黒猫ナイトと猫目石(後編)
以前投稿した『黒猫ナイトと猫目石』の後編です。
少し(どころかけっこう)長いですが、がんばって読んでください。
月の猫はどんどん飛ばしていきます。海を飛びこえ街の灯りを足元にし、ついには雲さえ突き破って、地球の輪郭も見えなくなりました。地球を飛び出してからは一気に光の量が減りました。あとはひたすら、所々にきらめきの散る、暗闇の中を突き進んで行くのです。おたがいの顔を見合わせると、黒目がまん丸になっていました。ナイトは、自分が今どこにいるのか、どうやったらもといた場所に戻れるのかもさっぱり分からなくなりました。
それからどのくらいの時間が経過したのでしょうか。
ナイトたちの行く手に、無数の明滅する点で彩られた帯が出現したのです。その帯は、月の猫が一足進めるたびに輝きを増し、だんだんとその幅を広げていきます。
「うわあ、すごいや!」
ナイトは歓声をあげました。
あたりは一面、星の河です。より正確に言うのなら、何か、水ではないもの、言うなれば液体の黒曜石のような、とろりとした透き通る闇をともなって、星が流れていくのです。それは、一見、暗い水面に映りこんだ夜空のようでありながら、無邪気に手を差し入れれば、月でも星でも星雲でも銀河でも、なんでも望むものをすくいとることの許される、不可思議な夢幻の流れでした。時折、ゆるやかで雄大な漆黒の流れに混じって、赤や青、黄、オレンジ、緑、ピンクや水色の丸い光が、決して手の届かない地平へ運ばれていくのが見えました。
河から突き出た暗黒星雲の岩の上を、月の猫は、粉ほどの微小な星を浴びながら、軽々と渡っていきます。左手の切岸の上では、曲線を描きながら細くのびあがったガスを幹にして、赤や桃色の星雲が、酔芙蓉に似た花を咲かせています。右手の方に見える野原では、ちらちらと燃える青白い星が一面に咲き誇り、さながらリンドウの群生のように、時折吹いてくる川上からの風にゆれていました。途中、ねこじゃらしが生えているのを見つけたモンコンが、みさかいなしにゆれる穂に飛びかかろうとしたので、ジェイドと二匹であわてて止めました。
ひときわ強く風が吹きます。ガラスでできた白鳥が、数十羽ほどで連れだって、冬を告げ知らせながらこちらに向かってまっすぐ飛んできます。白鳥たちは小さな猫たちの頭すれすれをかすめていったので、三匹は一斉に身をすくめました。白鳥たちの通過したあとには、冬の朝早くに感じるような、なんとも言えない、清々しくも容赦のない寒気が残りました。あれは冬の精なのだろう、とジェイドが言いました。
突然、月の猫が、がくん、とスピードを落としました。
月の猫が向かっている先に目をやると、すその長い衣服を着た男の人が立っています。銀色の皿とスコップを持ち、浅瀬の水に足をひたして、打ち寄せる金銀のさざなみに白い肌を洗わせています。男性は、月の猫の姿をみとめると、ぎょっとして目を見開き、すばやく水から上がりました。その光景を見た時は何を大げさな、と思っていましたが、それから数秒後、ナイトは男性の行動に大いに納得する羽目になりました。
月の猫が急停車します。躊躇なく川床に足をつっこみ、巨大な足でどろりとした水を割って、あちこちに盛大なしぶきを跳ね上げて、岸のすぐそばで静止します。衝撃で、浅瀬の水がたぷたぷと波打ちました。
月の猫がにゃあ、と鳴きました。ついたぞ、と言っているのです。ナイトたちは次々と大猫の背中から飛び降りると、おっかなびっくり乾いた石の上をたどって、どうにかぬれずに砂の上に下り立ちました。
「ようこそ、地上の猫さんたち!」
男性は、ほがらかに両手を広げて猫たちをむかえいれます。腕を上げた拍子に、長い髪がばらりと広がりました。白金色の髪の房が青白い光に包まれながら、炎のようにうねって、腰のあたりでゆらゆらとゆらめくのです。それはなんとも、この世のものとは思えぬ光景でした。
「わたしはレグルス。このあたり一帯の管理人をしている者だ」
レグルスと名乗った男性は、ぐるりと三匹を見回しました。
「きみたちは、《猫目石》を取りに来たんだね。遠路はるばる、大変だっただろうね。さてさて、どんな力をお望みかな。理由もあわせて教えておくれ」
「幸運をもたらす力がほしい!」
レグルスが言い終わるか早いか、直ちに威勢のいいお願いが飛び出します。発言をしたのは、陽気な白猫モンコンでした。
「それはどうしてだい?」
「それは、おれが《白い宝石》、ありとあらゆる幸運をもたらす奇跡の猫だからだ!」
『カオマニー』という種類の猫は、タイの国では、かつては門外不出の王さまの猫として、何世紀にも渡って大切に扱われてきた歴史があります。この種類の猫は、タイの国では飼い主に幸せを運んでくると信じられており、特にオッドアイ、左右で異なる色の目を持つ猫は、めったにお目にかかれないと珍重されているそうです。
モンコン自身も、カオマニーの神聖性と美麗な容姿に魅せられた家族のもとで、悠々自適な生活を送っていました。モンコンが世話になっている家族は、タイでは指折りの大企業の経営者一族なのだそうです。その一家はモンコンをたいそう可愛がり、うちが繁盛しているのはお前のおかげだと言って、毎日おやつをどっさりくれると言います。
