私が大聖女ですか。このイケメン騎士は誰ですか?
最初に見えたのは真っ白い大理石の床だった。
エリスの人生において、あまり見たことがない物だ。
顔をあげると、色とりどりのステンドグラスを背にした豪奢な祭壇がそびえ立っていた。
普段炊き出しをもらいに行く教会とは似つかないほど金色に輝いている。
祭壇の奥には女神像が鎮座し、無表情な石の瞳で人々を見下ろしていた。
エリスはなぜか、その前でひざまずき、手を祈りのポーズに組んでいた。
首をかしげて、立ち上がる。
長いスカートが動きにくい。
周りを見回すと、白い神職服を着た人たちがこちらを囲むように立っていた。
そのうちの一人、一番たっぷりと白い布を纏った服を着ている初老の男が一歩前に進み出て、おおげさな様子で手を広げた。
「奇跡だ。大聖女さま、ありがとうございます。これでこの王都は救われました」
「……あんた、だれ」
「おお。大聖女さま。記憶を失われたのですね。おいたわしい」
「記憶?」
「貴方さまは大聖女さまです。そして、私は枢機卿のシーランド。貴方は奇跡を起こされたのですよ」
「……はあ」
「ここは祈りの場、彼女たちは貴方のサポートをする聖女です」
ぐるりとこちらを囲んでいる女たちは、一様に眉をひそめた。
エリスはまたぐるりと辺りを見回した。
一人で開くには重そうなぶ厚そうな扉が一番奥に見える。
視線が重なり、声がざわめき、空気そのものが圧迫するように肌にまとわりつく。
胸の奥がきゅっと縮み、喉の奥が乾いた。人の数が増えるほど、息が浅くなる。
指先が無意識に、自分の爪を押し込む。
枢機卿は芝居小屋の司会でもしているかのような大げさなしぐさで周りの聖女たちに向き直った。
「皆様。これでスタンビートの前触れは収まった。もう何も恐れることはない。1週間後の本当のスタンビートでも、大聖女様が王都を守ってくださるだろう」
その声はよく通り、高い天井を反響して祈りの場全体に響き渡る。
安堵と歓喜が混じったざわめきが広がり、人々は息をつくように胸に手を当て、女神に感謝の祈りを捧げ始めた。
「お疲れでしょう。大聖女さま。貴方付きの騎士と侍女にお部屋へ案内させます」
枢機卿が言うと、聖女たちよりもさらに後ろに控えていた騎士と少女がエリスに向かって歩いてきた。
少女の燃えるような赤い髪と青い瞳、可愛らしい控え目なそばかすには覚えがある。
「ニナ?」
小さく呼びかける声に、侍女のニナが一歩近づき、静かにうなずく。
その隣で、騎士服の男性が膝をつくと、恭しく最上礼を取った。
「騎士のリアム・ネイサンです。お部屋へ案内いたします。大聖女さま」
案内されたのは、教会の西側奥にある質素な部屋だった。
石壁に囲まれた小さな空間で、装飾らしい装飾はなく、白い壁と簡素な寝台、木製の机があるだけ。
廊下を歩いていくごとに、人の気配が少なくなる。
人の気配がなくなると、胸の奥のざわめきが少し静まった。
エリスは、無意識に扉の位置を確認してから、ようやくうなずいた。
その仕草を、リアムは何も言わずに見ている。
リアムは静かに説明を続けた。
「聖女は、大きな力を使うたびに記憶を失うことがあります。あなたは大きな結界を張りました。その影響で、記憶が抜け落ちているのだと思われます」
ニナが伺うようにこちらを見上げて言った。
「どこまでの記憶がありますか」
エリスは言葉に詰まった。
頭の奥に浮かぶのは、孤児院の薄暗い天井と、夜ごと人数が増えていく寝台の記憶。
息苦しい。
誰かの泣き声。
そして、最後の記憶は、空き家の寒々しく割れた窓で終わっていた。
ニナも孤児で、あの頃はいつも一緒に眠っていたはずなのに。
「……他のみんなは?」
ニナは少し視線を落とし、静かに答えた。
「私は、エリス様が聖女としてお迎えされるときに、侍女役として一緒に召し抱えられました。二年前のことです」
二年。その言葉が、胸に重く落ちる。空白だった時間が、確かに存在していたという事実だけが、現実味をもって迫ってくる。
なるほど、じゃあニナはもう11歳か。
そりゃあ、大人っぽくなっちゃったわけである。
妹分の急な成長にショックを受けているエリスに構うことなく、騎士服の男、リアムが一歩前に出て妙に綺麗な礼をした。
「あなたにお仕えしている騎士です。これから、あなたをサポートします。困ったことがあれば、いつでもお申しつけください」
「困っていることはないわ。状況に付いていけていないだけで」
「もちろん、困ったことがなくても、なんでも話してください。お話相手にはなれますよ。私には口が付いてますので」
にやりと笑うリアムは、ウィンクでもしそうな勢いだ。
先ほど見たときは誠実そうに見えたが、案外お調子者なのかもしれない。
よく見れば赤みがかった茶髪に緑の瞳が印象的な甘い面立ちだった。
いいところの坊ちゃんみたいな容姿だなとエリスは目をすがめながら思った。
坊ちゃん。そういう種類の人間は、だいたい世界の難しさを知らない顔をする。
自分とは真逆の人種をあんまり信用できそうにないし、育った環境が違いすぎて仲良くできそうもない。
たとえ口が付いていようが、あんまり話も合わなそうである。
エリスは「はあ、ありがとうございます」と曖昧な返事をした。
次の日の朝、鐘の音に促されるように起こしにきたニナは手早くエリスの身支度を整えようとしたが、断って自分で髪をゆるく編んだ。
シーツを運ばないといけないというニナを残して、リアムに連れられ。エリスは食堂へ入った。
白い石壁に囲まれた広間には長い卓が並び、すでに数人の聖女たちが朝食を取っている。
リアムが椅子を引いた席に座ると、彼は後ろに立ったまま食事を促した。
他の聖女たちを見ると、それぞれの護衛騎士が後ろに立っている。
これが通常のようだ。
