poco a poco
少しずつ、だんだんと。
雨の音は、さっきより少しだけ弱くなっていた。みんなと別れて、一人で歩く帰り道。傘に当たる雨粒の間隔が、なぜか気になって仕方ない。
——さっきのことが、頭から離れなかった。
橋本の頬に、毛虫がついていた。思い出すだけでまた笑いそうになる。
……いや、違う。
可笑しかったのは毛虫だけじゃない。振り返った瞬間の橋本の顔。何が起きてるのか分からなくて、完全に無防備で。それを見た瞬間、考えるより先に息が漏れた。笑うつもりなんてなかった。
「……思い切り笑った顔、初めて見た」
橋本がそう言ったとき、胸の奥が、少しだけ詰まった。自分では、そんな顔をした自覚がなかったから。人前で笑うことはある。でもそれは、声を抑えて、場に合わせて、ちゃんとした“形”のやつだ。さっきみたいなのは、違う。抑えてない。整えてない。ただ、出た。どうして、あんなふうに笑ったんだろう。毛虫が面白かった?……まあ、それもある。でも、それだけなら、きっとあんな声は出なかった。橋本が、あまりにも必死だったから。ぎゃーぎゃー騒いで、周りの目も気にせず、本気で困っている顔。あれは。誰かに見せるための顔じゃない。あの顔を見て、可笑しくなった。それに気づいた瞬間、少しだけ怖くなった。
橋本の前だと、自分は変になる。
家が見えてきて、傘を畳む。玄関の前で少しだけ立ち止まった。もし、他の誰かだったら。あんなふうに笑っただろうか。……たぶん、ない。
「……なんでだろ」
小さく呟いて、ドアノブを回す。答えはまだ出ない。
でも。橋本の前でだけ、自分の感情が勝手に外に出る。それは、良くないことなのか。それとも。靴を脱ぎながら、さっきの光景をもう一度思い出す。雨。騒ぎ声。毛虫。そして、橋本のあの表情。……また、少し笑いそうになる。慌てて、口元を押さえた。こんな顔。こんな声。見せる相手を、もう選んでしまっている気がする。それが、少しだけ恥ずかしくて。少しだけ、安心だった。
翌日。雨は上がっていたけど、校舎の裏の木はまだ濡れていて、風が吹くたびに葉が揺れていた。昨日のことは、もう終わった出来事のはずなのに。俺の頭の中では、何度も再生されている。
——川瀬の、笑った顔。
「なぁ陽翔、聞いてんの?」
洸太先輩の声に、はっとして顔を上げる。
「あ、はい」
「はい、じゃねぇよ。俺のクリーニングペーパーどこに行ったかしらない?」
「そのへん?」
「なんだよその雑な返事!」
笑いが起きる。いつもなら、瞬時に適当に返すのに、今日は少し遅れた。理由は分かってる。昨日の、川瀬だ。毛虫を見つけた瞬間の、あの顔。声を抑えないで、肩を揺らして、完全に気を抜いて笑っていた。あんな表情、俺は知らなかった。
練習の合間、川瀬は譜面を見ている。いつも通りの横顔。真面目で、静かで、隙がない。
——昨日のあれ、どこ行った。
少しだけ、もったいないと思ってしまう。
「……なあ」
声をかける。川瀬が顔を上げる。
「なに」
いつもと同じ返事。それなのに、胸の奥が少し騒ぐ。
「昨日さ」
言いかけて、一瞬止まる。毛虫の話をしたら、また笑うかもしれない。
……いや。それは、違う。
「……なんでもない」
結局、そう言った。川瀬は首を傾げたけど深くは聞かない。そういうところも、変わらない。フルートを構えて音を出す。川瀬の音は、今日も綺麗だ。正確で、落ち着いていて、隙がない。でも。昨日の笑い顔はこの音には入っていない。それが、なぜか寂しい。
休憩時間。
畠山が「昨日の雨すごかったね」と話題を振る。
「橋本、毛虫事件どうなったの?」
からかわれて、笑いが起きる。
「やめろ」
軽く返しながら、横目で川瀬を見る。川瀬は、少し困った顔をして視線を逸らした。……あ。昨日のこと、思い出してる。その瞬間。胸の奥で、はっきりした感情が動いた。また、見たい。毛虫じゃなくていい。
雨じゃなくていい。理由なんて、どうでもいい。川瀬が、あんなふうに笑うところを。それに気づいて少しだけ怖くなる。独占したい、とかじゃない。奪いたい、でもない。ただ。自分が原因であの顔が出てくるなら。
部活の後。一緒に廊下を歩きながら何気なく言ってみる。
「なあ、川瀬」
「なに」
「昨日さ……」
一瞬、間を置く。
「……ちょっとだけ、面白かった」
川瀬が少しだけ目を見開く。
「……なにが」
「全部」
誤魔化すみたいに笑う。
「……もう一回あれ起きたら、笑わないから」
吹き出しそうになりながら真面目に言う。それが逆に可笑しくて。
「それ、無理だろ。てか、もう毛虫顔につくとか無理。昨日も家帰ってソッコー顔洗いまくったわ」
思わず口元が緩む。川瀬は、少しだけ眉を寄せて。
「……橋本、変なとこでしつこい」
でも、その声は柔らかかった。ああ。今のは、昨日ほどじゃないけど。でも確かに川瀬は少しだけ笑っていた。その瞬間、はっきり思う。また見たい。大声じゃなくていい。人前じゃなくてもいい。でも。
——できれば、俺の前で。
休み時間の教室はいつも通りうるさい。E組の教室を覗いてみると誰かが机を叩いて笑って、誰かが下品な話題を振っている。正直、聞き流すことの方が多い。でも、川瀬が近くにいると思うと耳に入ってしまう。