よほど誇らしいのでしょう。モンコンはほっそりしたしっぽをピンと上げ、あごを天に向けて自慢げにそのさまを語りました。
しかし、その揚々とした意気も長くは持ちませんでした。モンコンは目を細め、耳ごと三角の頭を下に向けました。しっぽも申し訳なさそうに垂れさがっています。本当に「シュン」とでも音がしそうな様子です。
「だけど今年に入ってから、飼い主一家は火事だの事故だの、社員の不祥事だの株価の暴落だの、踏んだり蹴ったりの不幸続きだ。あんなに勢いがあった会社も、もうじき倒産だとか言われているんだぜ。おれがついていながらこのざまだ。幸運の猫のこのおれが!」
モンコンは、やりきれない、とでも言うように頭をふりました。首の動きにあわせて垂れ下がった宝石のかざりがぶつかり合い、持ち主に対してじゃらじゃらと抗議の声を上げました。
「このままじゃ、幸運を運ぶ猫の名がすたるじゃないか。まったく情けないよ、あんなにおやつももらっておきながら、恩の一つも返せないなんてさ。近所の猫の間でいい笑い者になるぜ。そういうわけで、親愛なる我が飼い主様の身の上に、いっちょミラクルを起こすべく、熱帯の国から天上の楽園まで、奇跡の力を取りにきたというわけさ」
「きみはなかなか、見上げた根性をしているね。よろしい、きみの願いを叶えてあげよう」
レグルスは鷹揚に笑います。それから、先刻にぎっていた銀色の皿を拾い上げると、中からひとつの石をつまみ上げました。
「だったら、この石がいいだろう。世界中の子どもたちの願いを叶えて回った、流れ星から取れたものだ。望む未来を呼び寄せる力がたっぷり詰まっている。幸運の猫の名にかけて、飼い主一家を幸せにしてあげなさい」
レグルスが取り上げたのは、半分が青、半分が黄色の石でした。向こう側が見通せるほどに透き通り、昼間の猫の瞳孔のように、中央に一本、細長い光の筋がすらりとのびています。
「さあ、受け取りたまえ。これできみは歩くパワースポットだ!」
《猫目石》はレグルスの細い指先を離れて宙に浮かび、モンコンの額に吸い込まれるように消えていきました。モンコンは、しばらくまぶしそうに両の目をぎゅっとつぶっていましたが、やがてまぶたを開き、細長い前足で目をくしくしとこすりながらたずねました。
「どうなったんだ?なあ、おれの目玉、どうなってる?」
「ちょっと、ぼくが見てみるよ」
そう言ってモンコンの顔をのぞきこんだナイトは、はっと息を飲みました。
モンコンのオッドアイは、先程までとは比べ物にならないくらい、格段に神々しくなっていたのです。モンコンの二つの瞳は、良くカットされたダイヤモンドが幾重にも光を拡散させるように、万人の目を引きつけてやまない、無形の輝きを放っています。左の目はもはや黄金色に近いようなレモンイエロー、右の目は透き通るサファイアブルーで、銀製の猫の彫像に、黄と青のサファイアをそれぞれはめこんだようでした。
特にうつくしいのは右目の方で、黒目の周辺で最も鮮やかだった青が、溶けだしてじわじわと流れ出し、縁に行くほど徐々に薄くなって、かぎりなく淡い水色に姿を変えます。もはや色を失うほどに透き通った青は、まぶたの境界をまたぎこえてにじみ出て、朝の光のように白くつややかな毛並みとなって、広がっていくのです。
まさに神秘の猫であり、王国の宝の蔵で秘蔵にされるにふさわしい存在でした。カオマニーの伝説を信じていない人間でも、思わずにぼしや猫缶を供えてお願いごとをしてしまうでしょう。
「すごいよ、モンコン。このままお寺とかに飾れそうだよ。拝みにくる人がたくさんいそう」
「ええ、とってもすてき。美術家に見つかったら、確実にさらって行かれるわね。価値のある美術品なら、大英博物館あたりが放っておかないもの」
「そんなにほめても何もでねえよ」
二匹がかりでほめられて、モンコンはすっかりご満悦です。ひげの先からばちばちと火花が散り、ナイトとジェイドの上にふりかかりました。何かの嫌がらせくらいに寒い曇りの日、重苦しい鉛色の雲を突き破り、陽の光が差してきた時のように、身体がぽうっとあたたかくなりました。レグルスによれば、これが幸運の素だそうです。幸せのもらし方にも、ついつい大盤振る舞いしていまいたくなるモンコンの性格がよく表れていました。
「白猫君の方はどうやら上手くはまったみたいだな。予想通りだ」
レグルスは満足げにうなずくと、ジェイドの方に向き直りました。
「お次はそちらのお嬢さんのご要望をうかがおうか。さあ、きみはどんな力がほしいんだい?」
「魔法や奇跡を起こす力がほしいの」
ジェイドはそう答えました。
「わたしの飼い主はすばらしい魔女でね。言葉の力で、世界中の子どもたちに魔法をかけるのが仕事なの。大人だってほしがるくらい、すてきな魔法が使えるのよ」
ジェイドの飼い主は、小説を書くのが趣味の魔女です。より正確に言うのなら、「お話を考えるのと、新しい魔法のアイデアを思いつくのだけはやたらと上手いけれど、実際に魔法を使うのはてんでポンコツな落ちこぼれの魔女」だそうです。