後ろから見られながらなんて、なんて居心地の悪い食卓だろうか。
テーブルの上では、焼き立てのパンの香ばしい匂いと、たくさんの野菜が入ったスープの湯気が静かに漂っていた。
エリスが入室したときから、周囲の視線が一斉に集まり、すぐにひそやかな笑いへと変わる。
彼女がパンを割り、椀を持ち上げた拍子に、食器がかちりと音を立てた。
その小さな音が、やけに大きく響く。
周囲の聖女たちは、誰一人として音を立てていない。
「……今の、聞いた?」
「食事の作法も知らないのね」
「さすが平民」
くすくすとした声が、あからさまに届く距離で交わされる。
エリスは一瞬だけ動きを止め、ゆっくりと呼吸を整えた。
聞いたことはあった。
確か聖女と呼ばれる人たちは、大抵貴族と呼ばれる人から選出される。
貴族のほうが、聖なる力が強いようで、大聖女は先代の大聖女が信託によって選ぶが、その誰もが貴族だったはずだ。
つまり、エリスはだいぶアウェイなようである。
よくストレス溜まらずに我慢していたな、昔の自分。と、自分自身に向けて拍手をしたくなる。
いや、我慢していたのかな、どうかなという疑問は残るが。
後ろに立つリアムが、長身を折り曲げて。周囲に聞こえないように耳打ちした。
「この器、無駄に重いんです。下の方からゆっくりと持ち上げてください」
その言葉を遮るように、右横に座っていた聖女が大きく肘を突き出した。
スープの椀が弾かれ、床に落ちる。
乾いた音とともに、スープが石床に広がった。
湯気がゆらりと立ち、すぐに冷えていく。野菜の匂いが足元で濃くなる。
聖女は口元を押さえ、作ったような声で言う。
よく手入れされた美しい金の髪が揺れる。
「まあ、ごめんなさい。わざとじゃないのよ」
「……そうですか」
「ええ、少し大きな音に驚いてしまって」
食堂に、ひそひそという笑いが広がる。
エリスは床と空になった食器を一瞥し、静かに顔を上げた。
「確かに音を立てたのは私です。でも、落としたのはあなたですよね」
その声は低く、よく通った。
「音を出すのは無作法かもしれませんが、粗末にするほうがより無作法です。食べ物は命です。パンもスープも、祈りの前に女神へ感謝して口にするもの。床に落として笑う行為の方が、よほど行儀が悪いと思いませんか。ええ、食事に感謝することもできないなんて、女神様への冒涜ですね」
相手の聖女は一瞬たじろぎ、吊り上げる。
「あなたに、そんなことを言われる覚えは――」
「あるんです」
エリスは間髪入れずに言った。
「聖女なら、誰より先に恵みを尊ぶべきでしょう。聖女と呼ばれる方が、恵みを床にぶちまけるのですね。ずいぶん高尚な教育をお受けになったようで」
「なっ、平民風情が!」
「平民だから分かるんです。飢えは作法では防げませんから。このパンを作るのに、どれだけの小麦が必要で、それをどのように作っているのか知っていますか。作法を誇るなら、まず命の重みを覚えてからにしてください。勉強不足ですよ」
勝敗はついた。
エリスは静かな表情のまま、心の中でにやりと笑った。
特に聖女の心得なんて覚えてもいないが、別にそれっぽく聞こえればなんでもいいのだ。
下町のパン屋で廃棄のパンを貰うときと同じだ。
こういうのは、理屈が通ってようがいなかろうが、堂々とした態度で言い、なおかつ相手が反論しにくい内容ならなんでもよい。
今回に関しては理屈は明確で、周囲の視線が一斉にその聖女へ向かう。
彼女は反論の言葉を探すように口をもごもごとさせたが、その口が開くことはなかった。
エリスはふふと笑いそうになるのを堪えた。
恵みを尊ぶとか、そんな炊き出しの前に行われるミサでしか聞いたことがないようなことを、それっぽく言えるなんて、なかなか聖女の才能があるのではないだろうか。
見たところ皆のリーダーのような雰囲気があるし、この人さえ黙らせれば特に問題はなさそうだ。
空気が張り詰めたそのとき、足音とともに聖職者が現れた。
「聖女様方、祈りの時間です」
その一声で場は解かれ、聖女たちは視線を逸らしながら席を立つ。
ふと、頭上でくくと一生懸命に堪えるような笑い声がした。
「昔のあなたが戻ってきたようだ」
一瞬からかわれたのかと顔をあげると、彼は心底嬉しそうに目をほころばせていた。
神職者の声が食堂に響いたあと、パンだけを頬張って朝食は終わりを告げた。
具材たっぷりのスープを食べ逃したのはかなりの痛手だ。
あんなに立派なスープは初めてみたのに。
ぞろぞろと歩く聖女と騎士たちの後に続き、リアムが先導してくれる。
みんなが向かっているのは、前に入ったのとは違う聖堂のようだ。
扉は高く重く、奥の気配が見えない。
胸の奥がざわつき、無意識に視線が左右へ走る。
彼は歩調を緩め、低い声で静かに言う。
「入口は今いる正面の一つ。出口は三つあります。右手の回廊に二つ、祭壇の裏に一つ」
淡々とした口調で、指先だけで位置を示す。
「混み合ったら、必ず右の二つは避けてください。外に人が多いです。一番いいのは、祭壇の裏の出口です。人が少ない」
エリスは思わず彼を見る。
「……どうして、そんなこと」
リアムは肩をすくめる。
「不安になると、出口を探しますよね。だから先に伝えた方がいい」
それは配慮というより、当然の判断のようだった。
エリスは息を呑む。
誰にも言っていない癖を、責めも詮索もなく勝手に理解されているのは、どうにも座りが悪い。
「ありがとう」
リアムは微笑み、ほんの半歩前に出る。
「大丈夫です。迷ったら、右の壁に手を付いて歩いてください。この建物の構造はぐるりと渦巻き状に丸くなっているので、必ずここに戻れます。ここではなく外に出たいときは、左に手を付いてください」
彼の背中が視界に入り、エリスの胸のざわめきが少しだけ静まった。
