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五線譜の間で

川瀬は、お前らなんかとは違う場所に立ってるんだよ。

視聴覚室は、妙に乾いた空気だった。

合宿と同じ流れ。編成ごとにリハーサル、そして講師の先生の講評をもらう。A編、B編と進んで、最後はC編。あいつは、合宿以降さらに練習量を増やしていた。朝一番に学校に到着してひたすら練習。正直、ちょっとやりすぎなくらいだと思う。でも今日のソロは——完璧だった。少なくとも俺から見れば。柔らかくて、芯があって、息の流れも安定していて。聴いている周りも、「やっぱり上手いな」と分かる顔をしている。俺も、そう思った。ああ、もう大丈夫だろ、って。

演奏が終わる。拍手。講師の先生がマイクを持つ。

「全体としては——」

講評は、川瀬のソロを直接指摘したわけじゃない。全体のバランス、フレーズ感、テンポ感。普通の、建設的なアドバイス。なのに。俺は気づいた。川瀬の横顔。口元が、ほんの少し震えている。

——あ。

嫌な予感が、背中を走る。目が、歪む。呼吸が浅くなる。

「……やば」

小さく呟いた瞬間。ぽたり、と涙が落ちた。一滴。それで止まらなかった。視聴覚室がざわつく。

「え、川瀬どうした大丈夫か?」

講師の先生も戸惑う。

「1回外で頭冷やして来たら」

川瀬は小さく頷いて、一人で退室した。背中が、小さく見えた。すぐに休憩時間になる。その瞬間、世話焼きタイプの連中が立ち上がる。

「川瀬、大丈夫?」

「ソロめっちゃ良かったよ」

「どこが気になったの?」

ぞろぞろと、外へ向かう。俺は一瞬、立ち上がれなかった。

——くそ。うるせぇ。うるせぇよ。

焦りと、苛立ちと、どうしようもない感情。廊下の角。顔を真っ赤にして、ヒクヒクと泣いている川瀬。それを囲む数人。背中をさするやつ。覗き込むやつ。優しい声をかけるやつ。その光景を見た瞬間。胸の奥が、焼けた。

正直に言うと。可愛いと思った。俺は本当に最低だ。涙でぐしゃぐしゃになってるくせに、顔を真っ赤にして必死に堪えようとしてる顔。そんな顔、俺にしか見せるなよ。しかもあいつら、何なんだ。「ソロ良かったよ」って。川瀬は他人基準で泣かない。自分の中の基準で泣く。そして川瀬の基準は、俺たちの上にある。お前らの励ましなんか、今いらない。分かってやれよ。

