表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
14/24

海の鼓動

温かくて、安心する。

8月14日。C編のコンクール本番当日。出番は午後の少し遅い時間。だから午前中は学校で最終仕上げをしてから出発する。マーチングの練習がない俺は、C編に同行できると聞いて少し浮かれていた。でも顔には出さないように気をつける。今日は俺の日じゃないし、みんな緊張しているだろうから。


教室に入ると。衣装姿の川瀬がひとりでロングトーンをしている。……うわ。ちょっ。


――腰ほっそ。


衣装姿はまだ見慣れない。黒のタイトなジャケットとスラックス。布がぴたりと沿って華奢さが強調される。後ろからその腰を抱きたい衝動に駆られて、喉が、わずかに鳴った。やばい。今はやばい。川瀬は、完全に集中している。俺が入ってきたことに気づいていないくらい。絶対に邪魔しちゃいけない。


今朝、LINEで応援は送った。でも、あいつに変なプレッシャーはかけたくない。だから珍しく軽めのメッセージ。

《いつも通りでいけるっしょ》

あえて、あっさり。本当はもっと言いたかった。“信じてる”とか。“絶対一番うまい”とか。でも、それは客席で思えばいい。


最終仕上げを終えたC編。堀部先輩、洸太先輩、そして川瀬。フルートの三人と一緒に電車に揺られる。車内で他パートとすれ違う。

「え、なんで橋本いるの?」

少しだけ気まずい。

「マーチング出ないから暇なんすよね〜」

自分で言ってちょっと刺さる。でも今日はそれでいい。俺は今日は観客で、C編の一番の応援団だ。


この前と同じ会場に着く。既に演奏を終えた学校が、外で写真を撮っている。笑顔と涙と達成感で溢れる空間。C編は小編成のため、小ホールで演奏する。より客席との距離が近く、逃げ場がない。

準備の時間が来たようだ。堀部先輩は三年最後のコンクール。洸太先輩は小学校からの付き合い。そして、川瀬。3人に全力でエールを送る。

「頑張ってきてくださーい!」


小ホールの座席に、ひとり座る。他校の演奏が始まった。フルートソロ。……うちの川瀬のほうが、ダントツ上手い。普通に思う。繊細な音の運び。息のコントロール。比べ物にならない。

緊張するだろうな。あの華奢な体で、どれだけの重圧を受け止めているんだろう。俺には想像できない。俺は舞台に立つと、自分のことでいっぱいいっぱいだ。でも川瀬は。全部を抱えて静かに舞台に立つ。本当に尊敬する。


蒼高の前の学校が演奏を始める。もう舞台袖にいる頃だろうか。なんか、俺まで緊張してきた。手汗がやばい。大丈夫。大丈夫だろ。この学校も上手い。プレッシャーになるだろうな。でも、川瀬は負けない。負けないはずだ。


影アナウンスが入る。

「プログラム66番、蒼波高等学校。曲は『蒼の海辺で』――」

来た。入場してくるみんなの顔はかなり緊張しているようだ。祈るような気持ちで見守る。

小ホールの空気が、すっと静まる。


最初に鳴ったのは、オーシャンドラム。ざあ……。柔らかい波の音。静かに、静かに、砂浜へ打ち寄せる。本当にそこに海があるみたいだ。遠くの水平線。夕方でも朝でもない、透明な時間。その波の余韻が残る中。

川瀬のソロが入る。川瀬の生み出す音が、空気を透かす。

――寄せては返す波の、一番静かな瞬間を掬い上げたみたいな音。

各パートの旋律がゆっくりと弧を描く。海を見つめている人。波を眺めながら、何かを思い出している人。それが目に浮かぶ。

俺は気づいたら、息をするのを忘れていた。あいつは今、何を思って吹いてるんだろう。海か。未来か。それとも。

――俺のこと、少しは考えてたりしないだろうか?