出口の数を知っただけで、足が前に出る。
小さい頃から、エリスは逃げ道を確保しないと落ち着かない性質なのだ。
この騎士はたしかに、エリスをよく知っている、
祈りの準備の合間、聖堂の一角で他の聖女たちは自然と円を作る。
互いに声を掛け合い、衣の乱れを直し合いながら、柔らかな輪を完成させていく。
視線を向けても、誰とも目が合わない。
どうしたら良いのか聞くこともできないまま、とりあえず円から少し離れて、他の聖女の動きを真似することにした。
一様に祈りのポーズで女神様に祈りをささげているようだ。
特に決まった文言などもないようだ。
簡単でいい。だれでもできそうだ。
先ほどリアムに教えてもらった出口を確認した。
正面の一つ。出口は三つある。右手の回廊に二つ、祭壇の裏に一つ
柱の影、扉の位置、外へ続く回廊。
ふと、後ろに控えていたリアムが耳打ちした。
「ちなみにこの祈りは、円になるという決まりはありません。ただの雰囲気で皆そうしているだけです。なので、円の中にいなくても女神様には届きます。……むしろ、静かな場所の方が集中できます」
エリスは一瞬だけ彼を見上げ、小さくうなずく。
胸の奥にあったざわめきが、ほんの少しだけ遠のいた気がした。
たっぷりと祈りをささげ、またあの陰気な食堂で昼食を取った。
今回は誰もちょっかいをかけてこない。
少し言い返されただけで何もできなくなるなんて、可愛いものである。
レーズンの入った焼きたてのパンにとてつもなく美味しい黄色いソースのかかった白身魚。
そして、やっと具材たっぷりのスープが食べられて、エリスは感動した。
これが毎日食べられるなら、少しくらいの虐めは許容してやってもよい。
ルンタッタと踊り出しそうな気分で人気のない回廊を行くと、自室に戻る。
扉を開けると、リアムは「所用を済ませてきます」と礼をして去っていった。
後ろ姿も様になる男だ。
白い石壁に囲まれた空間はひんやりとしていて、胸の奥のざわめきがようやく静まる。
中で掃除をしていたニナが、箒を手にしたまま声をかける。
「……エリス様、大丈夫ですか」
その呼び方に、エリスは小さく首を振った。
「ニナ。敬語、やめて。昔みたいに話して」
ニナは一瞬目を丸くし、それから困ったように笑う。
「でも……」
「お願い」
短くそう言われ、ニナは少し迷ってから、小さく息を吐いた。
「……分かった」
そして、確かめるように口にする。
「お姉ちゃん」
胸の奥がきゅっと鳴る。
その呼び方が、とてつもなく懐かしかった。
ここ数年の記憶がないらしいエリスにとっては、昨日まで呼ばれていたものなのに。
「ねえ、ニナ。本当に私は聖女なの」
問いかけると、ニナはすぐに答えず、視線を落とした。
「孤児院の職員の男に襲われそうになって逃げだして、空き家で寝てたときのこと、覚えてる?」と前置きして、静かに語り出す。
「屋根が少し壊れてて、夜は寒くて……」
「覚えているわ。……というより、わたし、その夜までの記憶しかないの。起きたらここにいて、大聖女がなんだのと言われて、なんかもう二年経ってるとか言われて、正直なにがなんだか分からないわ」
ニナはうなずいた。
「次の日の朝、迎えだって言う聖職者たちがそこに来たの。前大聖女様が、そこに次期大聖女様がいるって神託を受け取ったんだって。それで、嫌がるお姉ちゃんと無理やり連れて行こうとしたの」
「その神託なら、ニナも聖女じゃないの」
「ううん。黄色い少女なんだって」
確かにエリスは黄色に近いハシバミ色の瞳をしている。
ふわふわとまとまりのない鳥の巣のようなくすんだ金髪とあいまって、全体的に黄色に見えるかもしれない。
「意味が分からなかったの。わたしたち二人とも。抵抗したけど、でも聞いてもらえなくて……だから一緒に連れていって、なんでもするって言ったの。そしたら、お姉ちゃんの側付きならいいって言うから、それになるって言って、いまこんなかんじなの」
エリスは黙ってニナの頭を撫でた。
孤児院でニナに会ったのは物心ついてすぐの頃。引き取られたのは、同じ夏の日だった。
それからずっと、姉妹のように寄り添って過ごしてきた。
あの子どもたちに過剰に暴力をふるう男が孤児院に来るまでは。
彼も恵まれない出身だったらしく、読み書き計算はできず、よい仕事に就くことができない人だったらしく、世界への鬱憤は、すべて子どもたちに向けられていた。
エリスにとっては、つい昨日のことだ。
あの日、男は孤児院のお金を使い込んで買った酒に酔っていて、ニナが換気のために窓を開けた。
雨が降ったあとだった。
湿気を含んだ生ぬるい風が部屋に入った瞬間、ニナが男に殴られて床に転がり、その上にかばう様に覆いかぶさったエリスの背中に男は何度も踵を振り下ろした。
怖くて怖くて、ニナは泣きわめいていて、エリスは着ていたぼろの服の首根っこを掴まれてひょいと掴み上げられ、もう片手で首を絞められそうになった瞬間、死を意識した。
それは確実にこちらを覗いていて、どこまでも薄暗かった。
渾身の力で男の急所を蹴り上げて、咄嗟にニナを連れて宵闇の外へと飛び出した。
まさかあの後、大聖女だのと神託を受けた聖職者たちが迎えにくるなんて、だれが想像するだろうか。
ニナは少し間を置いてから、懐から丁寧に畳まれた封筒を取り出す。
「これ」
差し出されたそれを、エリスは不思議そうに見つめる。
「お姉ちゃんが書いた手紙なの」
エリスは即座に首を振る。
「私、文字なんて読めないわ」
孤児院で字を教わる余裕なんてなかった。
ニナは静かに続けた。
「全部を忘れたら、そのときに渡してほしいって言われてた」
エリスは封筒を受け取り、恐る恐る中身を取り出す。
紙の上には、整っていない文字が並んでいる。
意味は分からない。
読めない。