気づけば、俺も歩き出していた。人をかき分けてまっすぐ川瀬の前に立つ。

「……橋本」

赤い目で、こっちを見る。周りが少しだけ距離を取る。たぶん、察している。

「なぁ、まだ泣いてんの」

わざと、少し軽く言う。責めない。でも、甘やかさない。

「……うるさい」

声が震えてる。

「悔しいんだろ」

具体的な指摘は聞かない。どこがどうとか、聞かない。だってどうせ、あいつの中の問題だ。

「納得いかなかったんだろ」

川瀬の肩が、びくっと揺れる。図星。でも追及しない。

「別にさ」

少し近づく。周りに聞こえないくらいの声で。

「俺は好きだったけど」

ぽろっと言う。考えるより先に出た。

「今日のソロ」

川瀬が一瞬、息を止める。

「でも」

そこで、少しだけ声を落とす。

「お前が納得してないなら、それはムカつくよな」

励ますというより、一緒に怒る。周りのやつらが

「ほんと良かったよ!」

とか言ってるのが、耳に入る。違う。違うだろ。俺は川瀬の頬に触れそうになって、一瞬止まる。人目。でも結局、触れる。親指で、涙のあとを軽く拭う。

「泣くのは別にいい」

小さく言う。

「でも」

言ってしまう。止められない。

「こんなとこで泣くなよ」

川瀬が、目を見開く。

「俺がいるだろ」

それだけ。理屈じゃない。独占欲、丸出し。周りが静まる。空気が変わる。たぶんみんな思ってる。あー、はいはい。川瀬の呼吸が、少し落ち着く。

「……うん」

でも、声は弱い。

「わかってる」

即答。顔を少し近づける。


「俺以外に、その泣き顔見せないで」



泣くつもりなんて最初からなかった。涙は、止めるつもりだった。一滴目が落ちた瞬間に、あ、まずい、と思ったのに。講評の言葉が耳に入らなくなって、視界が滲んだ。

——最後のソロ。

ほんのわずかなズレ。自分にしか分からないくらいの。でも、分かってしまった。それがどうしても許せなかった。

視聴覚室を出る。廊下の空気が冷たい。息が整わない。泣くな。こんなところで。そう思えば思うほど涙が溢れてくる。すぐに足音が増えてきた。

「川瀬、大丈夫?」

「ソロほんと良かったよ」

「どこ気になったの?」

囲まれる。優しい声。背中に手。ありがたい。ありがたいはずなのに。違う。今ほしい言葉はそこじゃない。視界が涙で揺れる。それでも無意識に目が動く。人の隙間を探している。誰を。考えなくても分かる。

——橋本。どこ。

自分でも驚く。なんで。慰めてくれる人はここにいる。それなのに全然足りない。

「ほんと上手かったって」

違う。上手いかどうかじゃない。分かってほしいのはそこじゃない。人の肩越しにやっと見えた。廊下の奥。少し離れた場所に立っている。橋本。動いていない。こっちを見ている。その瞬間。胸の奥が少しだけ緩んだ。ああ。いる。

次の瞬間、橋本が歩き出す。まっすぐ。迷わず。人の間を抜けて、目の前に立つ。

「なぁ、まだ泣いてんの」

少し軽い声。でも目は真剣。それだけで、息が整い始める。周りの声が遠くなる。囲まれているのに、もう囲まれていないみたいだった。

「悔しいんだろ」

その一言で、涙がまた溢れそうになる。説明しなくても、言語化しなくても。分かっている顔。そのとき、やっと理解する。囲まれている間、自分は橋本を探していた。慰めじゃなくて。評価でもなくて。自分の悔しさを、同じ温度で受け止める人を。

「俺がいるだろ」

小さく言われる。その言葉が、胸の奥に落ちる。ちょっと重い。でも、嫌じゃない。泣き顔なんて、見せたくなかった。みっともない。でも。橋本が来た瞬間、少しだけ安心してしまった。それが、一番恥ずかしい。

本当は。囲まれていても。泣いていても。探していたのは、最初から一人だった。



「俺以外に、その泣き顔見せないで」

言った瞬間、自分でも少しやりすぎたと思った。でも、引かなかった。引けなかった。川瀬が、赤い目のまま俺を見る。周りのやつらも見る。空気が止まる。

「……あー」

誰かが、気まずそうに咳をする。

「じゃ、俺ら戻るわ」

「うん、川瀬、無理すんなよ」

さっきまで背中をさすってたやつが、さっと手を引く。一人、また一人と、距離を取る。露骨だった。気を遣ってるのが分かる。でも、誰も文句は言わない。たぶんみんな、今のやり取りで理解した。ああ、これは。俺らが入る場所じゃないなって。

廊下には、俺と川瀬だけが残る。さっきまでのざわつきが嘘みたいに静か。遠くで、別のパートの笑い声が聞こえる。でもここだけ、別の空間。

「……ちょっと、言いすぎ」

川瀬がぼそっと言う。でも声は弱い。

「どこが」

「全部」

「俺は本気だから」

即答。川瀬が、目を逸らす。赤い顔のまま。

「みんな見てたのに」

「知ってる」

「恥ずかしい」

「俺は恥ずかしくない」

少しだけ、間。

「お前のことだから」

川瀬の呼吸が、また揺れる。泣きそう、じゃない。違う。これはきっと、別のやつ。

「……なんでそんなに」

小さく聞く。

「独占したいから」

考えるより先に出た。

沈黙。でも、今度は嫌な沈黙じゃない。

「なんだよ、それ」

川瀬が言う。でも、少し笑っている。このやり取りで、完全に線が引かれた。俺と川瀬の間に。そして、それ以外との間に。後ろから、小声が聞こえる。

「……やっぱそうだよな」

「橋本、あれガチだわ」

「俺ら入っちゃだめなやつだ」

小さく、笑い混じり。でも悪意はない。それでいい。むしろ助かる。余計な慰めも、余計な気遣いも、いらない。川瀬の袖を、軽く掴む。

「戻るか」

「……うん」

並んで歩き出す。さっきより距離が近い。誰も何も言わない。でも、全員たぶん分かってる。

ああ、これでいい。泣き顔を囲まれるのは、もう嫌だ。最初に駆け寄るのは、俺でいい。俺が、いい。みんなの中でも、それが暗黙の了解になった。

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