海の鼓動
温かくて、安心する。
8月14日。C編のコンクール本番当日。出番は午後の少し遅い時間。だから午前中は学校で最終仕上げをしてから出発する。マーチングの練習がない俺は、C編に同行できると聞いて少し浮かれていた。でも顔には出さないように気をつける。今日は俺の日じゃないし、みんな緊張しているだろうから。
教室に入ると。衣装姿の川瀬がひとりでロングトーンをしている。……うわ。ちょっ。
――腰ほっそ。
衣装姿はまだ見慣れない。黒のタイトなジャケットとスラックス。布がぴたりと沿って華奢さが強調される。後ろからその腰を抱きたい衝動に駆られて、喉が、わずかに鳴った。やばい。今はやばい。川瀬は、完全に集中している。俺が入ってきたことに気づいていないくらい。絶対に邪魔しちゃいけない。
今朝、LINEで応援は送った。でも、あいつに変なプレッシャーはかけたくない。だから珍しく軽めのメッセージ。
《いつも通りでいけるっしょ》
あえて、あっさり。本当はもっと言いたかった。“信じてる”とか。“絶対一番うまい”とか。でも、それは客席で思えばいい。
最終仕上げを終えたC編。堀部先輩、洸太先輩、そして川瀬。フルートの三人と一緒に電車に揺られる。車内で他パートとすれ違う。
「え、なんで橋本いるの?」
少しだけ気まずい。
「マーチング出ないから暇なんすよね〜」
自分で言ってちょっと刺さる。でも今日はそれでいい。俺は今日は観客で、C編の一番の応援団だ。
この前と同じ会場に着く。既に演奏を終えた学校が、外で写真を撮っている。笑顔と涙と達成感で溢れる空間。C編は小編成のため、小ホールで演奏する。より客席との距離が近く、逃げ場がない。
準備の時間が来たようだ。堀部先輩は三年最後のコンクール。洸太先輩は小学校からの付き合い。そして、川瀬。3人に全力でエールを送る。
「頑張ってきてくださーい!」
小ホールの座席に、ひとり座る。他校の演奏が始まった。フルートソロ。……うちの川瀬のほうが、ダントツ上手い。普通に思う。繊細な音の運び。息のコントロール。比べ物にならない。
緊張するだろうな。あの華奢な体で、どれだけの重圧を受け止めているんだろう。俺には想像できない。俺は舞台に立つと、自分のことでいっぱいいっぱいだ。でも川瀬は。全部を抱えて静かに舞台に立つ。本当に尊敬する。
蒼高の前の学校が演奏を始める。もう舞台袖にいる頃だろうか。なんか、俺まで緊張してきた。手汗がやばい。大丈夫。大丈夫だろ。この学校も上手い。プレッシャーになるだろうな。でも、川瀬は負けない。負けないはずだ。
影アナウンスが入る。
「プログラム66番、蒼波高等学校。曲は『蒼の海辺で』――」
来た。入場してくるみんなの顔はかなり緊張しているようだ。祈るような気持ちで見守る。
小ホールの空気が、すっと静まる。
最初に鳴ったのは、オーシャンドラム。ざあ……。柔らかい波の音。静かに、静かに、砂浜へ打ち寄せる。本当にそこに海があるみたいだ。遠くの水平線。夕方でも朝でもない、透明な時間。その波の余韻が残る中。
川瀬のソロが入る。川瀬の生み出す音が、空気を透かす。
――寄せては返す波の、一番静かな瞬間を掬い上げたみたいな音。
各パートの旋律がゆっくりと弧を描く。海を見つめている人。波を眺めながら、何かを思い出している人。それが目に浮かぶ。
俺は気づいたら、息をするのを忘れていた。あいつは今、何を思って吹いてるんだろう。海か。未来か。それとも。
――俺のこと、少しは考えてたりしないだろうか?