それなのに、胸の奥が締めつけられるように痛んだ。
「お姉ちゃん、すごく一生懸命に文字の勉強してたから。ほら、ここにペンだこがあるでしょ」
たしかに、エリスの右手の薬指は不自然に固くなっていた。
「……何て、書いてあるの」
そう尋ねると、ニナは少しだけ視線を逸らし、「たぶんなんだけど」と前置きして、自信なさげにゆっくりと読み上げる。
「がんばる、わたし、嫌い、ない。手を、しあわせ。うーん、わかんない」
「なあにそれ」
エリスは思わずあきれたように首を傾げた。
字なんて結局書けなかったのかもしれない。
ニナの声が続く。
「言ってたことは覚えてるよ。怖くても逃げたくないって。前に立てたのは、後ろにニナがいたからだって」
聞いたことのないはずの言葉なのに、胸の奥で、同じ言葉を前から知っていた気がした。
「強さは、最大の防御だってお姉ちゃんが言ってたよ」
ニナの声が少し震える。
「結局のところ、誰にも邪魔されない自分自身の強さが、最大の武器だって」
エリスは手紙を強く握りしめた。
読めないはずの文字が、意味ではなく感情として流れ込んでくる。
知らないはずの過去が、確かにそこにあった。
「……リアムのことも何か?」と尋ねると、ニナは小さくうなずいた。
「あの人がいると、逃げ道を探さなくていい気がするって言ってたよ」
「あの坊ちゃんのことを?」
「あの人、平民の愛人から生まれて、お母さんが亡くなってから貴族のお父さんに引き取られたんだって。元は平民だから、わたしにも敬語はいらないって」
エリスは言葉を失った。
なるほど。
あんなに平然とした男にも、苦労は後ろから付いてきているものなのだ。
それを外見での最初の印象だけで否定した自分に、少し嫌気がさした。
「あの人は、わたしにとってどんな人だったのかしらね」
自分は、ずっと一人で耐えてきた。
過去の自分はどんな風に彼と話して、どんな風に思っていたのだろうか、
夕食はリアムが部屋まで運んできてくれた。
木製の盆の上には、温かいスープと柔らかいパン、それに香草の香りがする主菜が並んでいる。
扉が閉まったあと、エリスは盆を見下ろして首を傾げた。
「リアムとニナの分は?」
リアムは一瞬だけ目を瞬かせ、いつもの穏やかな笑みで答える。
「私はあとで食べます。ニナも一緒に食べるなら、彼女の分も持ってくるよ」
それを聞いたエリスは、すぐに首を横に振った。
「三人で食べましょう」
即座の返事だった。
拒む余地を与えない調子に、ニナが驚いたように目を見開き、次いでくすっと笑う。
「……うん。三人で食べたいな」
結局、三人で部屋の小さな円形テーブルを囲むことになった。
食事が始まると、部屋の空気は不思議とやわらいだ。
リアムは終始明るく、スープの味の話や、今日の見回りで見た小さな出来事を語り、場を和ませる。
その様子を横目で見ながら、エリスは胸の内で問いかけていた。
この人は、敵なのだろうか。それとも、味方なのだろうか。
ただ、目の前のごはんは朝食よりも昼食よりも驚くほど美味しく、久しぶりに、食べることが楽しいと感じている自分がいた。
同じような焼きたてのパンにたくさんの具材が入ったスープ。
ごちそうだ。
でも、一番おいしい。
「エリス、昔に戻ったみたい」
不意にニナが言う。
「そういえば、そんなこと、リアムさんも言ってましたね」
リアムは苦笑しながら頷く。
「私はここ二年、エリス様付きの騎士ですから。ここに来たばかりのころのあなたは、本当に大変でしたよ。逃げまどって、落ち着きがなくて。野良猫みたいでした」
からかうような言い方なのに、不思議と嫌な感じはしない。
ニナが笑う。
その笑みには、どこか懐かしさが宿っていた。
その言葉の続きとして、リアムは少し表情を改めた。
「でも、それから多くのことを学び、貴方は大聖女になった」
一拍置いて、付け足すように言う。
「圧倒的に、聖力が強かったのもありますが」
そこで、言葉が途切れた。
ほんの一瞬の逡巡。
その沈黙が、エリスの胸に引っかかる。
「……ねえ、わたしは、教会の外には、出られないの?」
問いは、思ったよりも静かに口をついて出た。
リアムはすぐに答えない。
やがて、低く抑えた声で言う。
「申し訳ございません」
それだけだった。
「軟禁みたいね」
エリスがそう言うと、リアムの表情が、ひやりと硬くなる。
緑の瞳なのに、覗き込むと、どこまでも吸い込まれそうな闇のような不思議な瞳だった。
否定もしない。
その沈黙の中で、エリスははっきりと理解してしまった。
昔、自分は誰にも守られず、誰も信じられずに生きていた。
そしてここでもやはり、幸せではなかったのだろう。
だが少なくとも、この食卓には、同じものを食べ、同じ時間を共有してくれる人がいる。
このリアムの態度が演技であったとしても、この時間だけは嘘ではない。
エリスは、湯気の立つスープを見つめながら思った
次の日の朝も、朝食はリアムが取りに行ってくれた。
扉の内側で身支度を整えながら、エリスは廊下の気配に耳を澄ます。
複数の足音、楽しげな声。
扉越しでも分かるほど、空気が明るい。
聖女たちの笑い声が混じり、名前を呼ぶ声が重なる。
どうやら、リアムと聖女たち数人が話しているらしい。
そして、リアムは人気者らしい。
まあ、あの容姿なので、それはよくわかる話だった。
しばらくして、扉がノックされる。
入ってきたリアムの腕には、湯気の立つスープとパンを載せた盆があった。
朝の光を背に受けて、いつもより少しだけ眩しく見える。
「お待たせしました」
その声は変わらず穏やかだ。
エリスは盆を受け取りながら、何気ない調子で言った。
「ずいぶん、もてるのね」
リアムは一瞬だけきょとんとし、それから苦笑する。
「聞こえていましたか」
エリスは肩をすくめる。