そう言う次第でジェイドの飼い主は、本業の方ではまったく成功しませんでした。しかし、児童文学作家としては大成功し、彼女の手がける物語は、世界中の子どもたちに愛されています。たくさんの大人たちも同様で、彼女の「魔法」にすっかり魅了され、次から次へと仕事を持ち込んでくるのでした。
ここまでは、誰の目から見ても非常に上手くいっているように見えました。
ところがです。ジェイドの飼い主が、「もう何も書けない」と言い出したのです。
「あんまりみんながキャロルの魔法をほしがるから、魔法の種がすっからかんになってしてしまったのよ。それでキャロルは、楽しみにしている子どもたちに申し訳ないって、すっかりノイローゼになってしまって。それでもあの人たち、『なんでもいいから、早く原稿を上げてください。先にお金は払ってあるんです』って、そればっかり!」
尽きることなく汲み上げられるほどの苛立ちと、非常にわずかな誇りが奇跡の割合で配合された表情で、ジェイドは飼い主の窮状を訴えました。
「だから、わたしが魔法を使えるようになったら、自分で新しい魔法を考えなくてもよくなるでしょ。そしたら見たものをそのまま書くだけだから、キャロルの負担が軽くなるんじゃないかと思って」
「きみは使い魔の鑑だね」
レグルスはあごに手をやって、よろしい、非常によろしい、と、感心したようにつぶやきました。
「世界中の人がきみたちを待っているなら、とびきり強力な魔法が必要になるな。それじゃあ、さっき見つけたとびきりのを出してあげよう。確かこのあたりだったはずだ」
レグルスはそう言って、薄く広がる水面を踏み破り、ざばざばと河の中に入って行きます。それからしばらく、川床の石をどけたりしながら、ごそごそと浅瀬を探っていましたが、
「あった、あった」
と声を上げ、何か潤んだように反射するものを指先にかかげながら、興奮した面持ちで岸に上がってきました。
「見てごらん。これはただの翡翠に見えるが、オーロラから落ちた緑の染め粉が凝固して結晶になり、ここに流れついたものだ。オーロラの一部だったころから集めてきた、みんなの驚きやわくわくや、神秘の力がおよぶ世界をおそれうやまう心が詰まっているから、これを使えば、空中遊泳でも変身でも医術でも、どんな魔法だって使いこなせるようになる」
レグルスが河の隈から取り出したのは、濃い翡翠色の《猫目石》です。清流から引きあげられたばかりの翡翠は水滴をはじいてみずみずしく、あたりに光の粒を散乱させています。モンコンのものとちがって透き通ってはいませんでしたが、同じように、中央に光の帯が走っていました。
それだけでも十分魅力的な宝玉でしたが、レグルスは、まだまだ納得がいかないようでした。
「全ての人を魅了する魔法の持ち主と言うからには、もっと、見る者をとらえてはなさないような目力があってもいいだろう。うん、星雲でできたような目がいいな。だったら、少し輝きを足すか」
レグルスは、川辺のガマから淡い黄色の星雲の穂をちぎってきて、翡翠の玉にぐるりと巻きつけました。それから、河の流れをひとすくい、《猫目石》の上にふりかけました。砂ほどに細かな金銀が降り注ぎ、水を含んで玉に貼り付いた穂の上に身を横たえて、離れなくなりました。
「さあ、どうぞ。これを使えば、きみは、みんながあこがれるスーパーキャットだ!」
翡翠色の《猫目石》を額に受けて、ジェイドの目は、今以上にうつくしい、唯一無二の宝玉へと姿を変じていきました。どこまでも深い瞳孔の黒、楕円を取り巻く鮮やかな緑、外縁の少し緑がかった淡い黄色。その三層が、幻想的に重なり合い交じり合い、あたりにきらめく星々をも絡めとって、一度のぞきこめば目がはなせなくなるような、不思議な色調を作りだしていました。
「今ならなんでもできそうな気分だわ」
ジェイドはまぶたをぱちぱちさせてそう言いました。ジェイドの言うところの「本場」の魔法が見て見たくなったナイトは、「何か魔法を使ってみてよ」とお願いをしてみることにしました。
「う~ん、そうねえ。何がいいかしら」
ジェイドは、アイデアの泉の栓をひねって、どうにかして素晴らしい思いつきを絞り出させようと試みました。はっきり言ってジェイドは、とっさのインスピレーションでは飼い主に劣る自覚がありました。あちらが天然ものの湧き水ならば、ジェイドのひらめきは、使おうとするたびにいちいち水を引いてこないといけない、非常に手間のかかるたてつけの悪い噴水でした。それでもみんなが喜ぶ顔が見たかったので、ジェイドは精一杯頭をひねります。
待ち望んでいた水源は、じきに探り当てられました。
「あっ、そうだ、こんなのはどうかしら」
ジェイドは創り出す者の喜びに満ちた顔でそう言うと、先だけが白く染まった前足で、卵型の石をちょいちょいとつつきます。
「小鳥になれ!」
