Summer Time
最悪すぎる合宿の幕開け。
夏休みが始まり、本格的にコンクールの練習に熱が入る。
初めて参加する合宿。学校から宿舎へ向かう前に、大型楽器の搬出を手伝うことになっていた。トラックが校門前に停まり、次々と楽器が運び出されていく。フルートは小型だ。ケースを肩にかければ、それで終わり。問題はそれ以外。
チューバ。コントラバス。パーカッション。
でかい。重い。数が多い。
「あっちぃな〜……」
思わず声が出る。正直、めんどくさい。自分の楽器は自分で運べばよくないか。落としたら怖いし、責任も取りたくない。文句を言いながらも、一応手は動かす。でも、心は完全に不満モードだ。そんな中。川瀬は、何も言わずに動いていた。大きなケースを、二人がかりで運ぶ場面でも、
「持ちます」
短く言って自然に手を伸ばす。……え。よく見ると、川瀬の体格は細い。身長は俺と同じくらいなのに、肩幅が狭くて、首筋もすっとしてる。少し撫で肩だから、余計に華奢に見える。なのに。かなり重いはずの荷物を、黙々と運んでいく。顔色も特に変わらない。
「……すげえな」
思わず、小さく呟く。どこにそんな力があるんだ。見た目だけじゃ、全然分からない。
「重くない?」
聞くと、
「大丈夫」
それだけ。息も乱れていない。……ほんとに?汗をかいているのはむしろ俺の方だ。Tシャツが張りつく。川瀬は、前髪を軽く払うだけ。なんとなく、目がいってしまう。細い首。浮いた鎖骨。
——いや、違う。
「……」
頭を振る。余計なこと考えてる場合じゃない。でも。見た目と中身が、こんなに違う人だったっけ。文句ひとつ言わず、黙々とやる。誰かに見せるためでもなく。トラックに最後の荷物が積まれる。
「搬出お疲れさまでしたー!」
誰かが声を上げる。川瀬は、軽く一礼して水を飲みに行った。……すごいな。自分の中で川瀬の印象が、また少し変わった気がした。静かで、細くて、でも、思ってるよりずっと強い。
合宿は、今始まったばかりだ。この四泊五日で、あと何回驚かされるんだろう。
バスに揺られ、宿舎に着いた。今度は搬入を手伝う。
ガラガラ、——ガッシャン!廊下にありえない音が響いた。
「おい!大丈夫か!?」
他パートの先輩が一斉に振り向いて駆け寄ってくる。
——終わった。
足元を見ると、マリンバの鍵盤。解体されて、毛布に包まれていたはずの上段が床に落ちている。
「す、すみません……」
声が、情けないほど小さい。一人で運ぼうとした。それだけだ。それだけ、なのに。
「ちょっと!!」
パーカッションの先輩が血相を変える。
「それ、二人で運ぶって言ったよね!?」……え。
「鍵盤一本、数万するんだけど!!」
頭が真っ白になる。聞いてない。本当に聞いてない。
「すみません……ほんとに……」
とりあえず、謝るしかなかった。目がじわっと熱くなる。俺って、ほんとにダメだ。余計なことして。空回りして。迷惑かけて。そのとき。視界の端に、人影が見えた。……川瀬。少し離れたところで、こっちを見ている。最悪。胸の奥が、一気にぎゅっと縮む。見られた。失敗したところ。恥ずかしくて、顔が熱い。俺はただ手伝いたかっただけだ。川瀬みたいに、黙々と動ける人間じゃないけど。せめて同じ場所に立ちたかった。
「大丈夫か?」
誰かが声をかけてくる。
「怪我は?」
「……大丈夫です」
全然、大丈夫じゃない。鍵盤を拾い直す手が少し震える。川瀬は何も言わない。近づいても来ない。ただ、見ているだけ。それが余計にきつかった。俺は、かっこよくもないし、要領もよくない。それでも。あいつの視界に少しでもちゃんと映りたかった。その気持ちだけがはっきり残った。
トラックへの搬出は、正直、特別なことだとは思っていなかった。重い楽器があるなら、人手が必要なのは当たり前だし。手が空いているなら、運ぶ。それだけ。
「持ちます」
そう言ってケースに手をかける。確かに重い。でも、持てないほどじゃない。中学の頃からこういうのは普通だった。部活でも、家でも。誰かがやらなきゃいけないことは、やる。それを「大変」と思う前に、身体が動く。
水分補給のために立ち止まったとき、ふと視線を感じた。橋本だ。……見てる?理由は、分からない。
「重くない?」
そう聞かれて少しだけ考える。重いか、重くないか。答えはどちらでもいい。
「大丈夫」