...そんなわけないってわかってる。でも、そう思いたくなるくらい。音がまっすぐ届く。
中間部。木管のハーモニーが重なる。水面に光が反射するみたいに、音がきらきらと揺れる。遠くの水平線が少しずつ色を変える。でも静かに、音が呼吸している。こういうロマンチックな曲が、川瀬には良く似合う。当て書きのように感じてしまうほど。
終盤。一気に海が大きくうねる。それでも荒れない。大きいのに濁らない。心が洗われるって、こういうことかもしれない。抑揚がつく。波が高くなる。そして、静まる。
最後。本当に最後。川瀬のソロで曲が終わる。全ての余韻を背負う音。一瞬の静寂。
ホールに、透明な余韻が残る。
誰もすぐ拍手しない。それが答えだ。俺の目の奥が、じわっと熱くなる。
――悔しい。
こんな風に俺は吹けない。でも。誇らしい。
演奏が終わったあと。
C編のみんなが戻ってくるまで、客席で他校の演奏を聴いて時間を潰す。でも正直、ほとんど頭に入ってこない。川瀬のソロ。俺には完璧に聴こえた。でも。あいつの“完璧”は、俺の基準じゃない。また、自分に納得いかなくて泣いたりしてないだろうな。もし泣いてたら。今度は、絶対一番に俺が駆け寄る。そう決めてる。
居てもたってもいられず、ロビーへ出る。しばらくして、見慣れた衣装の集団が出てきた。
あ、フルートのみんなだ。川瀬、泣いてない。すっきりした顔をしている。よかった。
「川瀬、お疲れ」
両手で、ぽんぽん、と頬を軽く叩く。ずっと触れたくて仕方なかった。
「……うん」
少しムスッとする。人前で触られるのが嫌なんだろうな。でも怒ってはいない。それくらいは分かる。
「……どうだった?」
真っ直ぐ聞いてくる。めちゃくちゃ良かった。ほんとに。でも。
なんか悔しさもあって、素直に全部は言えない。
「よかったよ、普通に。でも金管あたりちょっと緊張してたかもなー」
……いや、何様だよ。俺。でも、事実でもある。
「……そっか。金賞、とれるかな」
小さく。弱く、聞いてくる。
「うーん、わかんねーな。大丈夫じゃね?たぶん」
たぶん、ってなんだよ。本番終わったばっかのやつに不安残してどうすんだ。ほんと俺はこういうところ、まだまだ子どもだ。
出番が遅めだから、すぐ結果発表の時間になる。基本は出場者と先生のみ客席へ。俺は外で待つつもりだった。
「え?陽翔も一緒に聞くだろ?」
洸太先輩。
「いや、俺は今日出てないし、中にいちゃダメなんじゃないすか」
「えー?大丈夫っしょ、一緒に聞こう!ほら、入って入って」
先輩のこういうところに、俺は昔から何度も救われてる。
衣装姿のC編メンバーの中に、制服姿の俺が一人。少し浮いている。隣には川瀬。さっき俺が余計なこと言ったせいか、微妙な顔してる。あーあ、完全にやらかした。ごめん。
発表が始まる。銅賞、銀賞、金賞。A編と違うのは、金賞の中から最優秀賞が一校だけ選ばれること。でもそれは大体、いつも同じ強豪校が攫っていく。目指すはゴールド金賞。それだけで十分だ。
出順が遅いから、なかなか呼ばれない。拍手、拍手、拍手。その間、ヒソヒソと伝言が回る。
「両隣と手繋いでだって!」
……え、なんで?ああ、お祈り的な感じか。
「川瀬、手繋ごう」
「……は?」
「ほら、みんな繋いでるじゃん」
「手汗かいてるから、やだ」
「俺もかいてるから大丈夫」
「……うん」
初めて握る川瀬の手。華奢で、繊細で、少し冷たい。冷房のせいか。それとも緊張か。指が、細い。思ってたより軽い。俺の手の中にすっぽり収まる。……温めてやりたい。手だけじゃなくて。体ごと。全部。いろんな意味で心臓がうるさい。
二つ前の学校。
「プログラム64番、――高等学校、ゴールド……」
「ぎゃあああああああ!!!!!」
次はあの上手かった学校だ。
「プログラム65番、――高等学校、ゴールド金……」
「ぎゃあああああああ!!!!!!!」
金賞続き。この波に、乗れるか。川瀬の手を無意識に強く握ると、あいつも握り返してくる。
「プログラム66番、蒼波高等学校、ゴールド、金賞!」
「ぎゃあああああああぁぁああ!!!!!」
きた。金賞。よかった。本当に。そりゃあそうだ。あの演奏だぞ。金賞に決まってる。
