Sweet dreams
いつかまた、あの甘い声を聞かせて。
マーチングコンテストの結果は……銀賞。悔しいけど、観客の盛り上がりは贔屓目抜きで金賞校相当だったと思う。そして、俺たちには来年もある。来年こそ、川瀬と一緒にあのステージに立ってみたい。
ある日の部活終わり。学校の誰もいないロッカールームの角。川瀬の顔がすぐ近くにある。お互いの吐息が触れるほど、近い。
「……橋本」
小さく名前を呼ばれる。その声が、やけに甘い。川瀬は、いつもより少しだけ素直だ。とろんと潤んだ目でこっちを見ている。逃げない。それどころか、ほんの少しだけ顔を近づけてくる。
「……はると」
名前を呼ばれた瞬間、理性が飛ぶ。もう、我慢できない。
「……っ」
気づいたら、唇が触れていた。柔らかい。ほんの一瞬のはずなのに、やけに長く感じる。
これ以上はさすがにいけないと、離れようとしたその時、川瀬の手が、俺の制服の裾を軽く掴んだ。
「……ん」
小さく息が漏れる。そして。もう一度。啄むようなキスを繰り返す。
「……っ」
近い。近すぎる。こんな顔、こんな声、知らない。少しだけ息を乱して、目を細めて。
「……はると、もっとしたい…」
そんな声で呼ばれたら。もう無理だ。
「……だめ?」
——やばいって、そんな可愛い顔でおねだりされたら、俺……
リリリリリリリリ。
アラーム音。
「っ……は!?」
勢いよく起き上がる。息が荒い。……うわ。下着がとんでもないことになっている。
「……なんだ、夢かよ」
最悪。いや、最悪じゃない。むしろ、最高すぎた。
川瀬が、あんな顔して。あんな声で。
「……くそ」
枕に顔を埋める。思い出すだけで体温が上がる。もう一回。二度寝すれば続きが見られるかもしれない。そんな呑気なことを考える。でも今日は普通に学校だ。遅刻するわけにはいかない。早くこいつもどうにかしないと。
それより問題は――こんな夢見たあとに、どんな顔して川瀬に会えばいいんだよ。布団の中で、しばらく天井を見つめる。そして。
「あ」
いいこと思いついた。ちょっとだけ、悪い顔になる。
――放課後、部活終わり。二人きりの帰り道。
「なぁ、川瀬」
「なに」
いつも通りの、淡々とした返事。それだけで、昨日の夢がよみがえる。夢の中であんなに可愛い声出してたくせにな。平然としてやがる。
「昨日さ、夢見たんだけど」
「……そうなんだ」
興味なさそうな声。でも、ほんの少しだけ視線がこっちを向く。
「川瀬出てきた」
「……は?」
一瞬、足が止まる。面白い。
「どんな夢だと思う?」
「知らない。どうせくだらないだろ」
「いやいや、全然くだらなくないから」
「で?どんな夢?」
「うーん、教えられないような夢」
わざと、間を取る。川瀬の眉がわずかに寄る。
「は?なんだよそれ」
「いやー、これは言えないかなー、さすがに」
少し笑いながら続ける。
「でもめっちゃ川瀬可愛くってさ」
「……」
沈黙。耳が、赤い。
「どうせ変な夢でもみたんだろ」
「まぁ、そんなとこかなー」
肩をすくめる。
「正夢になっちゃったりしてな」
横目で様子を見る。川瀬がじっとこっちを見ている。その目が、ほんの少しだけ鋭い。
「ならない」
即答。
「なんで」
「ならない」
繰り返す。でも声が少しだけ低い。……あれ?これ、もしかして。ちょっと効いてる?内心ガッツポーズ。夢の内容は絶対言えない。あんな距離で、あんな顔で、俺の名前呼ばれて。現実でやられたら、たぶん心臓止まる。でも。「正夢にしてやる」とは言えないところが、まだ俺の余裕のなさ。川瀬の横顔を見ながら思う。夢でもいい。
でもいつか——
二人でしばらく黙って歩く。すると、川瀬がぽつっと言った。
「……ねぇ」
「ん?」
「橋本」
少しだけ歩くスピードが落ちる。川瀬がこっちを見ないまま言う。
「さっきの」
「夢?」
「……うん」
「やっぱ気になる?」
少しからかうように言うと、川瀬の耳が赤くなる。
「……別に」
「じゃあいいじゃん」
「……」
沈黙。そして。川瀬が小さく息を吐く。
「……ひとつだけ」
「なに」
川瀬はまだ前を向いたまま。でも声を少しだけ落として言う。
「……どこ触ってたの」
「……は?」
思わず立ち止まる。
「いや」
「え」
「ちょっと待って」
川瀬は歩き続けている。完全に平然とした顔で。でも耳だけ真っ赤だ。
