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川瀬への気持ちも、お互いの環境の違いも、

次第にくっきりと際立ってきた。

彼女との夕飯後、家に着いて靴を脱いだところで、スマホが震えた。反射的に画面を見る。

——川瀬。

一瞬、心臓が跳ねる。

『今日はありがとう。一緒に帰れてよかった』

それだけ。彼女からのメッセージと同じく、スタンプも、絵文字も、一切なし。

……それなのに。胸の奥が、さっきよりずっとあったかい。

ベッドに腰を下ろして、スマホを握ったまま動けなくなる。今日一日を、頭の中でなぞる。彼女との気まずい沈黙。続かない会話。恋人同士と思えない、どこか他人行儀な空気。恋人と一緒にいたはずなのに、俺の心はずっと別の場所にあった。川瀬からのたった一行。

「一緒に帰れてよかった」

それだけで、全部持っていかれる。

『俺も。川瀬と話せて、ちょっと楽になった』

送信。すぐに既読がつく。少し間があって、返信。

『それなら、よかった』

短い。でも、適当じゃない。画面を見つめながら、ふっと息を吐く。今日一日で、何回「川瀬」の名前を頭の中で呼んだだろう。彼女からの誕生日プレゼントは、なかった。でも。今日一番、嬉しかったのは。この連絡が来たこと。それを、自分がはっきり自覚してしまったこと。

「……もう、無理だな」

小さく呟く。誰に聞かせるでもなく。彼女と一緒にいた直後に、別の人のメッセージで救われてる。それって。もう答え、出てるだろ。スマホを置いて、天井を見る。不思議と、罪悪感よりも先に来たのは静かな納得だった。

川瀬は何もしていない。特別なことも、言っていない。ただ、いつも通りだった。それなのに。今の自分が一番欲しかった場所に、自然にいた。明日、顔を合わせたら普通に話すだろう。うるさくもするし、冗談も言う。でも。今日みたいな夜が、一度でもあったら。もう、戻れない。



家に帰ってカバンを床に置いた。制服のまま、少しだけ立ち尽くす。

——静か。

さっきまで、橋本と一緒に歩いていたのが嘘みたいだ。机に座って、スマホを手に取る。画面は暗い。通知は、特にない。

今日の帰り道。橋本は、いつもより少し静かだった無理に笑っている感じでもなく、機嫌が悪いわけでもない。ただ、どこか遠かった。駅で別れるとき。

「また明日」

そう言った声が、ほんの少しだけ疲れて聞こえた。……何かあったんだろうな。理由は、分からない。聞こうとも思わなかった。でも。そのままにするのも、違う気がした。スマホを開く。トーク画面。指が止まる。何を書けばいいのか、分からない。

「今日はありがとう」

それだけじゃ、足りない気がする。

「一緒に帰れてよかった」

それだけだと、重い気がする。少し考えてから、文字を打つ。

『今日はありがとう。一緒に帰れてよかった』

読み返す。……変じゃない。余計なことは、何も書いていない。感情も盛っていない。事実だけ。送信。少しして、既読がつく。思ったより早い。

『俺も。川瀬と話せてちょっと楽になった』

その一文を読んだ瞬間、胸の奥がきゅっと縮んだ。……楽になった。それって。ベッドに腰を下ろして、スマホを握る。どう返すか少し迷う。

『それなら、よかった』

結局、それだけ送った。

もっと何か書けた気もする。「無理しないで」とか。「大丈夫?」とか。でも。それを送ったら一線を越える気がした。

橋本には、彼女がいる。その事実はちゃんと知っている。知らないふりはできない。それなのに。自分の送った一文で、あの人が少しでも楽になったなら。

——それで、よかったと思ってしまった。

スマホを伏せて深く息を吐く。胸の奥に残る小さな熱。自分は、積極的なことはしていない。誘ってもいないし特別な言葉も使っていない。ただ、事実を送っただけ。でも。

「一緒に帰れてよかった」

その言葉を誰に送ったか。それだけで十分だった。橋本の一日が、少しでも軽くなっていたら。それを嬉しいと思ってしまった自分がいる。それに気づいて、少しだけ目を閉じる。

まだ、恋だとは言えない。言わない。でも。この距離を、失くしたくないとは思ってしまった。それだけははっきりしていた。



——あぁ、居場所がないってこういうことか。

オーディション後A編成の初合奏。視聴覚室に入った瞬間、空気が違うって分かった。静かで、張りつめている。上級生が多い。楽器の構え方も、音出しのタイミングも無駄がない。

——やっぱり場違いかも。

そんな考えが、一瞬で頭をよぎる。今年の課題曲は行進曲 《クローバー・フィールド》。これは、好きだ。マーチはテンポがはっきりしていて、流れに乗れる。音も、自分の中ではそこまで悪くない。

——よし。

少しだけ、肩の力が抜ける。でも。問題は自由曲だ。ミュージカル組曲《地下劇場の幻影》。冒頭おかしょー先輩のソロからはじまり、中盤で有名なフレーズが鳴った瞬間、鳥肌が立った。

——かっこよすぎる。

劇場の奥から、何かが迫ってくるみたいな音。フルートも、ただ綺麗に吹くだけじゃない。途中で、今まであまり使ったことのない奏法が出てくる。息の使い方も、指の動きも全然違う。……これ無理じゃね?向かい側の席を見ると、かおりんがピッコロを構えている。小柄で、ころっとしてて、ほんとによく似合う。しかも。

