表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
10/24

soffocato

欲望を抑え込まれて、息が詰まりそうだった。

合宿三日目の夜。全員参加のレクリエーションが始まると、緊張感のあった空気が一気にゆるんだ。○×クイズ。ビンゴ大会。当たっても外れても、誰かが騒いで、誰かが笑って。もう、テンションは完全にハイだ。

レクが終わると学年ごとに、集合写真を撮る流れになる。

「一年集合してー!」

人の波の中で、ふと、視界の端に見えた。

——川瀬。

あ、いた。理由なんて、考えてない。ただ、一緒に写りたい。それだけ。気づいたら川瀬の後ろに回っていた。そして。どさくさに紛れて、軽く、後ろから抱きつく。ほんとに、一瞬。

「…川瀬」

よけなかった。驚いたように、小さく肩が揺れるだけ。

「ちょ……っ、なんだよ」

低い声。怒ってるわけじゃない。でも、困ってる。

近い。

——近すぎる。

背中越しに、体温が分かる。後頭部に顔を埋めるとブラウンがかった髪から、ふわっと匂いがした。シャンプーの香り。合宿らしい、少しだけ違う匂い。……やばい。俺、こんなことで…一瞬、頭が真っ白になる。

「はい、撮るよー!」

シャッターの音。その間だけ、時間が止まったみたいだった。すぐに、手を離す。

「悪い」

軽く言って、前に回る。川瀬は、何も言わない。でも、耳が少し赤い。……気のせいかもしれない。写真を確認する声が、周りで上がる。

「あー、かおりん目瞑っちゃってるな」

「もう一枚撮りまーーす!」

笑い声の中で、さっきの距離だけが妙に残っている。1日目のあの時間は、何もなかった。はずなのに。今日はあの時より近い。それがもう当たり前みたいになっていることが、一番怖かった。ふざけているだけ。合宿のノリ。そう言い聞かせながら。でも。川瀬が拒まなかったこと。それだけで、胸の奥が少しざわついたままだった。


部屋に戻って、布団に転がった。全力でレクを楽しんで、身体は疲れてるのに頭だけ冴えている。

ていうか、合宿って一人きりになれないのが辛い。

スマホが震えた。吹奏楽部のLINE。アルバムに写真が次々に送られてくる。

パートごと、クラスごとの写真。佐々木先生とのツーショット。画面が一気に賑やかになる。なんとなくスクロールする。一枚ずつ、指で流す。学年ごとの集合写真。一年生。二年生。三年生。みんな、テンションがそのまま写ってる。……あ。見つけた。川瀬の後ろ。俺がいる。そして。

——俺、思ったより近い。

写真を拡大する。一瞬だけ躊躇してから。川瀬の肩に自分の腕。ちゃんと写ってる。抱きついてる、ってほどじゃない。でも。完全に距離がおかしい。川瀬の表情。正面を向いている。笑ってない。でも、嫌そうでもない。

……なんで、よけなかったんだ。画面を見つめたまま、動けなくなる。あのときの感触が、一気に蘇る。背中の体温。髪の匂い。いつもより少しだけ低い声。1日目のこと。今日のこと。全部が、一本の線で繋がっていく。写真を閉じる。……無理。すぐに、また開く。これ、さすがに誰か気づくだろ。距離近いって。でも、誰も何も言わない。今のところは。川瀬はこの写真、見るんだろうか。どう思うんだろう。スマホを伏せて、目を閉じる。なのに。さっきの写真が、まぶたの裏に焼きついて離れない。あの日は一線を越えそうになって。今日は、越えてないのに、距離だけ縮んで。

「……最悪」

小さく呟く。何が最悪なのか自分でも分からない。ただ、一つだけはっきりしてる。もう何もなかった顔で戻れる気がしない。


「B編もうやだ、辛い……」

ぐすん、と鼻をすする音。井原先輩がホテルの廊下でしゃがみ込んでいた。隣で洸太先輩が困ったように背中をさすっている。

「どうしたの」

「パート練してもさ、藤田は色々口出してきて反論してくるし、西野はずーっとダルそうにしてるし……畠山くんだけだよ、ちゃんとあたしの話聞いてくれるの」

これは1年の俺が聞いていい話なのかと思いつつ、ああ、確かに大変そうだな、と思った。藤田は強豪校出身。きっとプライドもあるだろう。西野はそもそも素直に人の話を聞くタイプじゃない。その中で、真面目な畠山が心の拠り所になるのは分かる。合宿前に一度B編の合奏を聴いたとき、フルートが目立つ場面で音程が正直かなり危うかった。あの音は合わせにくい音ではある。でも、それ以上に“空気”が揃っていないと寄り添えない音だった。仲良くやらないと、音は揃わない。