ナイトの耳には、その声が妙に反響して聞こえました。ジェイドの豊かな毛がぶわっと逆立ち、翡翠の目から、パチパチッと無数の星が飛び出します。これこそ魔法の眼です。ナイトは、目の前の三毛猫が、まぶたの下に宇宙を二つ、こっそり隠し持っているかのように錯覚してしまいそうになりました。
ふいに、甲高い、夢見るような旋律の、鳥の歌が聞こえました。
ピシッと石の表面に亀裂が入ったかと思うと、中から白い光があふれだしてきます。ひびが存分に育ち切り、灰色の石の全体を覆いきったその瞬間、石が砕けました。間髪入れずに、光の中から青い小鳥が飛び出してきます。小鳥は二、三度ほど、低く飛び回りながらさえずったかと思うと、みんなの周りをひとめぐりして、底なしの天頂へと舞がって行きました。あとは、頭の上から歌声だけが降り注ぎます。
「うわあ、すごいや」
目の前で起こった奇跡に歓喜して、ナイトはあたりを跳ね回ります。
「さっすがあ」
モンコンは、口笛を吹いて賞賛の意を表しました。
「思ったより上手く行ったわ」
ジェイドは魔法の成果が飛び去った虚空を、とても満足げに見上げます。
「これならどんな依頼が来ても安心ね。帰ったら、さっそくキャロルを手伝わなくちゃ」
「最後は、きみだね」
レグルスは、ナイトに不思議な色彩の瞳を向けました。
「さあ、言ってごらん。きみの願いはなんだい?」
レグルスの言葉は口調こそあたたかでしたが、芯の部分に氷の破片がまぎれこんでいるようでした。値踏みされているというか、試されているというか、妙な居心地の悪さがありました。
―もし、ここでレグルスの気に入る答えを出せなかったら、どうなるのだろう?
非常に重苦しい、妄想というより予感というべきものが、ちらりと頭のすみからほとばしり出て、脊髄の上をすばやく駆け下っていきます。ぴんと張っていたしっぽから力が失われ、徐々に地面に近づいていきました。恐れているのです。意識していないと、耳やひげが勝手に垂れ下がってしまいそうでした。
ナイトは、モンコンもジェイドも、この威圧感に耐えたのだろうかと思いました。
レグルスは、ちょっと見ただけでは、そこらにいる普通のお兄ちゃんのように見えます。しかし、この青白く燃える髪の男性は、どう考えても絶対に人間ではありえませんでした。
その最たる証拠が、月長石の瞳です。ただ珍しい灰色をしているだけではないのです。複雑に青を孕んで灰色ぎみに白濁し、その円の中に無数の虹を遊ばせています。造りこそは白目と黒目で人間のものと同じでしたが、その中央に浮かぶ瞳孔は、猫のように鋭い楕円形です。いや、猫というより、白いライオンとかユキヒョウとか、何者の支配をも受け付けない、野生の大型の肉食獣の目であるように思えました。
「九生分の命をください」
それでもナイトは、レグルスの瞳を見すえて、はっきりと願いを口に出しました。地上ではルミちゃんが待っています。無情にも理不尽にも、まだ幼い命を持ち去ろうとする卑劣な死神と戦っています。ここで所在の分かりもしない逆鱗にひるんであきらめたら、決して代わりのいない大切な人に、二度と会えなくなるかもしれないのです。
目の前の絶対者にどんな制裁を食らうとしても、ここで引き下がるわけにはいきません。
「昔から、こういう無茶を言い出すものはちらほらいたが・・・・・・ずいぶんと重い願いをたずさえてきたものだね。きみが願おうとしているのは、自他の命を左右する力であって、ちょっとした奇跡の枠をこえた法外なものだ。幸運を引き寄せるとか、物理法則を超越するとか、そういった、まともに使っているかぎりは実害のない、ささやかな逸脱とはわけがちがうんだ。あまりにも強大で、危険な力だ。どうして、そんな物騒なものがほしいと思ったんだい?」
ナイトはレグルスに向かって、ルミちゃんが自動車事故にあったことを話しました。それ以来、ルミちゃんがずっと目を覚まさないことも話しました。
「近所の雪丸じいちゃんは、猫には九つの命があるって言っていました。それは自分のために使うこともできるし、他人のために分けてあげることもできるって。だから、九つの命を手に入れて、ルミちゃんを助けるために使うんです」
「そうか、雪丸が教えたのか・・・・・」
レグルスは、純白のひげが生えたあごに手をやって、しばらく考えこむようなそぶりを見せていました。
「雪丸は、ほかに何か言っていたかい?」
「いいえ、何も」
ナイトは少しきょとんとしながら、首を横にふりました。
「あれも無責任な男だ。何も説明してやらんとは」
レグルスは大きくため息をついて続けます。
「いいかい、特別な力を手に入れるということは、必ずしも楽しいことばかりじゃない。もしかすると、たくさんの人間たちから狙われるようになるかもしれない。富であれ、誰かの心であれ、安全であれ、名声であれ、人間は望みのものを手に入れるためなら、なんだってやる。そのためには、どんな残虐な手段をもいとわない。それがは歴史が証明している」
そう訴えるレグルスの顔には、激しい後悔の色がのぞいていました。傷はおろかしわ一つさえ、まともに刻まれることも許されなかった肌の白さは、かえって、並大抵ではないであろう、隠された痛みの存在を暗に主張しています。