「お前今なんて言った?」
「……別に」
「別にじゃないだろ」
追いかけて横に並ぶ。
「なんかすごいこと言ったよな今」
「言ってない」
「言った」
川瀬はちらっとこっちを見る。その目が少しだけ意地悪い。
「……だって、言えない夢なんだろ」
「……」
「なら、どこまでだったのかくらい」
少しだけ視線を逸らす。
「……聞いてもいいかなって」
やばい。それ聞く?本当に?夢の中の光景が一気にフラッシュバックする。川瀬の唇。吐息の触れる距離で名前呼ばれて。……無理。顔が熱い。
「……言えるわけねぇだろ」
「ふーん」
「なんだよその顔」
川瀬は小さく肩をすくめる。
「やっぱり変な夢なんじゃん」
「変じゃねぇよ」
「じゃあ言えば」
「言わねぇ」
「ほら」
少しだけ笑う。
「やっぱり」
「……」
くそ。完全に川瀬のペースだ。でも。少しだけ意地悪したくなる。
「……川瀬」
「なに」
「キスしてた」
「……」
ぴたりと歩くのが止まる。ゆっくりこっちを見る。
「……は?」
その顔が、ちょっとだけ動揺している。
「夢の中で」
照れくさくなって、顔を見れない。
「川瀬と」
「……」
数秒沈黙。それから川瀬が小さく言う。
「……変なの」
「そんな夢見るとか」
でも。そのまままた歩き出す川瀬の耳は、さっきよりもっと赤くなっていた。
部屋の電気を消す。窓の外は静かだ。ベッドに横になる。いつもなら、すぐ眠れる。部活で疲れている日は特に。
なのに今日は——眠れない。目を閉じる。でも、思い出す。夕方の帰り道。橋本の顔。
「川瀬出てきた」
……あいつ、ああいうこと平気で言う。普通、言うか?そんなこと。
「……夢見た」
とか。
「めっちゃ可愛かった」
とか。布団の中で小さくため息をつく。……ああいうの、心臓に悪い。しかも。
「教えられないような夢」
とか。……なんだよそれ。意味わからない。でも、聞いてしまった。
——どこ触ってたの。
「……」
思い出した瞬間、顔が熱くなる。なんで聞いたんだろう。完全に変なやつだ。橋本も驚いてたし。……当たり前だ。でも。少しだけ気になる。橋本の夢。自分が出てくる夢って、どんなだろう。
「……」
布団の中で寝返りを打つ。あいつは最後、
「キスしてた」
って言った。夢の中で。……おかしい。そんな夢見るとか。普通ない。……普通。ないよな。目を閉じると、思い出す。橋本の顔。帰り道の、少しだけ照れた顔。なんか、変だった。いつもより。少しだけ。
「……」
胸の奥がざわざわする。変だ。これじゃまるで、自分がその夢を想像してるみたいだ。
「……」
ありえない。そう思う。でも、頭の中に浮かんでしまう。橋本の顔。少し近い距離。名前を呼ばれて。
「……橋本」
小さく呟く。その瞬間。心臓がドクンと鳴る。……ダメだ。明日も朝早い。寝よう。余計なこと考えるな。布団を深くかぶる。目を閉じる。そのまま、いつの間にか意識が落ちていく。
――そして。
目の前に、橋本がいる。いつもの距離より、さらに少し近い。
「……川瀬」
名前を呼ばれる。その声がやけに近くて、真剣で、ドキドキする。
「なぁ」
手が伸びてきて、肩を軽く掴まれる。
「……正夢にしてもいい?」
「……え」
距離が近い。近すぎる。
「橋本」
そう呼んだ瞬間、唇が触れた。
「……っ」
一瞬。でも。逃げようとしたら。橋本の手が、少しだけ強くなる。
「……逃げんなよ」
低い声が腰まで響いて、身体中が熱くなる。そして。もう一度、キスされる。今度は少し長く。
「……っ」
胸が苦しい。息が上手くできなくて、おかしくなりそう。
「ごめん俺、もうとまんない」
「橋本……」
その名前を呼んだ瞬間——
はっと目が覚める。真っ暗な部屋。静かな夜。心臓がうるさい。
「……」
天井を見つめる。しばらく動けない。こんなの、橋本のせいだ。絶対。
音楽室のドアを開ける。朝のざわざわした空気。
俺の視線は、まっすぐ一箇所に向かう。川瀬。いつもの場所。楽譜をぼんやりみている。いつもより少し眠そうだ。
「おはよ」
声をかけると、
川瀬が一瞬だけ顔を上げる。
「……おはよ」
でも。すぐ目を逸らされた。……ん?気のせいか?横に立つ。
「今日暑くね」
「……そうだね」
楽譜に視線を落としたまま答える。顔、見ない。なんで?