「扉の外が、にぎやかだったから」
少し間を置いて、視線を上げる。
「楽しそうだったわ」
「楽しいのは彼女たちだけですよ。彼女たち貴族の聖女は、それなりのプライドがあります。なので、話しかけても、私と真に仲良くなることはしません。生まれた時の身分が違うんですよ」
「そんなこと……」
言いかけて、あの食堂での彼女たちを思い出して口をつぐんだ。
「彼女たちにとっては、一瞬遊んであげるペットみたいなものですよ」
リアムは小さなテーブルにはは依然しながら答える。
綺麗に整えられたおいしそうな皿が均等に並ぶ。
「深く仲良くなるつもりがないほど、彼女たちは楽しく夢中になれます」
その言い方が、どこか線を引いているようで、同時に誠実だった。
エリスは椅子に座りながら、胸の奥で小さく波立つものを感じる。
人気があるのは事実。
でも、この人は誰とでも同じ距離で立っている。
そう思った瞬間、なぜか、本当に理由もなく少しだけ安心した。
リアムは何事もなかったように言う。
「温かいうちにどうぞ。今日は外が冷えます」
エリスは笑って、奮闘しながらシーツを引きはがすニナと、にこにこ笑っているリアムを見てから言った。
「ご飯をいただきましょうか」
朝の祈りを終え、聖堂を出た直後だった。
回廊の角で足を止めた瞬間、エリスは複数の気配に囲まれる。
今日はリアムに所用があると言って、祈りの間に案内した後は一人だった。
リアムを待つ前に部屋に帰ろうと聖堂を出たとき、聖女たちが円を描くように立ち、逃げ道を塞いでいた。
中心には、あの食堂でぶつかってきた彼女が立っていた。
冷えた視線が一斉に向けられる。
「護衛騎士に近づきすぎよ」
「甘えすぎじゃない?」
「あの人は貴族なのよ。本来はあなたに仕えるような身分じゃないの」
「あなたみたいな平民が大聖女なんて、恥ずかしいわ」
普段よりも幾分低い声、抑えた嘲り。
エリスは一歩も退かず、静かに返す。
「誰に近づくかを決める権利は、あなたたちにありません。もちろん、大聖女を選ぶ権利も」
空気がぴんと張りつめ、次の瞬間、言葉ではなく力が来た。
誰かが掃除中に置いていったのか。回廊にあった掃除用の箒が振り下ろされ、頭に鈍い衝撃が走る。
誰かが腕を掴み、回廊の横の暗い扉が開き、押し込まれる。
押された反動で、床に転がった。
掃除用具部屋なのだろう。
中にはモップや箒、バケツが置いてある。
中は狭く、エリスが4人分は入れればいいほうで、埃と古い木の匂いが充満していた。
「本当に生意気」
「大っ嫌いだわ」
そのまま扉を閉めようとする聖女たちを見て慌てて床から起き上がったエリスを見て、彼女たちはくすくすと笑った。
「まあでも、あなたが祈れば、私たちは祈らなくて済むものね」
扉が閉まる音がして、ほどなくしてかちりと世界が閉まる音がした。
咄嗟に扉を押したが、ぴくりともしなかった。
闇が落ちる。
心臓の音だけが大きくなる。
暗い、怖い。
いや、こんなの、孤児のころは普通だったはずなのに。
物置に閉じ込められることも、叩かれることも、日常だったのに。
今は、息が詰まる。
胸が痛む。指先が震える。
窓のない部屋は、とても暗かった。
死を意識したあの夜のように。
どれくらい経ったのか分からない闇の中で、外から駆け足の音がした。
鍵が乱暴に回り、扉が開く。
「エリス。探した」
心底安心したような声だった。
光が差し込み、次の瞬間、強く抱きしめられる。
近すぎる距離、息がかかるほどの親密さ。
エリスは息をのんで、それからきちんと整えた。
震えていた指をぐっと拳を握ることで黙らせる。
「君になにかあったら、俺は……」
言葉が途中で途切れ、腕の力が強まる。
エリスは驚いて顔を上げた。
「リアムさん?なんか慌てているわね。あなたこそ大丈夫?」
うずくまったまま、精一杯エリスは笑った。
その笑みを、リアムは心底辛いことのように顔をゆがめた。
抱きしめる腕は離れないまま、彼の胸の鼓動が、エリスのそれよりも速いことだけが、はっきりと伝わってきた。
次の瞬間、視界が浮いた。
横抱きにされている。
腕は強いのに、触れ方は驚くほど慎重だった。
エリスの足が、まだわずかに震えている。
それに気づいたリアムの指先が、ほんの少しだけ強くなる。
廊下の空気は冷たい。
エリスを閉じ込めた聖女たちが数歩離れた場所に立っていた。
「違いますのよ、わたくしたちは――」
声は乾いている。
リアムはゆっくりと振り返った。
その動きは静かだ。
緑の瞳が、硝子のように温度を失っている。
廊下の空気が一段階、冷えた気がした。
「物置は、祈りの新しい作法ですか」
穏やかな声。なぜか足元の影が濃く見えて、一瞬エリスはぶるりと抱えあげられた腕の中で震えた。
それに気づいたリアムは一瞬気遣うような瞳を向けて、エリスの背中から肩に回した手でゆったりと落ち着かせるように撫でた。
「あ、あの、少し、びっくりさせようかと思っただけなのです。そしたら大聖女様が大声を出すから、わたくしたち驚いてしまって……」
「驚きで、鍵は掛かりません」
聖女の一人が唇を噛む。
「あなたはただの護衛騎士でしょう」
その瞬間、リアムの視線が静かに落ちる。
抱えたエリスの足元へ。まだわずかに震えている。
彼は何も言わず、抱き直した。
まるで壊れ物を扱うように。
「ええ。ただの騎士です」
足音が石床に響く。
「ですが、エリス様は」
一拍。
廊下の窓から差し込む光が、彼の横顔を縁取る。
「あなた方が思うほど、弱くありません」
その声には怒鳴りも威圧もない。
「彼女は自分で立つ人です。逃げずに、前に進める方です」
腕の中で、エリスが小さく息を吸う。
それに気づいて、リアムの目がわずかに和らぐ。
しかしそれは一瞬のことで、聖女たちに向けられた瞳は、どこまでも凍っていた。