―どうして自分は、どんなにひどいことが起こっていようとも、助けを求める相手に手を差しのべることさえできない河のほとりに、ずっとしばりつけられているのだろう。
声を出せずに、そう泣き叫んでいるように感じました。
「命がかかれば特にそうだ。永遠の生命なんていうバカげた代物は、古くから大勢の人間をして、大量の血を流さしめた。あるいは、たった束の間、ある瞬間を迎えるまでながらえていられるだけのおまけめいた寿命だって、多くの人をひきつけてやまない。そうした人間たちの心の動きは、今のきみにであれば十分すぎるほどよく分かるだろう」
レグルスは悲しみをたたえた目でたずねます。
「きみが守ろうとした飼い主だって、最後まできみの味方でいてくれるとは限らない。それでもきみは、そんな割に合わない危険をおかしてまで、命をあがなう力がほしいというのかい?」
「もちろんだよ!」
ナイトはいきおいこんで答えました。
「ルミちゃんがいなくなっちゃったら、ルミちゃんと一緒じゃなかったら、これから先、どんなに楽しいことをしたって、絶対につまらなくなると思う。だって、この先ずっと、ルミちゃんに謝り続けながらじゃなくちゃ、生きていけなくなる気がするんだ。ぼくになら何とかしてあげられたのに、ぼくは何もしなかった。何もしてあげなくて、ごめんなさいって」
ナイトは、ルミちゃんがナイトにとってどれだけ大切で、反対に、ナイトをルミちゃんがどれだけ大切に思ってくれているかを、一所懸命に訴えました。ルミちゃんが、ナイト以外のたくさんの人にとっても、かけがえのない存在であることも話しました。ナイトが守ろうとしているものは、ナイト個人の損得勘定だけで結論を出していい代物ではないのです。
もしかするとナイトには、レグルスの心配する通り、ことの重大さがよく分かっていないのかもしれません。それでも、そんな不確かさを差し引いたって、これだけははっきりと言い切ることができます。
「ぼくは、ルミちゃんを助けられるのに何もしなくて後悔するより、やれることはやって、それでも嫌われてから後悔したい。そうしたら、ルミちゃんやみんながぼくのことを嫌いになるまでの時間の分だけ、ぼくは自分のやったことを、くよくよ悩んだりしなくて済むから」
ナイトは金の油を燃やすように、巨大な火と同じ色の瞳で、レグルスをまっすぐに見つめました。このままにらみ続けていたら、目の前のものが発火しかねないほどの気迫でした。
「それなら、よろしい」
レグルスは根負けしたように、さびしげにほほ笑んでうなずきました。そして腰につけた巾着の中から、半透明の、黄金色がかった琥珀の玉を取り出しました。良質な油がうちに火を抱えこんだまま時を止め、内側で永遠にその火を燃やし続けているかのような、鮮烈な色彩です。例の帯状の光の代わりに、針状の黒いかすかな模様が、光の泡を身にまといながらしずかに中央にたたずんでいました。
「九回にわたり死の危険を退けられるほどの、生命の力に満ちた《猫目石》だ。この河の上流、星の生まれる場所から流れてきたもので、惑星を作る時にあまった命の欠片でできている。なかなか入手できない貴重なものだ。心して持って帰りなさい」
ナイトだけの《猫目石》が、淡く発光しながらゆっくりこちらに近づいてきます。
額に冷たい感覚がしたかと思うと、すうっと皮膚と溶けあうようにして吸い込まれ、じんわりとしたあたたかさが目の周辺に広がっていきました。閉じたまぶたの内側では、水色やピンク、パステルグリ―ンなどの光の粒が粉雪のように降り注ぎ、脳がゆさぶられるような感覚がしました。まぶたを開けても閉じてもまぶしくて、ナイトはずっと目をつぶっていました。
そんな状態がどれくらい続いたでしょうか。光の群舞がやみ、ナイトは目を開けました。
目の前には、レグルスと月の猫、ジェイド、モンコンが立っています。《猫目石》を受け取る前と後で、世界の見え方に大したちがいはありませんでした。ナイトはおそるおそるたずねます。
「ぼくの目、どうなってる?」
ジェイドは、ナイトの顔をじっくりとのぞきこみ、
「暗い水平線のぎりぎりに出ている、大きなオレンジ色の月みたい」
と感想をもらしました。
「おれとしては月って言うか・・・・・見ようによっては、目の代わりに、太陽を二つはめているみたいに見えるぜ」
あとからのぞきこんできたモンコンはそう言いました。それから、少し考えた挙句、
「とにかく、ただ者じゃない感じはする。おれが死神だったら、夜道で出くわした瞬間、回れ右して全速力で逃げるね」
と付け足しました。モンコンとしては、ほめ言葉のつもりでした。
「みんなが地上に戻るための手段を捕まえてくる」
そう言うとレグルスは、タモを持って草原の方に消えました。それから十分ほどたってから戻ってきたのですが、その時レグルスが手にしてい物体を見て、猫たちは一斉に背中の毛を逆立てました。とにかくまぶしくてやかましかったからです。猫は大きな音を立てるものが苦手でした。