井原先輩、どうかあの個性派三人をよろしくお願いします。


合宿最終日。ホテルの広間で、編成ごとの発表会が始まった。発表する順番はA→B→C。

まずはA編成。数日間でぐっと距離が縮まった先輩たちと舞台に立つ。正直、俺はあまり緊張していなかった。ソロもないし、先輩についていけばなんとかなる。席に座ると、目の前には他編成のみんなが真剣な顔で体育座りしている。川瀬の姿が視界に入る気がして、あえて見ない。

課題曲《行進曲 クローバーフィールド》。みんなで何度も話し合ったイメージを思い浮かべる。風景を共有して吹くマーチは、前よりずっと立体的だった。

自由曲《地下劇場の幻影》。細かい部分も、奏法も、音程も、合宿中にかなり詰めた。演奏が終わると拍手が起きる。……この中でソロ吹くなんて、どんな気分なんだろうな。

続いてB編。曲目は喜歌劇《ベル・エポックの恋人たち》。実は、俺は今年のコンクール曲でこれが一番好きだ。華やかで、軽やかで、目まぐるしく音色が変わる。途中のフルートが目立つ場面。音程が合わないと悲惨になる箇所。固唾をのんで見守る。

――合った。

完璧ではない。でも、明らかに合宿前とは違う。相当やり合って、ぶつかって、練習したんだろう。井原先輩も、畠山も、西野も、藤田も、演奏中はみんな生き生きしていた。拍手を送る。大変そうだったけど、合宿前とは見違えるようになっていた。


最後はC編。椅子の数が一気に減って、空間が広く見える。入場してくるC編のメンバー。洸太先輩も川瀬も、さすがに緊張している。ついに川瀬のソロが聴ける。頑張れ、と思う気持ちと、この合宿中何度もドキドキさせられた奴が立つ舞台が始まるっていう不埒な感情と、いろんなものが混ざる。

波の音。そして、フルートソロ。

川瀬の一音目で、空気が変わった。

一瞬で、広間が静まる。透明感のある音色。息の流れが見えるみたいなフレーズ。音の切りまで緻密に計算されている。正直、圧倒的だった。海の情景が目の前に浮かぶ。俺には、あんな音は出せない。

曲が進み、ラスト。最後のソロ。息を止めて見守る。抜かりがない。最後まで崩れない。演奏が終わる。拍手が一段と大きい。

「ソロ1年の子になったの?」

「誰?」

「川瀬って子らしいよ」

「すごいね」

ざわめき。本当に、すごい。圧倒されてぼーっとしていると、A編のクラリネットの先輩に話しかけられる。

「あのソロの子、上手いね!」

……それ、普通同期に言うか?

