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跳躍

次への距離が遠すぎて、上がりきれない。

入部して、あっという間に一か月が経った。

一年生だけで出る地域の本番も、特に大きなハプニングはなく終わった。フルートパートは全員経験者だし、正直、出来はかなり良かったと思う。その一方で、クラリネットの一年生は大変そうだった。元々ほかのパート志望だった人が集まったらしく、ほぼ初心者。毎日、必死に基礎をやっている姿を見かける。

いよいよ、八月の夏の吹奏楽コンクールに向けた準備が始まった。……というか、曲目は俺たちが入学する前からとっくに決まっていたらしい。

「やっぱ強い高校は動くの早いよな〜」

百二十人を超えるこの吹奏楽部では、夏は四つの編成に分かれる。


A編成。上級生が多く、都大会に進む可能性がある大編成。顧問の佐々木先生が指揮をする。


B編成。上級生と下級生ミックスの中編成。外部講師の作曲家の先生が指揮。


C編成。下級生多めの小編成。音大卒で現役奏者のOBが指揮をする。


D編成。春から始めた初心者の一年生のみ。コンクールには出られない。


どの編成が偉い、というわけじゃない。でも、都大会のチャンスがあるA編成を目指す人が多いのは事実だ。俺としては、とりあえずどこかの編成でコンクールに出られれば十分。無理に欲張るつもりはなかった。フルートパートは比較的平和だけど、他のパートではオーディション前からピリピリしているらしい。同じクラスのトランペットのやつが言っていた。


休み時間、畠山と並んで話す。

「同じ編成になるかな」

「オーディション、普通に緊張するよな」

そんな他愛ない会話。


そして、オーディション当日。

視聴覚室には、佐々木先生と数名の外部講師の先生が長机に並んで座っていた。指定された音階と、課題曲の一部を一人で演奏する形式だ。スコアのパート順で呼ばれるため、フルートはまさかのトップバッター。しかもパート内で学年順、さらに名前順。

「フルート最初なの、ほんと無理」

「いや、さっさと終わらせてお菓子食おうぜ」

「視聴覚室、音響かないのが一番きついんだよな」

文句を言いながら、各自基礎練を始める。川瀬は、いつも通りだった。目を閉じて、自分の音だけに集中している。……緊張してないのか?

俺はというと、課題曲の連符が苦手すぎて、そこばかり繰り返していた。やばい。間違えそーーー。

「9時だから行ってくるわ!」

3年の岡翔真(おかしょー)先輩は、緊張した様子もなく教室を出ていく。逃げたい。三年、二年と順に戻ってくる。

「B durのスケールと、課題曲12小節目からだった」

「終わった〜!」

洸太先輩は相変わらずうるさい。一方、井原(いはら)先輩は今にも泣きそうで、こっちが心配になる。……いや、人のこと考えてる余裕ない。

一年生が呼ばれた。順番は、

加藤 → 川瀬 → 西野 → 俺 → 畠山 → 藤田。

「よしっ、行ってくる!」

かおりんが、緊張しながらも楽しそうに向かっていく。

「川瀬、緊張してる?」

「……わかんない」

淡々とした返事。西野が戻り、いよいよ俺の番。視聴覚室のドアを開けた瞬間、空気が一気に重くなる。

「一年フルート、橋本陽翔です!」

……沈黙。

「……?」

「座っていいよ」

「あ、はい」

緊張しすぎて、座るの忘れてた。

「B dur」

「はい」

音階は問題なし。

「課題曲、12小節目から24小節目まで」

「はい」

苦手な連符も、なんとかセーフ。

「ありがとうございました」

——終わった。解放感が一気に押し寄せる。これ、来年も再来年もやるのか……嫌だな。緊張の面持ちのクラリネットの人たちとすれ違いながら教室に戻ると、フルートパートはすでにリラックスムードだった。

「橋本、どうだった?」

スナック菓子を頬張りながらかおりんが聞いてくる。

「名前言ったあと、座るの忘れて棒立ちしてたら、ちょっと笑われた」

「やばすぎ」

西野の容赦ないツッコミ。あとは、午後の結果を待つだけ。

——コンクール、出られるといいな。


全てのパートの審査が終わったころ、外はすっかり日が沈みかけていた。音楽室に部員全員が集められる。空気が、重い。佐々木先生が前に立ち、淡々と結果を読み上げ始めた。

「A編成。フルート、3年 岡、柳。2年 角野。1年……加藤、橋本」


「……え?」


一瞬、理解が追いつかなかった。

「陽翔、すごいじゃん」

隣から洸太先輩に小突かれて、ようやく気づく。

——今、俺の名前、呼ばれた?