「――ですが、私が守らないとは、一度も言っていない」
リアムはもう彼女たちを見ない。
「この件は枢機卿に報告いたします」
「そ、そんなの、待って。そんなこと、許されると思っているの」
「部屋に戻りましょう」
聖女たちの訴えを無視した声は、すでにいつもの穏やかさに戻っている。
けれど抱える腕は、まだ少しだけ強い。
廊下を進むあいだ、エリスの足は宙にある。
石床の冷たさは届かない。
彼の胸元から伝わる鼓動は速い。
それはエリスよりも、ずっと速かった。
「怖かったでしょう」
低い声。怒りではない。
これはきっと、悔しさだ。
エリスは彼の胸元を見つめる。
さっきまで凍っていた男が、いまはひどく静かだ。
でも、その静けさの奥にある熱は、隠しきれていない。
――ああ、この人は、本気で怒っている。私のために。
エリスは、ようやく足の震えが止まっていることに気づいた。
その日の夜更け、控えめなノックの音とともに、リアムが部屋を訪れた。
手には湯気の立つホットミルクの入ったカップが二つある。
「眠れそうにないと思って」
そう言って差し出される温もりに、エリスは小さく礼を言った。
窓の外は澄んだ冬の夜で、雲ひとつない。
月が白く高く、教会の石壁を銀色に縁取っている。
遠くの騒ぎはもう収まり、残っているのは鐘楼の上で鳴く鳥の声と、風が回廊を撫でる音だけだった。
窓枠に触れると冷たくて、指先が一瞬で目を覚ます。
二人で窓辺に腰掛け、月を眺める。
白い光が床に落ち、昼間の出来事が嘘のように静かだった。
ホットミルクの甘い匂いが、石の冷えた匂いを少しだけ押し返す。
エリスはカップを両手で包み、ぽつりと切り出す。
「ねえ。他の聖女たちも、私みたいに記憶がないの?」
リアムはすぐには答えず、月を仰いでから静かに言った。
「……いいえ」
続く言葉は重かった。
「実は、皆がエリスに大きな仕事を任せています。その分、あなたばかりが力を使い、あなたばかりの記憶が減っている」
エリスの胸がひやりとする。リアムは続ける。
「それでも、あなたはいつでも、どんなことにも一生懸命でした。文字を覚え、マナーを身につけ、祈りを学んだ。いつか忘れると分かっていても」
月光の下で、彼の横顔が痛々しいほど真剣だった。
唇を引き結ぶ癖も、言葉を飲み込む喉の動きも、どこか堪えるように静かだ。
その静けさが、逆に熱を隠しきれていない。
エリスは息を吐き、言葉を選ぶように口を開く。
「やっぱり私は、他の聖女たちの記憶を守るための生贄みたいなものなのね」
否定を待つような沈黙が落ちる。
その沈黙のあいだ、風が窓を鳴らした。
きぃ、と細い音。古い木の軋み。
その小さな音が、なぜか胸の奥まで染みた。
リアムは否定しない。
ただ、カップの縁を指でなぞり、指先がわずかに震えている。
昼間、物置の暗闇から引き上げてくれたときと同じ震えだった。
怒りでも恐れでもなく、悔しさの震え。
エリスはふと、思い出したように言った。
「そういえば……私から手紙をもらったわ。読んでくれる?」
エリスが差し出した封筒を、リアムは一瞬だけ目を見開いてから受け取った。
その指が、封筒の端を必要以上に丁寧に整える。
紙を破らないように――ではなく、まるで“中身を落としたくない”みたいに。
読み進めるうちに、彼の声が詰まり、やがて視線を伏せる。
じっとその様子を見ていたエリスは、月明りに照らされて一粒ころりと落ちてきた雫に、思いの外動揺した。
男の人の瞳から落ちる雫を見たのは初めてだった。
「えっと、大丈夫?」
「ええ、大丈夫です」
「そんなに嫌な内容だった?」
「いいえ」
リアムはもう一度「いいえ」と言って、大事そうに封筒を胸元にあてた。
エリスは首を傾げてから、にっこりと笑った。
「もしかして、リアムさん宛てだったのかしら?それなら、それはあなたが持っていて。どのみち、わたしには読めないし」
次の瞬間、エリスは強く抱きしめられていた。
なぜかひどく安心する温度だ。
ああ、これは、知っている。
そこまで考えて、そういえば今日埃っぽい掃除用具部屋で抱きしめられたことを思い出した。
どこか汗のにおいがして、でもそれも悪くなかった。
「馬を用意しようかと思っています。どこへでも行けます。馬はお好きですか」
耳元で囁かれたその言葉に、エリスはすぐには答えられなかった。
「生き物は好きよ」
「知っています」
リアムの肩越しに、窓の外の月が見えた。
白い光の中で、彼の睫毛が影を落としている。
その影が少しだけ揺れている。
「……ごめん。あなたのことをどこまでも守りたいのに」
耳元で囁かれた声は、とても低かった。
いつの間に脱いだのか、リアムの外套が肩にかけられる。
エリスは「寒くないわよ」と小さく言った。
リアムはまた「知っています」と答えた。
自分が誰かに親切にすることは結構好きだが、だれかに優しくされる経験はあまりない。
守られるなんて、なおさらだ。
それはひどく甘美であるのに、同じくらい怖かった。
「ねえ、わたしがまったく何もかも忘れた最初のときに、枢機卿って名乗った人が言ってたわよね。もうすぐ、すたんびーと?っていうのが起こるって。わたし、それのためにまた祈りをささげるんじゃないの?」
「枢機卿が言っているだけだ」
「この間のわたしの祈りは、何を守ったの?」
「この王都の市民すべてを。貴方が守ってくれた」
「わたし、守れた?」
「ああ、立派に、どこにも逃げずに。あなたの名前も呼ばない、よく知りもしない人たちのために、どこまでも高潔に守った」
絞り出すような声だった。
そういえば、この場所でエリスの名前を呼ぶのは、リアムとニナだけだったと初めて気が付いた。
みんな様々な意をこめて、大聖女様と呼ぶのだ。