そう言うと、橋本は一瞬、納得いかなそうな顔をした。何がそんなに不思議なんだろう。俺と橋本は身長が同じくらい。でも、体格は確かに違う。自分の肩は、撫でているし、首も細い。鏡を見るたび、そう思う。でも。走るのも、何か運ぶのを手伝うのも、昔から嫌いじゃなかった。体力がある、という自覚もある。
「すごいな」
小さく聞こえた声。……すごい?一瞬、足が止まりそうになる。でも、意味が分からなくて、そのまま歩き続けた。すごいの基準がよく分からない。やらなきゃいけないことをやってるだけだ。誰かに見せるためでもない。褒められるためでもない。トラックに積み終わって、水を飲む。喉が渇いている。夏だから、それだけのこと。タオルで首元を拭う。汗をかくのも、別に嫌じゃない。……当たり前だと思ってた。今まで、誰にも言われなかったこと。でも。橋本の視線が、さっきより少しだけ気になった。
「変なの」
小さく呟く。自分にとってはずっと当たり前だったことが、誰かの目には違って見えることもあるらしい。それが、悪い気はしなかった。理由はまだ分からないけど。
搬入中、宿舎の廊下で大きな音がした。硬い木材がぶつかる、嫌な響き。反射的にそっちを見る。廊下の真ん中で、橋本が立ち尽くしていた。足元には毛布に包まれたマリンバの鍵盤。先輩たちが駆け寄る。声が重なる。
「大丈夫か」
「それ一人で持つなって言っただろ」
橋本は、何度も頭を下げていた。
「すみません」
その声が少し震えている。……あ。胸の奥が、きゅっと縮んだ。助けに行こうか、一瞬、迷った。近づいて一緒に持てばいい。それだけなのに。でも、足が動かなかった。今ここで出ていったら余計に目立つ。橋本の失敗を、広げる気がした。
だから、遠くから見ているしかなかった。橋本が、顔を上げる。視線が一瞬だけ合う。……見られた。恥ずかしそうに、すぐに目を逸らす。その仕草が胸に残る。自分は、ああいう失敗はしない。無理なことは最初からしない。だから、叱られることも少ない。でも。それが、正しいとは限らない。橋本は空回りしているだけだ。ちゃんと、やろうとして。
「……」
何も言えないまま、視線を落とす。しばらくして、騒ぎは収まった。鍵盤は無事だったらしい。橋本は、少し遅れてその場を離れる。肩が少し落ちている。追いかけようか、と思った。「大丈夫?」って、聞くだけでも。
でも。結局、声はかけられなかった。自分は、黙って手伝うことはできる。重いものも持てる。でも。人の失敗に、どう寄り添えばいいのかは、まだ分からない。それが、少し悔しかった。
合宿が始まる。音楽も、練習も、止まらない。それでも。あのときの橋本の背中が、頭から離れなかった。
搬入のあと。なんとか場は収まった。鍵盤も無事。大きな破損はなし。
「次から気をつけろよー」
軽い調子で言われて、それで終わった。終わった、はず。
「橋本、大丈夫だった?」
畠山が水を渡してくる。
「余裕余裕」
笑って返す。声は、思ったより普通に出た。
「お前、顔赤くない?」西野が言う。
「暑いだけだって」
即答。笑ってる。ちゃんと。いつも通りの、ちょっと雑で、ちょっと軽い橋本陽翔。
でも。胸の奥だけ、まだざわざわしてる。視線を感じる。……川瀬。さっきの場所から、少し離れたところに立っている。こっちを見て、すぐ逸らす。やめろ。その顔、一番きつい。俺は、平気だ。怒られたって、笑い話にできる。失敗なんていくらでもしてきた。なのに。川瀬に見られた失敗は、妙に刺さる。
「いやー、俺ほんと力ないわ」
わざとらしく言う。
「向いてないな、パーカッション転向は」
周りが笑う。軽い空気。それでいい。
「橋本」
川瀬だ。
「怪我してない?」
それだけ。一瞬、言葉に詰まる。
「してねーよ」
少し強めに返す。強く言いすぎたかも、と思うくらい。川瀬はそれ以上何も言わない。
「そっか」
小さく頷くだけ。その顔が、余計に優しい。やめてくれ。そういうの。俺は、気にしてない。
ほんとに。大したことない。でも。本当は、あの瞬間地面に消えたかった。
川瀬みたいに、静かに正しく動けない自分が。
ただ目立って、失敗して、空回りするだけの自分が。
「次はちゃんと話聞いとけよー」
誰かが背中を叩く。
「はいはい」
笑う。川瀬の横を通り過ぎるとき。ほんの少しだけ、足を止める。
「……別に俺、平気だから」
小声。誰にも聞こえないくらい。川瀬は、少しだけ目を見開いて。
「うん」
それだけ言った。その「うん」が、やけに優しかった。気にしてないフリは、たぶん成功してる。みんなの前では。
でも。あいつの前では、たぶん全部バレてる。それが一番悔しかった。




