの前へとティーカップを持って座り込んでしまった。男の意味の分からない行動に、ヘンリーは首を傾げるばかりだ。

 「あ~あ・・・。彼、拗ねちゃったよ。」

 牧師の方を一度見てから、改めて座り込むジンの姿を見てみると、確かに牧師の言う通り、拗ねているかの様には見えた。

 (拗ねるって・・・もう二十代半ば位のいい大人だろ・・・。)

 またも呆れるヘンリーは、此処に来てから怒るか呆れるかしか、殆どしていない事に気付き、自然と溜息が零れる。ガックリと首をうな垂れると、ヘンリーは牧師に改めて確認をするかの様に聞いた。

 「さっき言っていたけど、ジンに聞かれても問題は無いと言うのは本当か?」

 牧師は笑顔で頷いた。

 「その理由は?」

 今度はジンの方を指さすと、ニッコリ笑い言った。

 「彼、友達がいるタイプだと思うかい?」

 牧師の質問に、ヘンリーは無言で首を横に振った。

 「じゃぁ、話し相手とかいると思うかい?」

 また首を横に振ると、ジンを憐れむかの様な声で言う。

 「神父様しかいなさそうだ・・・。」

 「じゃぁ~、大切な客人との取引現場に居て、彼に席を外す様に言わない理由は?」

 最後の質問に、ヘンリーはハッと気が付いた。

 「信頼をしているから・・・だ。」

 確かに、此処に来る者達はかなりの訳ありの者ばかりだ。中にはとてもデリケートな内容だってあるはず。大切な商談に、友人とは言えその場に居座らせる事等、普通は有り得ないだろう。余程の信頼がなくては。万が一客の個人情報、と言うよりも、この場合は秘密情報を外で言いふらされでもしてしまえば、この牧師の信頼自体が無くなってしまう。そんな事はこの牧師にだって分かっている事だろう。そんな中、このジンと言う男は、大切な商談中であろうと、この地下室に滞在する事を許されている。余程の信頼が有るからこその事だ。そう気付いたヘンリーは、微かに微笑むと、少し羨ましそうにジンの方を見つめた。

 「言っただろう?彼とは長い付き合いだってさ。」

 クククッと薄笑いをする牧師を見て、あれ程不気味に見えた薄笑いも、何故か今は余り不気味には思わなかった。

 「じゃあ、ジンにも分かる様に説明をする。っと言っても、固有名詞は出さない。念の為にね。」

 ヘンリーの言葉に、俯きながら座り込んでいたジンは、ゆっくりと顔を上げた。相 変わらずの無表情だったが、彼の中では嬉しそうであった。

 「よかったね、ジン。彼が優し~い少年でさあ。」

 クスクスと笑う牧師を見て、ジンは無言で頷いた。本当に、よく分からない二人だと思いながら、ヘンリーはグレイスとの話をする事となった。


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