第一章
「おやすみなさい」と言うと、14歳の杏奈は浴衣を脱ぎ、蚊帳の中で一糸纏わぬ姿のまま、窓からの月明かりの中で眠りについた。縁側の網戸はどれほどの蚊よけになるのだろうか。山の中腹にある、明治に建てられた古い家屋の中で、夏の囁くような夜風は心地よく、蚊取り線香の煙は緩い蛇行を描きながら、一匹の蛇のように揺らいでいる。柱時計が静かに私の子供の頃の心臓と同じように、時を打っていた。子供の頃の記憶は、さざ波のように押し寄せる。
広い床の間は二十畳はあるだろうか。床の間の床板の上には鎧兜が鎮座している。去年の夏だっただろうか、私が兜に触ろうとしたら、杏奈には珍しく、厳しい口調で叱られたことがある。それからは私は二度と、鎧兜には近づかなかった。杏奈には嫌われたくなかった。
信孝も蚊帳の中で目を閉じた。私はひとり、すぐに薄っすらと目を開けていた。
その記憶は遠い日の記憶だと思っていたが、鮮明に蘇った。その時、私は8歳だった。初めて信孝の家に泊まった夜だった。
少女は門脇杏奈。杏奈の弟の信孝。私は信孝の同級生の宮崎亮太。門脇は平家の末裔に多い苗字だ。
今から840年前、1185(文治元)年の壇ノ浦の戦いで敗れた平家一族は、平家再興を誓って全国各地に散っていった。熊本県五家荘にはまったく別の伝承が残っている。平氏の名を秘して緒方氏を名乗り、最終的に五家荘の白鳥山にたどりついたという。五家荘と五木村と坂本村(現坂本町)は三角形の中にある。平家の落人は人吉市から八代市を流れ、有明海に流れ出る球磨川をさかのぼり、必死の思いで、川沿いから九州山脈の山中に逃れ、生き延びたのだろう。九州とは言え、山中の険しさを考えると想像を絶する。私が坂本村に暮らしていた頃の冬は積雪も10センチを超え、厳しい冬山に豹変する日々もあった。
私は杏奈の輝くばかりの白く美しい裸体が気になり眠れなかった。杏奈はしばらくすると、仰向けから、こちらに背中を向けた。私が見ていることに気がついたのだろうか。ゆっくりと体の向きを変えた。月明かりの中で、杏奈の背中から肩の産毛が美しく輝いている。白い肌はさらに白く妖精のように輝いていた。
天井の端には一匹のヤモリが私の早熟な邪心を嘲笑うがのように、這い回っている。
杏奈と信孝は両親を早く失い、祖母が育てていた。
今から60年前の坂本村の私の記憶はある数ヶ月を除いて、鮮明に蘇り始めた。現在では熊本県八代市に坂本村は併合され坂本町に変わっている。昭和39年8月。熊本県坂本村の山の中腹にある信孝の家はその近所の家の中では一際大きな立派な家だった。屋根は高級な城島瓦だけで拭いてあった。私と信孝は分校で3クラスしかないが、同じクラスだった。
山の中腹を切り開き6軒ほどが、昭和17年頃に建てられ、杏奈の家だけが明治から由緒ある家屋だった。
坂本村は太平洋戦争中も山間部で、ほとんどB29の爆撃を受けたことはなかった。
私の家は信孝の家から4軒隣りだった。すぐ隣りには防火用水の小さな溜池があった。よく川で取ったメダカを放して生長を見守った。
家は父親が勤める、麓にある製紙工場が借り上げて、社宅にしていた。麓に降りる坂道を歩いていると、月に二、三回、
製紙工場からけたたましいサイレンが鳴り響く時がある。私達は慣れていたが、他所から来てすぐの人は驚いて何ごとかとうろたえる。製紙工場で漏れ出た木材を溶解する時に使う亜硫酸ガスが漏れ出た時の警報だ。当時は規制が緩く、漏れて当たり前だった。現在では考えられない事だ。
亜硫酸パルプは、化学パルプの一つで、木材チップや非木材原料を亜硫酸液で高温、高圧化で蒸煮、リグニンを除去して作る製紙用と繊維用パルプに分かれていた。
それにしても、薄めてあるとはいえ、凄まじい匂いだった。みんな口をハンカチやタオルで覆い、家の中に駆け込んだ。目にも染みる。大量に吸い込むと、皮膚・粘膜を腐食する。 激しい肺水腫、 肺炎等を発症し、 呼吸麻痺を起こ すこともある。決して侮れないものだった。
ただ、杏奈と一緒に坂道を降りている時、杏奈は平気な顔していたことが幾度もあった。
「お姉ちゃんは平気なんか?」
杏奈が答えた。
「うん、私は平気ばってんね!息ば止めとる!」
不思議だったが、それ以上は聞かなかった。信孝は私と同じでハンカチで口と鼻を塞いだ。
それ以外でも、杏奈は不思議で奇怪なところがあった。ある朝、私が母親のお使いで、隣りの家に塩を借りに行った時だった。ふと見ると、まだ朝の6時頃なのに、杏奈は浴衣姿のまま、防火用水の前に立ち、私が入れたメダカを手ですくい、静かに口に入れいたことがある。私は怒りより、その杏奈の姿が怖くて、杏奈にそのことは聞けなかった。
記憶とは恐ろしいものだ。地引網のように一度、手繰り寄せると海面から大量に上がってくる魚のようなものだ。ヤモリなど8歳以降は見てもいないのに鮮明にヤモリの皮膚の質感、色あいまで蘇ってくる。それとヤモリの匂い。
同じように杏奈の記憶が60年経っても蘇る。東京で暮らすようになって50年も経つが、一番記憶に残っているのは8歳まで過ごした、坂本村と美しい少女、杏奈のことだった。
美しい端正な顔、黒い髪、滑らかな白い肌、美しい眼差し。綺麗な白い足。すべてだった。
信孝とも60年ぶりに会いたかった。連絡を取ったのは私が実家のある八代市から上京する1974年が最後だった。坂本村で8歳まで過ごし、父親の転勤で八代市に9歳の時、小学4年生で移り住んだ。それから、坂本村を訪れることもなく、個人宅も電話が普及し、手紙で電話番号は教えてもらっていた。信孝に電話だけして上京することにした。信孝は坂本村の農協に就職が決まっていた。杏奈は24歳になっていたが村の保育園で働いていると言う。私と信孝もそれが最後だった。杏奈とは電話で話すこともできなかった。
それから50年、父親が去年なくなり、一回忌の夏、私は八代まで帰り、坂本町を60年ぶりに訪れようと思っていた。しかし、その時には、もう信孝の家の固定電話の番号は使われていなかった。
無理もない、18歳から50年も連絡を取ってなかったのだ。もし信孝も元気だったら私と同じ68歳で杏奈にも会えたら74歳の老婦人のはずだった。