レグルスは、ほうき星を三匹捕まえていました。ほうき星はレグルスの大きな手の中で、手持ち花火のように爆ぜ、しゅうしゅう音を立てる尾をバタバタさせて、どうにか脱走を試みようと身をよじっています。レグルスによれば、ほうき星の尾から出る粉をかぶれば、どんな場所でもどの時間でも、自分の行きたいところに最速で行けるのだそうでした。
「もうお別れかあ、つまんないや。もっと、みんなでお話したりしたり、一緒に遊んだりしたいなあ」
何ら思惑もなく、ただただ思いついただけのことをナイトは言いました。ジェイドが翡翠の小宇宙をキラキラさせて賛成を表明します。
「そうね。またみんなで会いたいわ」
「そうだよな、そう思うよな」
ジェイドに続いて、モンコンも同意を示しましたが、ひどく歯切れの悪い言い方でした。それからすぐに下を向くと、
「だけど、おれたち、下手すりゃ地球の反対側に住んでいるんだぜ。ちょっと大冒険をすれば会えるっていう距離でもないじゃないか」
と言いました。モンコンらしくなく、後ろ向きで非建設的な言いぐさでした。せっかく仲良くなったのに、もはや会う機会さえ得られないことが面白くないのです。まったく同じ思いだったナイトは、自分の軽率な発言を恥じました。叶わないことを口に出して、みんなに気づきたくもないことを気づかせるくらいなら、最初から言わない方がましだった、と思ったのです。
「いいえ、きっと会えるわ」
しかし、ジェイドだけはちがいました。ジェイドは胸をそらして宣言します。
「あなたは幸運の猫で、あなたは死神にだって勝てる猫。そしてわたしは奇跡の猫。こんなに素晴らしい猫がそろいもそろって、何を弱気なことを考えているの?きっとみんな、すぐにでも再会できる。仮に無茶でも、このわたしが何としたって実現させてみせるわ」
さすがは飼い主の代わりに魔法を生み出そうとするような、しっかりものの果断な猫です。頼りになることと言ったらこの上ありません。なんだかナイトも、本当にみんなが再開できるような気がしてきました。
「そうだ、きっと会えるさ。きみたちは魔法の猫なんだ。やろうと思えばなんだってできる。だから、くれぐれも幸せなまま、楽しく人生をまっとうしておくれ」
レグルスも、微笑んで太鼓判を押しました。どこかかげりのある笑顔でした。
「さあ、みんな一列に並んで。行きたい時間と場所を、しっかりと頭に想い描くんだ」
いよいよお別れの時です。レグルスはほうき星をにぎった左手をぐっと前に突き出します。右手の人差し指がほうき星の尾を弾くと、蝶の鱗粉にも似た光の粉が、わっとあたりに飛び散りました。
ほうき星の粉を浴びた猫たちは、ぼんやりと発光しながらふわふわと宙へ浮かび上がります。
「それじゃあ、また」
「じゃあな」
それぞれの場所に飛ばされる寸前、ジェイドは優雅な仕草で前足をかかげ、モンコンは、青い方の目でウィンクを投げかけます。ナイトもにこにこと笑って、うなずきました。
「うん、またね」
車の音がします。
気がつくと、ナイトは、冬の冷たいアスファルトの上にいました。水平線の下から這い出した夜の寒さが、ひたひたと足元から忍び寄ってきます。どうやら、横断歩道の前にいるようです。あたりは一面、熟れ柿の色に染まっており、立ち並ぶ家々は活動をゆるやかにして、家人もろとも、今夜眠りにつく支度を始めていました。
反対側の歩道には、ピンクのランドセルを背負ったルミちゃんが立っていて、信号が青になるのをお行儀よく待っています。身体のどの部位も損なわれず、いたって元気そうなルミちゃんを見て、ナイトはひどくほっとした気分になりました。
―なんだろう、あれ。
ルミちゃんの顔がなんだかかすんで見えた気がして、ナイトは目をこすりました。
よくよく目をこらしてみると、ルミちゃんの肩のあたり、上半身を包み込むように、黒いもやのようなものがうごめきながら取りついています。ナイトには、これがルミちゃんをさらって行こうとする悪いもの、いわゆる死神と呼ばれる存在なのだと悟りました。
しばらく見ていると、死神は分裂をはじめました。上半分が風船型にふくらんでくびれをつくり、限界まで体を薄く引き延ばして、実体もなさそうなくせに重たげな下半分から自分を引きちぎります。その上半分がふらふら道路の先へと漂って行ったかと思うと、ブオオオオオオン、という殺意のこもった低いうなりが、こちらにまっすぐに近づいてきました。
歩道の信号は青です。ルミちゃんは丁寧に左右を確認してから、わくわくしきった顔で横断歩道を渡り始めます。家に帰ってから待ち受けている、ナイトのお誕生日会に思いをはせているのでしょう。そこへ、赤信号の制止をふりきって、ルミちゃん目掛けてトラックがつっこんできます。かなりのスピードです。八十キロくらいは出ているのではないでしょうか。
ナイトは決然と立ち上がると地面を蹴り、ルミちゃんと、トラックの間に割り込みました。それから、近所の性格の悪いどら猫をおどしつける時のように、四つ足に力をこめます。全身の毛がぼわりと逆立ちました。静電気のように激烈で、強烈なエネルギーを秘めた光が、パチパチとはぜるような音を立てて毛の上を駆けめぐります。
―あっちに行け!