「でさー、あれはマジでやばかった」
笑い声。内容は、わざわざ細かく聞くほどでもない。ありがちな、同級生の自慢話だ。川瀬は、昼も部活の練習に参加するため黙って早弁している。箸を動かす手は止まらない。でも、少しだけ耳が赤い。
——はにかむ、ってこういうやつか。
「川瀬、こういう話苦手?」
誰かが聞く。川瀬は、一瞬考えてから。
「……嫌いではないけど」
歯切れの悪い答え。
「慣れてないだけ」
それだけ言って視線を落とした。胸の奥が、変な音を立てる。慣れてない。それは、無関心とは違う。
放課後。音楽室へ向かう途中、並んで歩きながら、ふと思ってしまった。川瀬は、どこまで知らないんだろう。どこまで、考えたことがないんだろう。男子高校生なんだから全く考えないってことはないはずだが。
——もし。いや。
「……なあ」
気づいたら、口が動いていた。
「前に言ってたじゃん」
「なにを」
「中学のとき、彼女いたって」
川瀬が、一瞬だけ立ち止まる。
「……そんな話したっけ」
「うん」
正確には、E組の奴らから聞いただけだ。
「今は?」
「今は、いない」
それだけ。その沈黙が、変に落ち着かなくて。俺は余計なことを言った。
「俺さ」
軽いトーンを装って。
「今、付き合ってる人いて」
川瀬が、こちらを見る。
「……そうなんだ」
「まあ、普通に仲いいよ」
“普通”の中身をわざとぼかして。でも。
「どんな?」
聞かれたわけじゃないのに、俺は続けた。
「……まあ、高校生にもなったからいろいろ、そういうこともするし」
少しだけ、盛って。いや、ちょっと盛りすぎたか。反応を見たかった。川瀬は、すぐには返事をしなかった。歩きながら前を見る。そして。
「……橋本」
声が、少し低い。
「それ、俺に言う必要ある?」
足が止まる。言葉が一気に詰まる。
「……ごめん」
即座に言った。言い訳が、何一つ浮かばない。川瀬は、少し考えてから。
「興味がないわけじゃない」
静かな声。
「でも、聞きたい相手は選ぶ」
その一言で、全部分かった。俺は選ばれてない。少なくとも、今のやり方では。
「……悪かった」
二度目の謝罪。川瀬はそれ以上責めない。
「別にいいよ」
それだけ言って歩き出す。音楽室に着いても、しばらく言葉はなかった。基礎練の音だけが、間に流れる。俺ははっきり自覚する。これは、嫉妬でも好奇心でもない。試したこと自体が間違いだった。川瀬は何も知らないわけじゃない。ただ、無闇に差し出さないだけだ。それを、勝手に揺さぶろうとした。
帰り道。
距離は朝より少し遠い。それが、答えだ。あのとき。笑わせたい、とか。触れたい、とか。そんな気持ちとは全然違う。これは踏み込み方を間違えた後悔。それをちゃんと覚えておく必要がある。
家に帰ると、台所から母の気配がした。
「おかえり」
「ただいま」
それだけの会話。いつも通りなのに、胸の奥だけが少し落ち着かなかった。部屋に入って、制服を脱ぐ。ベッドに腰掛けたまましばらく動けなかった。今日のことを、考えないようにしていたのに。
橋本の言葉。軽い声。冗談みたいな調子。でも、内容は軽くなかった。あのとき、自分はどういう顔をしていただろう。冷たかったか。拒絶しすぎたか。……分からない。ただ、あれ以上は聞きたくなかった。興味がないわけじゃない。それは本当だ。学校で聞く話だって、耳を塞いでいるわけじゃない。
ただ。自分の中に入れるかどうかは、選びたい。橋本が悪気なく言ったことも分かる。少し浮ついていただけだ。でも。あの話を聞いた瞬間、胸の奥がひやっとした。嫌悪じゃない。恐怖でもない。もっと、別の感覚。自分が、試されている気がした。それが嫌だった。橋本は距離が近い。触れてくるし、笑わせてくるし、なぜか俺を守るみたいな顔もする。それでも。踏み込むときは言葉を選ぶ人だと思っていた。だからこそ、今日の話は予想外だった。拒否したことを後悔しているか。少し考える。
……していない。自分は何も否定していない。橋本の過去も、感情も。ただ、今の自分には向いていない話だと伝えただけだ。それは逃げじゃない。
布団に腰を下ろして天井を見る。もし、あのまま笑って流していたら…橋本は満足したかもしれない。
でも、自分は。きっと、少しずつ、違う形で傷ついていた。
「……これでいい」
声に出して小さく言う。自分に言い聞かせるみたいに。橋本は、分かる人だ。今日の言葉もきっと受け止める。受け止めて、考える。そういう人だと知っている。
だから。拒否した自分を責める必要はない。
ただ一つ、胸に残るのは。あのあと、橋本が少しだけ距離を取ったこと。それが、寂しいと感じてしまった自分に、少しだけ驚いた。拒否したのに。距離が離れるのは、望んでいない。……勝手だな、と思う。
でも。触れられなくても、並んでいたい。その願いは間違っていないはずだ。
明日。また、音楽室で会う。フルートを吹いて、並んで立つ。それだけで十分だ。今は。
そう思いながら、明日の本番の譜面を確認する。指が自然と動いた。拒否は、終わりじゃない。続けるために必要だっただけ。
そう、ようやく納得できた。




