【第一回】文房具で書くのが好きだ。それもかなり
活字中毒、読書中毒という言葉は時おり目にする。
毒という一文字が入ってはいるけれど、わたしが見かける皆さんは大概、本を読むのが好きで好きでたまらない! という意味にて使われている。肯定的だ。
読書に恋し、ページの中の世界に没頭する皆さんに幸あれかし。
しかし【読書中毒】をよく見聞きする一方で、筆記中毒というのは聞いたことがない。
本の虫の人が、≪読んでいれば幸せ≫なのと同様、≪書いていれば幸せ≫と言う人々も存在するだろうに。
日記やメモ、議事録に手紙。ジャンルは様々だが、筆記用具を使って何かの文字配列で紙を埋めていればもうごきげん。書いて書いてまた書いて、……ああ気がついたらまた書いてるぅ、そのくらいに書くのが好きな人びとというのは、あまりいないのだろうか?
まあ、つまりわたしである。
最近になって、ハイパーグラフィアという言葉があることを知った。しかし自分はそれとは違う気がする。
生活に支障をきたすほどに、しじゅう書いていなければ気が済まない……というレベルではないからだ。その逆、書くのが楽しみで他の仕事を倒すのに馬力が出たりする。
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昔から、かくと言う行為そのものがとても好きだ。描くこと、書くこと。
鉛筆やペンを使って紙の上に秩序ある痕跡をつけるという、行為そのものに大きな魅力を感じている。
何でか、などと理由を探すのは意味がない。
わたしは自分の中にある自然に従っているだけだ。すなわち、気持ちいいから。
ちなみに、わたしは書くことが好きなだけであって、うまいとは一言も言わぬつもりである。
きれいな字、うつくしい字を書こうと努力することはない。むしろ緊張してしたためた便りなどの中で、わたしの字はみにくく委縮してしまって実にしのびなくなる。
小学生の頃からお習字も大きらいであった。
書家の母が英才教育をほどこそうとして、はじめて【あ】の文字を描いたわたしを叱った。
うずまき、増殖するケルト写本のトリスケル文様のごとき平仮名の【あ】なのだ。くるくる筆を回転させつつかけばよかろうと思ったのだろうが、そういった幼な子の原始の美は母と言う教師には届かなかったのである。
叱られてふてくされ、墨汁のにおいと一緒にわたしは書道を嫌いになった。
後年も母に会うと、時たま蒸し返して笑う話題である。いやむしろ、わたしのケルト好き運命を予言するできごとであったのだが(違う)。
と言うわけで、わたしは主に毛筆以外による一般的な筆記が好きだ。
とにかく書くのが幸せなのだから、もちろん物語も手書きである。このエッセイも手で書いている。
すべて紙上に書き出し終わりまで書いてから、パーソナルなコンピューターの力をかりて、かたかた電子の字にしてゆくのだ。
いまどき小説を書いておられる皆さまと言うのは、プロでもアマチュアでも、脳内からじかにPC入力でテキスト化されていらっしゃると思う。
手書き派というのは少数派なのだろうが、たまにネット上にて見かけるとその直筆原稿がべらぼうなBelles et Beaux、すみません取り乱しましたと謝りたくなるような美筆達筆なのでおどろく。
比べると、私の手書き原稿は難解だ。
誤字脱字はもちろんのこと、摩訶不思議なあて字を使っているところが多々あり、自分以外に読み取れる人がいるとは思えない。シャンポリオンだってぶち切れるだろう。
一度OCRなる高度技術を試してみる気になったのだが、スキャンしたAIも迷路のように縦横する挿入に立ち向かえなかったらしい。
非常にまじめなシーンの一ページが、冗談だらけのお花畑に変わってしまった。
(いや……。AIにとって、それはお花畑だったのだ。自分と異なる他者の感覚知覚を、否定してはならない……。)
その修正に時間をかける無駄を、わたしは悟った。
初めから自分で自分の暗号文を解読し、かたかた入力するしかないのである。
そういう手間を加えてまで、どうして手書きを続けているのかと言えば。
タイトルに戻ることになる。文房具で書くのが、何よりも好きだから。
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具体的なことも書いてみよう。わたしは主に、罫線ノートに鉛筆あるいはシャープペンシルで書き連ねている。
物語を書き始めた頃は、子どもの学校ノートの使い残し部分などに書いていた。反故紙やチラシ裏でも足りなくなり、実家に行ったときに弟がためこんでいた何十冊もの古いノートをもらってきて、それにも書き尽くした。
物語、という≪はっきりかきたい長いもの≫が見えてきた時、書く手は止まらなくなっていったのである。手が勝手に書いたらしき部分も、実はたくさんある。
と言うわけでわたしは久しぶりに、ノートを頻繁に買うようになった。
昭和ふたけた生まれのいいおばさんが、百均だの雑貨店などで棚の前「うーん」と屈みしゃがみこみ、かわゆきファンシーなノートを両手にうんうん悩み唸ってから、結局は両方三冊ずつ買ったりする。
なるべく人の少ない平日朝方に行っているので、どうか世間さまには許してほしい。
(※そうして買ったのが三冊とも、書くはじからページの落ちる不良品だったとしても書き切るのです)
そのノートは罫線、これに尽きる。A5でもB5でもいいが、とにかくうっすら地平線が入っていてほしい。地に足のついた文が書ける気がする。いや、どんなのだ。
子どもや家族のおさがりノートをもらって書いていた頃は、必然的に様々なタイプのノートを試すことになった。
英語や音楽と言った利用科目別に特化されたノートは、ぶっちぎり苦手である。ます目状になった方眼紙タイプも性に合わない。
そう言えば、いわゆる「原稿用紙」も以前は大の苦手だった。
大昔の文豪が、あのます目ひとつひとつを丁寧に埋めていたのかと思うと、憧れるよりぞっとする。
四百字の最後あたりまで書いて、『ナイアル』を『ナイル』と縮めて書いてしまったことに気づいたら、一巻の終わりではないか。どっちもエジプトっぽいからいいじゃん、で済むわけはない。『ル』のますに小さく『ア』を書き込んで同居させることなんてできない。『ア』と『ル』とは、確固たるプライベートひとますスペースを有さなければならないのだから。
よって、くしゃッと丸めてごみ箱へダンクシュートするしかなくなる。これはきつい、実にきつい。
ひとつの物語を作り上げるのに、一体どれだけの犠牲が必要になるのだろう?