しっぽを最大限にふくらませ、背中の毛を思いっきり逆立てて、フシャー、とトラックを威嚇しました。トラックは激しく蛇行しながら右へ右へと曲がっていき、歩道に半分ほど乗り上げながら、ナイトたちの側を猛スピードで通り過ぎていきます。タイヤが、不必要に道路をひっかく甲高い音を響かせて、片足立ちになりつつ、大回りで空き地につっこんでいきます。
トラックは、空き地の盛り土につっこんでとまりました。トラックにとりついていた黒いもやは、風にあおられたビニール袋のように吹き飛ぶと、ぶちぶちと千切れ、細かく砕けて塵になり、路地裏の薄暗がりに紛れて消えていきました。死神をやっつけたのです。ルミちゃんにまとわりついていた残りの方も、ナイトにはかなわないと悟ったのか、地面をはいずりながらこそこそと逃げていきます。ナイトは小さく快哉を叫びました。
上手く事態を消化できなかったルミちゃんは、横断歩道の上で目をぱちくりしていました。ナイトは満足げに鼻を鳴らすと、一声ナァーン、と鳴いて、トコトコとルミちゃんの足元に歩み寄ります。
―ルミちゃん、大丈夫だった?
驚いたのはルミちゃんです。なぜなら、今頃おうちで自分の帰りを待っているはずの黒猫が、自分の目の前にいるのですから。
「ナイト?」
ルミちゃんはぎこちない動作でしゃがみこみました。それから両手でナイトの肩のあたりをつかんで、自分の目の高さまで持ち上げます。後足の肉球はしっかり地面についたまま、上半身だけが引っ張られて、びろーん、と胴体が伸びました。
「どうしてこんなところにいるの?おうちから出てきちゃだめだってば。あ、もしかして、お誕生日会が待ち遠しかったの?」
ナイトは苦笑まじりに鼻を鳴らしました。
これだから人間は。いつも頭を使っているのは自分ばかりだと思って、猫の一世一代の遠謀深慮なんて気づきもしないのです。
でも、それで構いません。大好きな人と一緒にいられるなら、なんだっていいのです。
それからしばらくたった日曜日の朝のことです。お父さんは唐突にこう宣言しました。
「ルミ、夜ご飯はみんなでお寿司に行こうか。今日は特別に、ルミの好きなものをなんでも注文していいからね」
ルミちゃんは食パンを放り出してばんざいをし、やったー、と歓声を上げます。まったく関係のないナイトも、釣られて、ニャー、と喜びの声を上げました。だって、おさかな食べ放題なのです。絶対に連れて行ってもらえないのは分かり切っていますが、想像するだけでうきうきと踊り出しそうになってしまいます。うらやましい限りです。
「ちょっと、そんな余裕あるの?」
けわしい顔をしたお母さんがお父さんをこづきます。お父さんは、にやり、と人の悪い笑みを浮かべると、どうだと言わんばかりの表情で、お母さんにスマホの画面を見せつけました。
「実は、一年くらい前に買っておいた、メーオ・カオ社の株価が面白いくらいに上がったんだ。日本じゃあんまり聞かないけど、ここ、タイの有力な複合企業なんだよ」
「へえ、ここ、マスコットに白猫がいるのね。オッドアイがきれいだわ」
お母さんは、自分のスマホでメーオ・カオ社について調べてみたようです。
メーオ・カオ社は、最近まで倒産寸前だと言われていました。ところが、ついひと月前、白猫の「モンコンくん」をイメージキャラクターに使った新商品のペットフードが大当たりして、驚異のV字回復を見せたのでした。それからは規格外のラッキーの連続で、新しくルビーの鉱脈を見つけたり、食品部門でヒット商品が誕生したりと、幸運の神様がついているとしか思えないような快進撃を続けていました。
その結果、将来有望だということで、みんながメーオ・カオ社の株を争って求めるようになり、投げ売り同然だった株価が一気に跳ね上がりました。こうして生じた、売った買ったのお祭り騒ぎに乗じたお父さんは、どさくさにまぎれて五百万円もの大金をもうけたのでした。
「五百万円も?」
ルミちゃんは、大きな目をまん丸にして驚きました。
「お父さん、すごーい!」
いったい、それだけあれば猫缶がいくつ買えるのでしょうか。もともと貨幣というものをよく理解していないこともありますが、ナイトには想像もつかない額でした。
お父さんは、大好きなルミちゃんにほめられて調子にのりました。
「そうだろう、そうだろう」
お父さんはすっかり得意になって、株は人気のない企業を狙うのが一番だの、やっぱりこれからはアジアの時代だのと、たいして面白くもない自己流・効果なしの投資理論をくどくど披露しだしたので、ルミちゃんは、途中からお父さんを無視してテレビを見始めました。
お父さんとニュース番組、どちらを向いても無関心と無関心、退屈対退屈のせめぎ合いで、わずかな差でニュース番組の方がましだと判定されたためです。それでも無関心には変わりがありませんから、ルミちゃんは至ってつまらなそうに、男性アナウンサーが事件や事故を読み上げるのを聞き、次々と切り替わる映像を光のない目で追っていました。
『それでは、次のニュースです』
画面の向こうの無関心には一切めげず、男性アナウンサーは、少しだけ楽しげに語尾を上げた以外、先程までとまったく変わらない調子で話し続けています。