...そんなわけないってわかってる。でも、そう思いたくなるくらい。音がまっすぐ届く。


中間部。木管のハーモニーが重なる。水面に光が反射するみたいに、音がきらきらと揺れる。遠くの水平線が少しずつ色を変える。でも静かに、音が呼吸している。こういうロマンチックな曲が、川瀬には良く似合う。当て書きのように感じてしまうほど。


終盤。一気に海が大きくうねる。それでも荒れない。大きいのに濁らない。心が洗われるって、こういうことかもしれない。抑揚がつく。波が高くなる。そして、静まる。

最後。本当に最後。川瀬のソロで曲が終わる。全ての余韻を背負う音。一瞬の静寂。


ホールに、透明な余韻が残る。


誰もすぐ拍手しない。それが答えだ。俺の目の奥が、じわっと熱くなる。

――悔しい。

こんな風に俺は吹けない。でも。誇らしい。


演奏が終わったあと。

C編のみんなが戻ってくるまで、客席で他校の演奏を聴いて時間を潰す。でも正直、ほとんど頭に入ってこない。川瀬のソロ。俺には完璧に聴こえた。でも。あいつの“完璧”は、俺の基準じゃない。また、自分に納得いかなくて泣いたりしてないだろうな。もし泣いてたら。今度は、絶対一番に俺が駆け寄る。そう決めてる。

居てもたってもいられず、ロビーへ出る。しばらくして、見慣れた衣装の集団が出てきた。

あ、フルートのみんなだ。川瀬、泣いてない。すっきりした顔をしている。よかった。

「川瀬、お疲れ」

両手で、ぽんぽん、と頬を軽く叩く。ずっと触れたくて仕方なかった。

「……うん」

少しムスッとする。人前で触られるのが嫌なんだろうな。でも怒ってはいない。それくらいは分かる。

「……どうだった?」

真っ直ぐ聞いてくる。めちゃくちゃ良かった。ほんとに。でも。

なんか悔しさもあって、素直に全部は言えない。

「よかったよ、普通に。でも金管あたりちょっと緊張してたかもなー」

……いや、何様だよ。俺。でも、事実でもある。

「……そっか。金賞、とれるかな」

小さく。弱く、聞いてくる。

「うーん、わかんねーな。大丈夫じゃね?たぶん」

たぶん、ってなんだよ。本番終わったばっかのやつに不安残してどうすんだ。ほんと俺はこういうところ、まだまだ子どもだ。


出番が遅めだから、すぐ結果発表の時間になる。基本は出場者と先生のみ客席へ。俺は外で待つつもりだった。

「え?陽翔も一緒に聞くだろ?」

洸太先輩。

「いや、俺は今日出てないし、中にいちゃダメなんじゃないすか」

「えー?大丈夫っしょ、一緒に聞こう!ほら、入って入って」

先輩のこういうところに、俺は昔から何度も救われてる。


衣装姿のC編メンバーの中に、制服姿の俺が一人。少し浮いている。隣には川瀬。さっき俺が余計なこと言ったせいか、微妙な顔してる。あーあ、完全にやらかした。ごめん。


発表が始まる。銅賞、銀賞、金賞。A編と違うのは、金賞の中から最優秀賞が一校だけ選ばれること。でもそれは大体、いつも同じ強豪校が攫っていく。目指すはゴールド金賞。それだけで十分だ。

出順が遅いから、なかなか呼ばれない。拍手、拍手、拍手。その間、ヒソヒソと伝言が回る。

「両隣と手繋いでだって!」

……え、なんで?ああ、お祈り的な感じか。


「川瀬、手繋ごう」


「……は?」

「ほら、みんな繋いでるじゃん」

「手汗かいてるから、やだ」

「俺もかいてるから大丈夫」

「……うん」


初めて握る川瀬の手。華奢で、繊細で、少し冷たい。冷房のせいか。それとも緊張か。指が、細い。思ってたより軽い。俺の手の中にすっぽり収まる。……温めてやりたい。手だけじゃなくて。体ごと。全部。いろんな意味で心臓がうるさい。


二つ前の学校。

「プログラム64番、――高等学校、ゴールド……」

「ぎゃあああああああ!!!!!」

次はあの上手かった学校だ。

「プログラム65番、――高等学校、ゴールド金……」

「ぎゃあああああああ!!!!!!!」

金賞続き。この波に、乗れるか。川瀬の手を無意識に強く握ると、あいつも握り返してくる。


「プログラム66番、蒼波高等学校、ゴールド、金賞!」


「ぎゃあああああああぁぁああ!!!!!」

きた。金賞。よかった。本当に。そりゃあそうだ。あの演奏だぞ。金賞に決まってる。

横を見ると、川瀬の目が少しだけ潤んでいる。でも泣いてはいない。唇をぎゅっと結んでる。手はまだ繋がったまま。俺は、その手をしばらく離さなかった。



演奏が終わったあと。袖に戻った瞬間、足の力が抜けそうになった。失敗は、なかった。たぶん。でも。“完璧だったか”と聞かれると、答えに詰まる。考え始めると止まらない。片付けを終えると、ロビーに橋本がいた。なぜか少し安心する。