——普通に吹けてる。

初見に近いはずなのに、音が迷ってない。すごすぎる。同じ1年とは思えない。俺は、フルート2nd。隣は3年の柳結衣(やなぎゆい)先輩。柳先輩は人見知りなんだろう。正直、まだあんまり話したことがない。でも雰囲気が柔らかくて、ちょっと安心する。……いや、安心してる場合じゃないけど。

合奏が進む。マーチはなんとかついていける。でも自由曲に入った瞬間、指が追いつかない。息も足りない。音が、置いていかれる。

——やばい。

——俺だけ、完全に浮いてる。

そんなとき。

「……緊張してる?」

柳先輩が、小さな声で聞いてきた。

「すみません……全然、まだ吹けなくて」

情けない。A編に入れてもらったのに。

「大丈夫」

柳先輩はすぐに言った。

「これ、最初から吹ける人の方が少ないよ」

「これから、一緒に練習しよう」

……天使か?

胸の奥が少しだけ軽くなる。完全に居場所がないわけじゃない。少なくとも、隣には誰かいる。

合奏が終わる。疲れた。正直、達成感はほとんどない。悔しさと焦りばっかり。でも。この編成でやるって、決まったんだ。逃げられない。逃げたくない。楽器を片付けながら思う。

——川瀬、今どんな音出してるんだろ。

C編成の音はここまで届かない。選ばれた場所は、まだ自分の居場所じゃない。でも。ここで踏ん張らないと、一生追いつけない気がした。

合奏が終わって、簡単なミーティングが始まった。今日の反省、連絡事項。内容は普通なのに頭に全然入ってこない。

「……じゃあ今日はここまで」

佐々木先生の一言で、ようやく息ができた気がした。帰る準備をしていると後ろから声をかけられる。

「橋本くん?」

振り返ると、A編成の先輩だった。金管の先輩?顔と名前がまだ一致しない。

「一年でA編、すごいね!」

にこっと笑われる。社交辞令なのは分かる。悪意がないのも分かる。でも。

「……いや、まだ全然吹けてないので」

思ったより、素直な言葉が出た。先輩は一瞬だけ、きょとんとした顔をして、

「あ、そう?でも選ばれたってことだからさ」

そう言って軽く肩を叩いて去っていった。

——選ばれた。

その言葉が、妙に重い。廊下に出ると、まだA編成の誰かが音出しをしている。ロングトーン。完璧に揃った和音。……うまい。当たり前だけど。自分の音を思い出す。指がもつれたところ。息が足りなかったフレーズ。あの有名な旋律に、全然追いつけなかった感覚。

「……」

リュックサックを握る手に、力が入る。

駅までの道。いつもは、川瀬と並んで歩く二十分。今日は一人だ。頭の中で、さっきの音が何度も再生される。A編成の音。厚くて、迷いがなくて一切の隙がない。

——この中に、俺がいる?

想像すると、胸がぎゅっと縮む。すごいね。一年でA編。その言葉が今は呪いみたいだった。

「……すごくない」

小さく、独り言をこぼす。駅のホームでベンチに座る。人の流れをぼんやり眺めながら、スマホを取り出す。川瀬に、連絡しようか迷って。

やめた。今のこの感じを、言葉にできる気がしない。

電車が来る。ドアが閉まる。自由曲のミュージカルの広告ポスターがドアの向こう側にみえてより憂鬱になる。選ばれた場所が重すぎる。誇れるほどまだ何もできていない。それでも。逃げる場所は、もうない。



C編成の初合奏は音楽室だった。いつもより人が少ないぶん、空気がやわらかい。最初に鳴ったのは、オーシャンドラム。

——波だ。

『蒼の海辺で』。この曲を初めて聴いたとき、胸の奥がすっと静かになったのを覚えている。派手じゃない。でも、情景がはっきり浮かぶ。洸太先輩のフルートのソロが入る。寄せては返す、波みたいなフレーズ。きらきらと光が反射する海面が、自然と頭に浮かぶ。

——ああ。

この曲なら、ちゃんと息ができる。隣で吹いている先輩の音は、丸くて、あたたかい。後ろのパートから聞こえてくるハーモニーも、押しつけがましくない。音と音の間に、ちゃんと余白がある。先生が、静かに手を動かす。

「急がなくていい」

「波を感じて」

そんな言葉が、そのまま音になる。中盤。少しずつ音が重なっていく。大きくしようとしなくても、自然と厚みが出る。終盤。一気に音が広がる。大きな波が、岸に打ち寄せるみたいに。心がゆっくり揺れた。

——好きだ。

素直に、そう思った。

合奏が終わる。音が消えても、余韻が残る。誰かがすぐに喋り出さない。その沈黙すら、心地いい。楽器を下ろして息を整える。胸の奥が、静かだ。不安も焦りもない。ふと、視聴覚室から漏れてきた別の音を思い出す。A編成の張りつめた響き。隙がなくて、少しだけ息苦しい音。橋本は、今あの中にいる。そう思った瞬間胸の奥が、きゅっとなる。

「……大丈夫かな」

誰にも聞こえない声。自分は、ここにいて安心している。それが少しだけ申し訳なくも感じた。でも。ここは、自分の場所だ。無理をしなくていい。自分の中でも、編成としてもまだ課題は多いが、心地よい空間。ケースを閉じながら思う。その帰り道。波の音が、まだ耳の奥に残っていた。

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