「今日も朝練一番乗り?」
「……うん」
短い。しかもこっち見ない。
「……」
なんだこれ。なんか変じゃないか?いつもなら、もう少し普通に話す。でも今日は。一回も目が合わない。
「川瀬」
「……なに」
「こっち見ろよ」
「……」
ちらっと。ほんの一瞬だけ目が合う。でも。すぐ逸らされる。完全に避けられている。
「……なんで目合わせてくれないんだよ」
「別に」
「別にじゃないだろ」
少し声が低くなる。
「さっきからずっとじゃん」
川瀬はペンを持ったまま、楽譜にメモをしている。でも。耳が、少し赤い。
「……」
嫌な予感がする。
「俺さ、なんかした?」
聞く。川瀬が一瞬だけ動きを止める。
「……してない」
「じゃあなんでそんな避けるんだよ」
「避けてない」
「避けてる」
「避けてない」
完全に言い合いになる。
「じゃあこっち見ろよ」
「……」
沈黙。そして。ゆっくり顔を上げる。目が合う。一瞬だけ。川瀬の顔が、ほんのり赤い。そして。すぐまた視線を落とす。
「……やっぱ無理」
「は?」
「……無理」
「何が?」
「……」
沈黙。川瀬が小さく呟く。
「……橋本のせい」
「え」
「……」
「え、やっぱ俺?!」
思い当たる節がない。
「なにしたっけ?!」
川瀬は小さく息を吐く。そして。ぼそっと言う。
「……変な夢の話とかするから」
「……」
一瞬、固まる。夢。あ。まさか。
「……え」
思わず聞く。
「……夢見たの?」
川瀬のペンが止まる。数秒の沈黙。それから。小さく。
「……見てない」
完全に嘘の声だった。
「……見てないから」
川瀬はノートを見たまま言う。でも。声が、ちょっとだけ不自然だ。
「……」
俺はしばらく川瀬の横顔を見る。ペンを持つ手が、ほんの少し止まっている。まさか。まさか、とは思うけど。少しだけ口角が上がる。
「なぁ」
「……なに」
「もしかして」
こんなの、周りに聞こえたらまずい。耳元で囁く。
「俺とキスする夢?」
カタン。川瀬の手からペンが落ちた。音楽室の床に乾いた音が響く。
「……」
ゆっくり顔を上げる。目が合う。完全に動揺している。
「……は?」
「何言ってんの」
「いや」
肩をすくめる。
「なんとなくそうかなって」
「なんとなくで言うな」
川瀬は急いでペンを拾う。でも。顔まで真っ赤だ。
「……」
これは。確定じゃないか?
「……川瀬」
「なに」
「そうだろ?」
「違う」
即答。でも。声が小さい。思わず笑いそうになる。
「……まじか」
「これもう、実質二人でしたようなもんじゃん」
「は?」
川瀬が顔を上げる。少しだけ睨むみたいに。数秒沈黙したあと、川瀬が小さく呟く。
「……バカじゃないの」
でも。その声は、いつもより少しだけ弱い。
「ここまで来たら、正夢になっちゃうかも」
「ならない」
聞こえるか聞こえないかくらいの声で、わざと言う。
「ならないんだ、残念」
川瀬は何も言わない。ただ。楽譜を持つ手が少しだけ震えていた。