正直、自分がA編成に入るなんて、ほとんど想像していなかった。胸の奥が、ざわざわする。名前は、どんどん続く。

「続いて、B編成。フルート、2年 井原。1年 西野、畠山、藤田……」

井原先輩は、また目に涙を浮かべている。音楽室の中に、鼻をすする音や、小さな驚きの声が広がっていく。畠山とは、違う編成になった。藤田は強豪校出身だし、A編を狙ってたよな。

——まだ、洸太先輩と川瀬の名前は呼ばれていない。

「続いて、C編成。フルート、3年 堀部。2年 関。1年……川瀬」

すべての編成が、出揃った。フルートパートは比較的静かだったけど、他のパートでは、立っていられないほど泣いている上級生もいた。

——これが、オーディション。

A編成か。とりあえず、母さんにLINEだけ送っておく。

『オーディション結果出た。A編成だった。上級生多い編成。どうしよう。』

すぐに既読。

『すごいじゃない!大変だろうけど頑張ってね。洸太先輩は?』

『洸太先輩はC編成。』

『そうなのね。あまりはしゃぎすぎないようにね。』

……わかってる。洸太先輩は、たぶん気にしないタイプだと思う。たぶん。

「橋本!」

おかしょー先輩と、柳先輩に声をかけられる。

「よろしくね!」

「……はい。よろしくお願いします」

正直、この中でやっていける気がしない。でも、やるしかない。同級生と編成の話をするのも、なんとなく気が引けて、そのまま帰ろうとしたとき。

「橋本」

声をかけられる。振り返ると、川瀬が立っていた。

「一緒に帰ろ」

駅までの、二十分。並んで歩く。

「川瀬、洸太先輩と同じ編成だろ。絶対楽しいよ。いいな」

「うん。洸太先輩、面白いし。安心した」

少しだけ、表情が緩んでいる。

「C編の曲、なんだっけ」

「『蒼の海辺で(あおのうみべで)』この曲、好きなんだよね。だから、嬉しい」

「……そっか」

自分の編成の話は、結局しなかった。しなくてよかったのか、しない方がよかったのか。それは、分からない。

別れ際。

「じゃあ、また明日」

「うん」

いつも通りのやり取り。でも。同じフルートで、同じ一年生で、同じ場所に立っていたはずなのに。この日から、少しだけ、違う場所に立つことになった。それだけは、はっきり分かっていた。



音楽室に全員が集められた。

ざわざわしているのに、空気は重い。

こういう時間は何度経験しても慣れない。

「A編成」

佐々木先生の声が思ったよりはっきり響いた。フルートの名前が、上から順に呼ばれていく。岡先輩。柳先輩。角野先輩。

——ここまでは、想定内。

「……1年、加藤。橋本」

その名前が出た瞬間、胸の奥が、ほんの少し跳ねた。驚いた。でも、納得もした。橋本は、本番に強いタイプだ。要領がいい、というより、場に順応する。

「すごいな」

そう思ったのは、本心だった。羨ましい、という感情は、そのときはなかった。

続いて、B編成の発表。西野。畠山。藤田。

同級生の名前が、次々と呼ばれていく。

——まだ、自分の名前はない。

「C編成」

ここで呼ばれるだろう、という予感はあった。

「……1年、川瀬」やっぱり、と思った。不思議と落ち着いていた。頭の中で、すぐに曲名が浮かぶ。

『蒼の海辺で』

あの旋律。静かで、呼吸を大事にする曲。自分には、合っていると思った。でも。その瞬間に、別のことも同時に浮かんだ。

——橋本と、同じ編成じゃない。

それに気づいた途端、胸の奥が、少しだけ沈む。理由はすぐには分からなかった。隣を見ると、橋本は前を向いている。表情は読み取れない。嬉しいのか、不安なのか。

「……」

声をかけようか、迷った。でも、今じゃない気がした。

結果発表が終わる。他のパートでは、泣いている人もいる。自分は泣かなかった。泣くような結果じゃない。それでも。「同じフルート」というだけで、ずっと一緒だと思っていたわけじゃない。でも、同じ場所で吹く未来を、どこかで当たり前に想像していた。

音楽室を出るとき、橋本が帰ろうとしているのが見えた。反射的に声をかける。

「一緒に帰ろ」

駅までの道。

「C編、洸太先輩と一緒で安心した」

そう言ったのは、嘘じゃない。

「この曲、好きなんだ」

それも、本当だ。ただ。橋本の編成の話を、聞かなかった。聞けなかった。それは、気を遣ったからでも、遠慮したからでもない。ただ。その話を聞いたら、自分の中で何かが、はっきりしてしまう気がした。

別れ際。

「また明日」

そう言いながら、少しだけ距離を感じた。同じ一年生で、同じフルートで、同じ部活。それは変わらない。

でも。同じ時間を吹くわけじゃなくなった。その事実を、このとき初めて、ちゃんと意識してしまった。そして、自分でも少し意外だった。その違和感が、思ったより長く、胸に残っていることに。



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