「あー、ですね」

うまく笑えない。上手いのは事実。でも、なんか悔しい。たぶん、これは嫉妬だ。

そのあと、洸太先輩が離れた隙に川瀬に声をかける。

「お疲れ。ソロ、ほんとすげぇな」

「うん。そうかな。A編も良かったよ」

なんで素直に喜ばねぇんだ。

「クラの先輩も褒めてたぞ」

「そっか」

腑に落ちてない顔。俺には、ほぼ完璧に聴こえたのに。

四泊五日。本当にいろんなことがあったけど、なんとか楽しく乗り切った。

そして俺は知っている。今日のMVPは、間違いなく川瀬だ。……悔しいけど。

あとは本番。コンクールまで、最終仕上げだ。


合宿翌日の部活前。

レクリエーション終わりのあの集合写真をみて、案の定、クラスの吹部の奴らがざわついていた。

「橋本お前距離バグってない?」

「川瀬も普通に受け入れてんの」

「え、お前らもしかして出来てる???」

教室の一角でニヤニヤが広がる。険悪な感じではない。完全に面白がってる。

「いや、ちげーよ!!」

俺が即座に否定する。

「だって俺、最近まで彼女いたし!」

「男同士とかないわ!!」

言いながら、自分でちょっと引っかかる。……“最近まで”。言い訳みたいだ。

「えーほんとかよ」

「顔赤いぞー?」

「橋本わかりやす」

うるせえ。なんで分かるんだよ。

川瀬はというと少し離れた場所でスマホを触っている。でも耳が、ほんの少し赤い。

「川瀬はどうなん?」

誰かが振る。川瀬は一瞬だけこっちを見る。

「……別に」

それだけ。それ以上は言わない。囃し立ては続く。

「うわー否定しないやつだ」

「これは怪しいな」

笑い声。俺も笑う。

「だからちげーって」

でも。男同士とかない、って言ったとき。川瀬の目が、一瞬だけ揺れたのを見逃さなかった。ほんの少しだけ、傷ついたみたいな。胸がチクッとする。

違う。そういう意味じゃない。ただ、今ここで変に騒がれるのがまずいだけで。川瀬は、ソロを吹く。きっと今一番神経使ってる時期だ。俺のせいで余計な噂が立つのは、絶対違う。


部活終わり、川瀬と二人きりの帰り道。

「……なんで今日は触ってこないの」

ぽつり。は?!急にそんなこというなよ。

「いや、ほら。今日みたいにあーやって注目されるのもめんどいし」

「そう」

短い返事。

「今、川瀬いい意味で注目されてるしさ。余計なこと言われたくないだろ。ごめんな、俺のせいで」

川瀬は少しだけ考えて、

「別に、俺は」

と言いかけて、やめる。沈黙。俺は続ける。

「負担になりたくねーし」

それだけは本音だ。川瀬は俺を見る。静かな目。

その表情、やめてくれ。

「……橋本は、優しいね」

違う。優しいんじゃない。ただ、怖いだけだ。壊したくないだけだ。

「男同士とかないわ、って言ってたけど」

うわ、そこ拾う?心臓が止まりかける。

「……あれは、今ここで騒がれるの嫌だっただけ」

本音が、少しだけ漏れる。川瀬はじっと見て、

「うん。知ってる」

知ってる。つまり。分かってるってことだ。俺の顔に、好きって書いてあるってことだ。

「……だから、別に大丈夫」

その言葉のほうがよっぽど甘い。距離を置いたはずなのに。前よりずっと近い。触れてないのに、空気が甘い。コンクールまでは、我慢する。でも。終わったら。

もう、人前でも気にしないかもしれない。


俺の部屋は静かだった。家族はもう寝ている。

ベッドに横になって天井を見ているだけなのに、頭の中は妙に騒がしい。

——合宿のとき。

あのときの距離。敷布団の上で、写真撮影で、ふざけ半分に抱きついたはずだったのに。腕の中に収まった川瀬の体温が、やけに現実的だった。細いのにしっかりしていて。逃げないのに強くも返してこない。ただ、息が近かった。目を閉じると、髪の匂いまで思い出す。そんなに強くないシャンプーの柔らかい匂い。でも、あのときはやけに印象に残った。

川瀬が、小さく息を飲んだ音。

「……橋本」

——もし。

あのとき、もう少し踏み込んでいたら。頭の中で勝手に続きを作り始める。触れたら。川瀬はどんな顔をする。どんな声を出す。どこまで許す。そこで、はっとする。だめだ俺、何を考えてる。布団を被って顔を覆う。鼓動がうるさい。

でも体の奥に残る熱はどうにも治まらなくて、合宿中ずっと抑えていた欲望を解放する。

「…」

体に溜まっていた熱がゆっくり引いていく。代わりに、重たい後悔が落ちる。俺、何してんだ。明日どんな顔で会えばいい。

「……はぁ」

小さく息を吐く。明日、目が合ったら。今までみたいに平気な顔で笑えるだろうか。天井を見上げたまま思う。触れたいと思う気持ちは消えない。でも。触れるなら、ちゃんと川瀬が選んだときにしたい。そうじゃないと。俺は自分のことが嫌になる。でも、

「……なんで今日は触ってこないの」

触られたくなかったらこんなこと言ってこないよな。あんな顔でまた言われたら、俺本当に、我慢できる自信がない。さっき後悔したばかりなのに、すぐに昂る熱を抑えきれそうになかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