「ねえ、でも一週間後にまたスタンビートっていうのががくるって」
「スタンビートは、前のあなたの祈りで退いたんだ。きっと」
「魔物がくるって言ってたわ」
「きっと来ない」
「でも、あの日の一週間後って、明日でしょう。わたし、なにかするべきことがあるんじゃないの?」
リアムは何も答えなかった。
ただエリスを抱きしめたまま、じっと沈黙している。
自分とリアムは、いったいどんな関係だったのだろう。
忘れてしまった過去の中に、その答えがあるのだろうか。
ただ、自分がそれを手にする日は、二度とこない。
朝から、リアムは姿を見せなかった。
ニナと一緒に朝ご飯を食べた。
「ニナ。リアムさんはどうしたの?」
「今日は用事があるみたい。だからニナと一緒に聖堂に行こう」
「……そう」
ニナはぎゅっとエリスの手を握って、にこりと笑った。
「大丈夫、お姉ちゃん。ニナが守ってあげるからね」
「なあに。それ」
「ニナがお姉ちゃんの騎士になるの」
「えー、こんなに可愛い騎士がいるかなあ」
エリスがニナを抱きしめると、ニナが楽しそうにきゃあと悲鳴を上げて笑った。
回廊をすすんでいくと、慌ただしい足音と切迫した声が重なって届く。
聖堂に入ったとき、そこには複数の聖職者たちがすでにいて、顔色を変えて告げた。
「ああ、お探ししていました!町に魔物が出現しました。大聖女様、早く!」
遠くで悲鳴が上がり、人々が逃げ惑っているという。
祈りによる奇跡が必要だ。
その言葉を聞く前に、エリスの心のてっぺんから先の方まで、恐怖が突き刺した。
エリスの身体が先に反応していた。
視線が勝手に出口を探し、足が動く。
後ろに控えていたニナの手を掴み、引いた。
「こっち」
「大聖女様!どちらに行くんですか!」
「お戻りください!大聖女様!」
いつかリアムが言っていた。
逃げるなら、祭壇の奥の扉が良い。
表よりもかなり粗末な木の扉開くと外には誰もいなかった。
そうだ。
ここは人通りが少ないと言っていた。
左の壁に手をつきながら、右手でニナの手を引いて、エリスは走った。
教会の外へ続く扉が見えた。
大きくて立派な、女神の彫刻が掘られた扉。
天国に扉があるとしたら、きっとこんな形をしているだろう美しい金箔を張った扉。
そこに飛び込もうとして、エリスは足を止めた。
扉の向こうは、光ではなく音が先に押し寄せてきた。
悲鳴と、怒鳴り声と、なにかが倒れる鈍い音。
乾いた冬の空気に混じって、鼻の奥を刺す匂いがする。血の匂いだと気づいたのは、喉がからからに乾いてからだった。
石畳の広場には人が溢れている。
荷を抱えたまま転び、立ち上がれない者。
誰かの袖を掴んで引きずるように走る者。
叫びながら名前を呼び続ける声が、どこからともなく重なっていた。
小さな子どもの泣き声がした。
泣き声は鋭く、息が詰まるほど近い。
目を凝らすと、屋台の陰で、幼い子が膝を抱えて座り込んでいた。頬は涙と埃で汚れ、口を開けたまま、ただ声だけが震えている。
すぐ隣では、屋台が倒れていた。
木枠が歪み、看板が石畳に叩きつけられ、果物が転がっている。
踏まれて潰れた赤い実が、濡れた染みのように広がっていた。
それは血ではないのに、足元の赤が目に引っかかって離れない。
誰もが、いま必死に逃げているのに。
誰もが、誰かを探しているのに。
それでも、祈るしかなくて膝をついている人がいる。
扉の女神の彫刻が、ひどく冷たかった。
エリスの足は、すぐには動かなかった。
誰もが、助けを求めている。
小さなころのエリスは、いつも助けを求めていた。
明確に誰にというわけではない。
だれも聞いていなかったし、聞いていても無視されたに違いない。
ちょうどいまの彼らのように。
とても怖い。足がすくむ。
それでも、胸の奥で同じ言葉が繰り返される。
扉の女神の彫刻は、こちらをじっと見つめているように見えた。
目の錯覚だと思うのに、そこから目が離せない。
彼らは、自分だ。
幼い頃、なんの力もなかった自分。
エリスはからからの喉から声を絞り出した。
「怖い。でも、だからこそ逃げたくない」
そのとき、強い力で方を掴まれた。
見開いた黄色い瞳に、リアムが映った。
「馬を用意しています。早く逃げましょう。こちらへ」
「馬?」
「はい。朝からそれを用意していました。行きましょう」
この一週間の中で、リアムは一番真剣な顔をしていた。
鬼気迫るといってもいいその様子に、エリスはただ呆然とした。
ニナが促すように繋いだ手を引いた。
その瞳は、どこか真剣だ。
胸の奥のざわめきが、すとんと落ちた。
エリスは深呼吸をしてから、静かに言った。
「わたし、行けない。やることがあるの」
周りの喧騒にかき消されるような小さな声だった。
それを正確に拾ったリアムは、絶対に逃がさないというようにエリスの方に置いた手にさらに力をこめた。
「行かないでくれ」
一歩、距離を詰める。
「もう、君の中の何も捧げなくていい。聖なる力も、奇跡も、記憶も」
視線がぴったりと合っている。
彼の目は切実で、必死だった。
「君の記憶が奪われていくのを、もう見ていられない。耐えられないんだ」
その言葉は懇願だった。
命令や悲しみの声は聞いたことがあるが、エリスはこんなに寂しそうな、どこにもよすがのないような声を聞いたことがなかった。
「聖堂には行かなくていい。祈らなくていいんだ。貴女は十分に人に尽くした」
続く声は、選択肢を差し出す音だった。
エリスは目を閉じる。
人々の逃げ惑う声が聞こえる。
胸はばくばくと鳴っていて、恐怖は消えない。
前回はスタンビートの前段階だったそうだ。
エリスは二年分の記憶を失った。
今回はどれだけ無くすのだろうか。
それでも、彼女は首を振った。
「わたし、行くわ」
声は小さいが、揺れていない。