『昨日、映画『ジャックと七つの魔法』の本邦初公開を記念したイベントに合わせて、原作者であるイギリスの著名な児童文学作家、キャロル・ビリンガム氏と、愛猫のジェイドちゃんが来日し、試写会を盛り上げました。そして、今日はなんと、お二人がスタジオに来てくれています!』
「ええっ!」
「フミャッ⁉」
その瞬間、ルミちゃんとナイトは、そろって素っ頓狂な声を上げていました。
見慣れたニュース番組のスタジオの中に、黒いスーツを着た、鼻筋が高くて目の大きい、豊かなプラチナ・ブロンドの女性が入ってきたのです。キャロルと呼ばれた女性は、腕に大きな三毛猫を抱いていました。ぜいたくなコートのような豊かな被毛と、きらめく翡翠の瞳を持つ、気品にあふれる三毛猫です。それはどこからどう見ても、星の流れる河のほとりにいた、「魔法の三毛猫」、ジェイドに瓜二つでした。
「お父さん、お母さん、見て見て!わたしの好きな本の作者がテレビに出てる!」
ルミちゃんはお母さんのエプロンを引っ張りつつ、大きな目をきらきらと輝かせて叫びました。お父さんは、ルミちゃんから無視されたショックでしばらく立ち直れそうもありません。
「あら、良かったわね」
お母さんは洗濯物を山ほど抱えたまま、テレビの方に目をやります。
「そう言えばこの人、あなたが本屋の前で散々駄々をこねていた、猫が主役の新刊本も書いたのよね。ええと、なんてタイトルだったかしら?確か、『魔法のサビ猫』だった?」
「『魔法の三毛猫』だってば!あの本、学校でも人気なんだよ。学校の図書室でも予約でいっぱいで、みんなが読みたがるからなかなか借りられないの。わたしだって早く読みたいのに!」
「しばらくがまんしたらルミの番になるわよ」
「だーめ、今すぐ読みたいの!お母さん、この本買って!」
「ダメよ。ああいうシリーズものって、次から次へとキリがないもの。それにあなた、どうせ一回読んだらほったらかしにするでしょう」
「そんなことないもん!何回も読むもん!」
「他の本なら、いくらでも買ってあげるから」
「ヤダ!お母さんが買ってくれる本って、算数の本とか社会の学習まんがばっかりじゃない」
すぐとなりで本の購入代金をかけたビブリオバトルが開催され、リビングはかなり鼓膜に不親切な状態となっていましたが、もはやナイトの耳には入りません。ナイトの目はニュース番組にくぎ付けになっていたのです。
テレビ画面の中では、ひざを曲げて中腰になった女性アナウンサーが、三毛猫に向かってマイクを差し出します。
『ジェイドちゃん、日本のみなさんに向けて何かコメントはありますか』
三毛猫はマイクに向かって、ニャー、と可愛らしい声で鳴きました。
―日本のみなさん、お会いできて光栄です。昨日いただいた、液体おやつのまぐろ味はとてもおいしかったです。あと、かつお節。あれもすてきね。木のかけらみたいな姿をしているけれど、見た目に反してとっても風味豊かだったのが驚いたわ。イギリスでも毎日食べたいくらい。
アナウンサーの質問に堂々と答える姿はとても優雅で、玉座に座る女王のような気品があります。もっとも、周囲の人間には一言だって、内容はまともに伝わってはいないのですが。
『うんうん、そうですか。ありがとうございます。ジェイドちゃんは、日本のみなさんにお会いできて光栄です。みなさんも映画を楽しんでくださいね、と言っています』
女性アナウンサーはマイクを自分の方に戻すと、至極いい加減なことを言いました。相変わらず、猫の言っていることは、基本的には人間に伝わりません。まあ、それで不自由もしないのですから、今さらとやかく言うほどのことでもないのかもしれません。
ジェイドはテレビの向こうから、小さな視聴者に向かってウィンクをひとつ投げかけます。
―それから、小さな夜の騎士さん。今日、飼い主一家がおでかけの準備をしているなら、どうにか荷物にもぐりこんで、なんとしてでもついていってね。きっと、すてきなサプライズがあると思うの。
さすがは、ジェイド。ナイトはにやりと猫の悪い笑みを浮かべると、ソファーのわきに放置されたままになっている、お父さんのお出かけ用のリュックサックに忍び寄りました。リュックサックはナイトが入り込めるぎりぎりの大きさで、中には乱雑にものが詰め込まれてせま苦しく、でこぼこしています。居心地は少々どころではなく悪そうなことは請け合いでした。
リュックサックに全身を収めきる寸前、ナイトは、ふと背後をふり返りました。テレビごしに、ジェイドの翡翠の瞳と目が合います。
ジェイドは晴れやかに笑って言います。
―ねえ、ナイト。無茶をしてまでもまた会いたいと思える人がいるって、すてきなことよね。底なしに力が湧いてくるもの。なんでもできる気がするわ。
本当にそう思います。だって、もうすぐ友だちに会えるのだと思えばこそ、居心地の悪いリュックサックにだって、我慢ができるのですから。
――終わり――
ここまでお読みいただきありがとうございました。
猫たちの不思議な旅を楽しんでいただけたらうれしいです。