横を見ると、川瀬の目が少しだけ潤んでいる。でも泣いてはいない。唇をぎゅっと結んでる。手はまだ繋がったまま。俺は、その手をしばらく離さなかった。
演奏が終わったあと。袖に戻った瞬間、足の力が抜けそうになった。失敗は、なかった。たぶん。でも。“完璧だったか”と聞かれると、答えに詰まる。考え始めると止まらない。片付けを終えると、ロビーに橋本がいた。なぜか少し安心する。
「お疲れ様でーす!」
いつもの声。大きくて、少し軽い。でも今日はその軽さに救われる。
「川瀬、お疲れ」
頬をぽんぽん叩かれる。人前で触るな。そう思うけど、怒る気力もない。
「……どうだった?」
本当は聞きたくない。でも、聞きたい。一番聞きたい相手だから。
「よかったよ普通に。でも金管あたりちょっと緊張してたかもなー」
……普通に。少しだけ胸が沈む。普通に、か。いや、落ち込むな。事実かもしれない。
「……そっか。金賞、とれるかな」
自分でも情けない質問。
「うーん、わかんねーな。大丈夫じゃね?たぶん」
“たぶん”。不安が残る。でも、これが橋本だ。嘘をつけない。誤魔化せない。だから信じられる。……今は少しだけ、むかつくけど。
結果発表。橋本は外で待つはずだったらしいが、洸太先輩が引っ張ってきた。当たり前のように隣に座る。
発表が始まる。出順が遅く、待つ時間が長い。心臓はうるさいし、緊張で手が湿る。
「両隣と手繋いでだって!」
……なにそれ。
「川瀬、手繋ごう」
「……は?」
「みんな繋いでるじゃん」
逃げ場がない。
「……手汗かいてるから、やだ」
「俺もかいてるから大丈夫」
……ずるい。そう言われたら断れない。そっと手を差し出す。橋本の手は思っていたより熱い。自分の手が、やけに冷たいことに気づく。緊張のせいだ。きっと。指が絡むわけでもない。ただ、握るだけ。
それだけなのに。温かいからだろうか、鼓動が落ち着く。隣にいるのが、橋本でよかった。
「プログラム66番、蒼波高等学校、ゴールド、金賞!」
一瞬、音が消えた。それから。
「ぎゃあああああああぁぁああ!!!!!」
歓声。金賞。……金賞。よかった。本当に。涙は出ない。でも、目の奥が熱い。橋本に手を少し強く握られる。離さない。自分も、気づいたら握り返していた。最優秀賞は、やっぱり強豪校だった。それは分かっていた。悔しさはないわけじゃない。でも今は、金賞を取れた安堵のほうが大きい。
結果発表後、ざわざわとしているロビーに出た。喜んで抱き合う他校の生徒。泣いている人を励ます人の姿。次の瞬間、急に腕を引かれた。
「っ、」
抱きしめられていた。いつもの制服の感触。汗と、少し柔軟剤の匂い。
「……っ、ちょ、」
周りに人いる。でも橋本は、そんなこと気にしていない。力が強い。さっき握っていた手より、ずっと。胸に顔が近い。鼓動が直に伝わる。
「おめでとう」
耳元に。さっきまでの騒がしいトーンじゃない。落ち着いた声。
「マジでよかった」
その一言で、全部がほどけそうになる。泣かないって決めてたのに。ここで泣いたら、だめだ。橋本の肩に顔が触れる。逃げればいいのに。逃げない。
「……苦しい」
小さく言う。でも本気では抵抗しない。
「ごめん。でもちょっとだけ」
ちょっとだけ、って。全然ちょっとじゃない。でも。温かい。さっき冷えていた手も、もう冷たくない。
「……さっき、“普通に”よかったって、なに」
ぼそっと言ってみる。意地悪だ。
「え、あれはその……」
慌ててる。少しだけ、笑いそうになる。
「めちゃくちゃ良かった」
言い直す。真っ直ぐ。
「最後のソロ、鳥肌立った」
その言葉を聞いた瞬間。胸の奥が、じんわり熱くなる。やっぱり。一番欲しかったのは、その一言だ。
「……そっか」
それだけ言う。声が少し震えていないか、自信はない。廊下の向こうから声がする。
「蒼高集まってー!」
橋本がやっと腕を緩める。離れる瞬間。少しだけ、名残惜しい。
「……人前でやるな」
「じゃあ、人いないとこでやろっか」
「は?」
本気なのか冗談なのか分からない顔。でも目は、真剣だ。金賞。嬉しい。でもそれ以上に。あいつの腕の中で、自分の音が肯定されたことが。今日一番、心に残った。