「エリス。頼む、一緒に来てくれ」
「やらないといけないことがあるの。誰でもない、わたしが」
「エリス」
「リアムさん、わたし……」
「……いかないでくれ」
リアムの必死の形相から、ほろりと雫が落ちた。
この雫を見るのは二回目だ。
光を反射した雫は、どこにも引っかかることなく地面に落っこちた。
なんて綺麗なんだろうか。
「でも、約束して」
リアムの緑の瞳を見る。
いつものように、ぴったりと目が合った。
まるでこれが一番正しいことのようだった。
「……わたしを、忘れないで」
リアムが息をのむ。
「私が戻ってきたら、名前を呼んで。出口の場所も、数も、教えて。いつもみたいに」
リアムは数回分の息を止めて、そしてあきらめたように一度俯くと、顔をあげて、エリスとまたびったり瞳を合わせた。
そこには、悲しみはなかった。
そして、ゆっくりとうなずいた。
「必ず。約束する」
エリスはニナの手をそっと放し、振り返る。
祈りへ向かう足取りは重い。
リアムが先導するように聖堂に向かって歩き出す。
聖堂の扉が閉じると、外の喧騒は嘘のように遠のいた。
この奇妙な一週間の始まりは、まさにこの聖堂だった。
白い石に囲まれた空間の奥、女神像が静かに佇んでいる。
冷たい大理石の床に足音が吸い込まれ、エリスはその前へ進んだ。
胸の鼓動が早い。
ここが、捧げる場所だと身体が知っている。
振り返ると、リアムが一歩後ろに立っていた。
エリスは女神像を見上げ、そして、またリアムを見る。
そして、微笑んだ。
怖さは消えない。
けれど、この人がいれば、運命の出口はいつでも教えてもらえる。
その扉から、エリスはきっとどこにだって行ける。
エリスは女神像に向き直り、祈る。
礼拝の作法も祈り方も知らないが、相手は慈悲深いと噂の女神様だ。
願いはただ一つ。
静寂が満ち、空気が震える。
光が像の足元から広がり、聖堂を包み込む。
ああ、やはり、女神様は慈悲深く、同じくらい残酷だ。
エリスは唇の端を上げた。
エリスは、ゆっくりと目を開けた。
視界いっぱいに広がるのは、白い大理石の床。
顔を上げると、美しい女の人の像がある。
首を傾げて自分の体を観察すると、白い服を着ている。
胸に手を当てる。
痛みも、疲労もない。
ただ、ひどく空っぽだった。
視線が彷徨い、自然とこの場所からの出口を探す。
その視線の先に、ひとりの男が立っていた。
道を塞ぐように、けれど威圧するでもなく、静かにこちらを見ている。
エリスはまた首を傾げた。
誰だろうか。
いや、そうだ。
自分はエリス。
ただ、それ以外、何も思い出せない。
なんとなくその人を見ていると、彼の緑色の瞳がこちらと重なった。
ぴったりと隙間なくかわすような視線だ。
……出口を探すのを、やめる。
自分でも驚くほど自然な動きだった。
「だれ?……なんというか、その、不思議なんですけど、初めて会った気がしません」
首をかしげて、エリスはそう言った。
理由は分からない。
ただ、知らないはずなのに、懐かしい。
彼は、ゆっくりと微笑んだ。
「忘れないと言っただろう。貴方が忘れても、俺は覚えている」
その言葉に、エリスは目を瞬かせる。
「えーっと、何の話ですか。というか……ここはどこですか。わたし……」
言葉が続かない。
何一つ分からない。
こか夢をみているような心地で、ただ、目の前の人だけが、妙に現実のように思える。
ふと、エリスの視線が騎士の胸元で止まる。
胸ポケットから、封筒のようなものの端っこが覗いている。
「それ、なんですか」
問いかけると、彼は「ああ、落ちそうだったね、危ないところだった」と困ったように笑う。
そして、愛おしそうに笑った。
「これは、ある人の精一杯生きた証だよ」
彼はその紙を、二度と折り目がつかないように胸元へ戻した。
「行こう」
そう言って、彼は手を差し出した。
短いその一言に、なぜか拒む理由が浮かばなかった。
エリスはその手を見つめ、ゆっくりと手を重ねる。
彼は、差し出された手を、今度こそ離さなかった。
――拝啓、エリスへ
今回の奇跡では、さすがにすべての記憶をなくしてしまうかもしれません。
だから今日は、たぶん最後の夜だと思って書いています。
今回も私一人が祈ることになりそう。
あなたは、この手紙さえ読めないかもしれないね。
なので、頑張って覚えた字でここに書いておきます。
必死に勉強したのに忘れたらなんか悔しいよね。
私は、聖女であることに特に誇りはないんだけど、祈りをささげることは嫌いじゃないの。
名も知らない誰かを助けるのは、結構好きな方。
あなたの騎士のこと、覚えていなくてもいい。
でも、もし目を覚ましたとき、何も覚えていなくて、その人が視界に入っていたなら。
どうか、誰よりも信じて。
逃げ道のないあなたの味方はニナとその彼だけだった。
私は彼の手を取れなかった。
聖女でいれば、何も失わなくて済むと思っていたから。
でも、本当は違う。
リアムの手を取ってしまったら、もう誰かのために祈れなくなる気がした。
それが、いちばん重かった。
聖女としての誇りはないって言ったけど、祈りへの誇りはある。
でも、何も覚えていないあなたなら、きっと取れる。
迷わず、その手を。
すべての記憶をなくせば、聖なる力は使えなくなる。
それは、分かっています。
それでいい。
そうしなければ、あなたは一生、祈りの檻から出られない。
私の義務は、そこで終わり。
誰かを助ける役目も、奇跡を捧げ続ける人生も、あなたには必要ない。
いままでいろんな人の為に祈って生きたけれど、
この手紙を書く間だけは、私の為だけに祈りをささげる。
誰の助けにもならない楽しい人生を。
今度こそ、誰の為でもなく、
あなたが幸せになりますように。
敬具
エリスより