と言うか一体どれだけの原稿用紙ストックが必要になるのだろう?
大家谷崎潤一郎先生は、やはり文房具になみなみならぬこだわりを持っていらしたと思われる。
随筆「文房具漫談」の中で、原稿用紙を自作する様子に触れておられるが、これはもうDIYでもしなければ文章製作に追いつかなかったのであろう。おそろしや。
……と、このように型にはめられたものはとことん書きにくいと思うわたしなのだが、一方で≪じゆうちょう≫も物語筆記用にはしていない。ずぼらでめんど臭がりなくせに、まっすぐ文を書けないのは嫌なのである。右肩上がりになる自文が許せない。
ちなみにわたしは、横向き文で書いている。高校までは現代国語や古典で通常の大学ノートをたて使いしていたものだが、今どき高校生もそうやって使っているのだろうか?
本はたて書きで読むことばかりなのに、筆記がよこ一辺倒というのも不自然かもしれぬ。しかしたて使いは利き腕右手の手刀部分(? 呼称がわからない、小指の下のおにく一帯のことを指したい)が真っ黒になるので遠慮する。
そんなに汚くなんてならないよ? と不思議に思われる方は、HやHBの鉛筆・シャープペンシルをお使いなのではなかろうか。わたしはBと2Bばかりなので、粉がこすれやすいのだ。
筆記具については、ボールペンや万年筆ではなく、そういう濃ゆいめの鉛筆およびシャープペンシルを利用している。
今は実家から大量に出土した、年代ものの鉛筆を使いまくって消費しているのだが、どうしてこう日本の文房具というものは書き心地がよいのだろう。
海外製の鉛筆とは、紙面の滑り方がまるで違うといつも感じる。
日本人の書く字に特化したものを、メーカーが切磋琢磨して開発してくれているからだろうか?
確かに、横文字アルファベッツを書く時には、ビッ〇のボールペンがすいすい爆走しやすいこともある。しかしそもそも他国の皆さまは筆記中、ここまでの生理的快感を覚えるものなのだろうか?
販促用のボールペンや鉛筆でも、とことん書きやすいものを提供される日本という国にいるとわかりにくい。しかしこういった文房具にかけるこだわりは、おそらく日本人特有のものではないか、とわたしは思う。
お前は廉価なものしか使ったことがないからそう思うのだ、高級ブランドの特上万年筆を試してから言え! とお叱りを受けるかもしれない。
たしかに海外メーカー品でも、お高いものはすばらしい書き心地なのかもしれぬ。
だがわたしがここで強調したいのは、小学生や節約主婦のおこづかいで楽々買える廉いものが、これだけ書く喜びを与えてくれることへの驚愕なのだ。
気づいていない人も多いと思うが、これはまちがいなく幸運なことである。
電動鉛筆削りでけずった鉛筆を、さらに手動えんぴつ削りにてぎんぎんにとがらせて右手に握る。
ノートを開き、昨日の続きを書き始める。
物語の氾濫がとめられず削れない時は、先の丸まった鉛筆からシャープペンシルに握りかえてとことん書く、かく、書きつくす。
『お前はお前の世界を書け』
『文字おこしは俺らに任せろ』
彼らの書き心地の中に、そういう応援の声をいつも聞くような気がする。
妄想?
呼び方は人それぞれ、わたしにとっては幸せでしかない。
わたしが書き続けられるのは、間違いなく文房具たちの力のおかげだと信じている。
そういうものに支えられる時間は尊いし、いとおしい。
だから何があっても毎日わたしは机に向かってしまうし、ノートをひろげて白紙の罫線地平をじーと見つめるのである。ひとりではない。そう、わたしは一人で書いてるわけではないのである。
書く物語を頭の中にもらえて、それを形にするのを応援してくれるものが手中・机上にある……。これを幸せと呼ばずに、なんと言ったらいいのだろう。
だから文房具で物語を書くのが、わたしはとてつもなく好きだ。
【終:次回へ続く】