「お疲れ様でーす!」

いつもの声。大きくて、少し軽い。でも今日はその軽さに救われる。

「川瀬、お疲れ」

頬をぽんぽん叩かれる。人前で触るな。そう思うけど、怒る気力もない。

「……どうだった?」

本当は聞きたくない。でも、聞きたい。一番聞きたい相手だから。

「よかったよ普通に。でも金管あたりちょっと緊張してたかもなー」

……普通に。少しだけ胸が沈む。普通に、か。いや、落ち込むな。事実かもしれない。

「……そっか。金賞、とれるかな」

自分でも情けない質問。

「うーん、わかんねーな。大丈夫じゃね?たぶん」

“たぶん”。不安が残る。でも、これが橋本だ。嘘をつけない。誤魔化せない。だから信じられる。……今は少しだけ、むかつくけど。


結果発表。橋本は外で待つはずだったらしいが、洸太先輩が引っ張ってきた。当たり前のように隣に座る。

発表が始まる。出順が遅く、待つ時間が長い。心臓はうるさいし、緊張で手が湿る。

「両隣と手繋いでだって!」

……なにそれ。


「川瀬、手繋ごう」


「……は?」

「みんな繋いでるじゃん」

逃げ場がない。

「……手汗かいてるから、やだ」

「俺もかいてるから大丈夫」

……ずるい。そう言われたら断れない。そっと手を差し出す。橋本の手は思っていたより熱い。自分の手が、やけに冷たいことに気づく。緊張のせいだ。きっと。指が絡むわけでもない。ただ、握るだけ。

それだけなのに。温かいからだろうか、鼓動が落ち着く。隣にいるのが、橋本でよかった。


「プログラム66番、蒼波高等学校、ゴールド、金賞!」


一瞬、音が消えた。それから。

「ぎゃあああああああぁぁああ!!!!!」

歓声。金賞。……金賞。よかった。本当に。涙は出ない。でも、目の奥が熱い。橋本に手を少し強く握られる。離さない。自分も、気づいたら握り返していた。最優秀賞は、やっぱり強豪校だった。それは分かっていた。悔しさはないわけじゃない。でも今は、金賞を取れた安堵のほうが大きい。


結果発表後、ざわざわとしているロビーに出た。喜んで抱き合う他校の生徒。泣いている人を励ます人の姿。次の瞬間、急に腕を引かれた。

「っ、」

抱きしめられていた。いつもの制服の感触。汗と、少し柔軟剤の匂い。

「……っ、ちょ、」

周りに人いる。でも橋本は、そんなこと気にしていない。力が強い。さっき握っていた手より、ずっと。胸に顔が近い。鼓動が直に伝わる。

「おめでとう」

耳元に。さっきまでの騒がしいトーンじゃない。落ち着いた声。

「マジでよかった」

その一言で、全部がほどけそうになる。泣かないって決めてたのに。ここで泣いたら、だめだ。橋本の肩に顔が触れる。逃げればいいのに。逃げない。

「……苦しい」

小さく言う。でも本気では抵抗しない。

「ごめん。でもちょっとだけ」

ちょっとだけ、って。全然ちょっとじゃない。でも。温かい。さっき冷えていた手も、もう冷たくない。

「……さっき、“普通に”よかったって、なに」

ぼそっと言ってみる。意地悪だ。

「え、あれはその……」

慌ててる。少しだけ、笑いそうになる。

「めちゃくちゃ良かった」

言い直す。真っ直ぐ。

「最後のソロ、鳥肌立った」

その言葉を聞いた瞬間。胸の奥が、じんわり熱くなる。やっぱり。一番欲しかったのは、その一言だ。

「……そっか」

それだけ言う。声が少し震えていないか、自信はない。廊下の向こうから声がする。

「蒼高集まってー!」

橋本がやっと腕を緩める。離れる瞬間。少しだけ、名残惜しい。

「……人前でやるな」

「じゃあ、人いないとこでやろっか」

「は?」

本気なのか冗談なのか分からない顔。でも目は、真剣だ。金賞。嬉しい。でもそれ以上に。あいつの腕の中で、自分の音が肯定されたことが。今日一番、心に残った。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