第9話 様子がおかしい彼
今日のタスクを全てこなし、私は膝を抱え、ホッとした気持ちでソファに座り込む。
凱斗の部屋から見える東京タワーの明かりをぼんやりと眺めていると、ぽつりぽつりと雨が降り始めた。
…あんなところで、凱斗に会うとは思ってもみなかったな。
前日、確かに凱斗は、今日大手町で会食があるとメッセージをくれた。
資本提携に関わる重要な顔合わせで、大手町タワーの高層階の懐石料理のお店に行くって…。
凱斗の会社は、既に注目を集めている成長企業だ。
次のステージに行くための「資金調達」や「事業提携」を話し合うためだろう。
あの場所に佐田さんもいた…瀬島さんと小野寺さんも…
彼らは凱斗の会社の役員の人たちで、凱斗が最も信頼を置く三人だ。
きっとあの四人で、メガバンのVCから接待でも受けてたのかな…。
なんか…凱斗ってすごいや。
それに比べて…私は自分の仕事で手一杯。
毎日メイクを落とす気力もなく、スーツのまま部屋でソファに崩れ落ちる。
資料作成、会議、クライアント対応…タスクは山積みで、決してミスは許されない。
今「やるべきこと」なら山ほどあるのに、「やりたいこと」が全然思い浮かばないって…。
冷蔵庫を開けても、そこにはヨーグルトと水だけ。
私、この生活、いつまで続けようか…
凱斗からのLINEも、既読のまま返せていないことが多々ある。
会いたいと思っているのに、仕事がそれを許さない。
むしろ、会う時間を確保できない自分にイライラしている。
土曜の朝にも会議がある。
“急ぎの資料が…”“急ぎのメールが…”って、その言葉で、何度も自分の感情を後回しにしてきた。
――私…こんなに頑張って、何を得てるの。
会社で評価されること?
キャリアの階段を登ること?
…それとも、忙しさで何も考えずにいられること?
≪誰かに甘える暇があるなら、次の案件に備えておけ!≫
頭の中で、上司の阿東さんの声がリフレインする。
でも、たまには…
誰かに「もう頑張らなくていい」って言ってもらいたい…
窓の外には、東京タワーが光っている。
凱斗は東京タワーで、私はまるで、誰の目にも映らないネオンの一つみたいだ。
――私の時間って、一体どこにあるんだろう。
胸の奥に、小さなため息が溜まっていく。
あの頃夢見た“かっこいい女性”って、こんなだった?
私は、あの頃自分が何に憧れていたのかさえ、もう忘れかけていた。
その時ふと、携帯が震えた。
『花凛?家いないの??ごめん、寝てるかな?』
それは親友の神崎璃子からの電話だった。
「あ…今、凱斗んちなんだ。」
『えっ?今日相楽氏と、ご飯行くって言ってなかった?』
「そのバルで、偶然会ったの。凱斗も大手町で会食だったみたい。」
『ふぅん…。そっか。』
「それより、どうしたの?」
『あ…家にいないならいいや。』
「大丈夫?」
『今…アオと大喧嘩して家出て来た。近所だし、花凛の家に泊めてもらおうと思ってたんだけど…。』
「ごめんね…。」
『全然いいよっ。』
「何で、アオくんと喧嘩なんてしたの…。」
『だって、アオのやつうっるさいんだもん!後輩で居候のくせして、まるでお母さんみたい!小姑だよあれは!マジムカつく!』
「謝って、家に帰りなよ…」
『なんで私が謝るのよ!花凛、家にいないなら、今から戻って、あいつを追い出してやるわ。反撃に出てやる。じゃ、またね!』
「あ…気を付けてね」
『ありがと。また連絡する。凱斗によろしく!』
神崎璃子は、私の高校時代からの親友で、凱斗のこともよく知っている。
彼女は広告代理店で働いていて、会社の後輩「アオくん」と同居していた。
数日前、アオくんこと芹沢碧空くんの、マンションの隣の部屋で爆発事故が起き、当初彼は、補償会社が用意したホテルに滞在していた。
だけど、その保証期間が過ぎたのに新しい部屋が全く見つからず、仕事で常にペアで動いている璃子の、3LDKの家に目をつけて、“どうせなら一緒に住んだ方が便利ですよね”と言って、転がり込んできたらしい。
≪アオはペットみたいなものよ!こき使ってやる≫って…最初は璃子そう言ってたのに…
「大喧嘩って…大丈夫なのぉ…。」
私は凱斗と大喧嘩なんてした事ないな。
したらそれが、最後なんだろう。
アオくんは璃子の彼氏じゃないから、家を出て行こうが喧嘩しようが平気なんだな…。
そんな事をぼんやりと考えていたら、徐々に瞼が重くなってくる。
凱斗…“寝るな”ってそう言ってたけど…
「ごめん…眠すぎる…。」
私はこらえきれずソファに横になり眠ってしまった。
それからぼんやりと、何か夢を見ていたような気がする…
相楽君が夢の中でミスしてた。
クライアントとのZoom中に、資料を共有すると…なぜか温泉の画像がドーン。
「あ…あれ?ちょっと間違えました」って焦ってる相楽君…
私が真顔で「……で、これは、財務計画の一環ですか?」って答えてて、後から二人で爆笑。
笑い過ぎて、二人で涙流した。
「俺、マジでビビった!」
「あれはさすがに、ダメだよぉ……相楽君。」って…
絶対ミスしない相楽君がミスするとか…。
和やかな…仕事の夢だ…。
仕事がいつも、あんな感じなら楽しいのにな…。
―――気が付くと私は凱斗の寝室で目を覚ます。
まぶたの奥が、ほのかに明るい。
カーテンの隙間から射し込む朝の光が、瞼を優しく押し上げるようだった。
――こんなにぐっすり眠ったのは、いつぶりだろう。
ふと深呼吸をすれば、空気の中にほんのりと漂う香りが鼻をくすぐった。
LE LABOの「Santal 26」。落ち着いたサンダルウッドの香りだ。
凱斗の部屋は、どこまでも“整って“いた。
白を基調にしたファブリックに、グレーやチャコールのラインが効いたモダンなベッド。余計な装飾のないシンプルなサイドテーブルには、スピーカーとシルバーのアロマディフューザーが置かれている。
14畳はある広々とした寝室は、無機質になりすぎない絶妙なバランスで、静かに上質な空気を纏っていた。
私はシーツの中で軽く伸びをしながら、ゆっくりと目を開けた。
――リネンの肌触りが、とても心地いい。
起き上がり、部屋をぐるりと見渡すと凱斗は……いない?
昨夜、確かシャワーを浴びに行くと言っていたけど、それから記憶が無いや。
そのままリビングで仕事でもしていたのかな。
ベッドの横のデジタル時計は、すでに朝7時を過ぎている。
カーテンの外では、静かに週末の東京が目覚め始めていた。
ベッドを出て、足元にふわりと広がる毛足の長いグレージュのラグに素足を沈めながら、私は寝室のドアを静かに開けた。
廊下を抜けてリビングへ向かうと、窓から朝の光が柔らかく差し込んでいる。
見れば凱斗が、ソファで寝ていた。
大きな黒いL字型のソファに、無造作にグレーのブランケットをかけ、大きな身体を少し丸めて横たわっている。
肩から落ちかけてる、そのブランケット。
長い足はソファの肘掛けに少しはみ出していて、寝苦しそうに眉間にほんのわずかな皺を寄せていた。
それでも、凱斗の寝顔はどこか無防備で、少年のようだ。
「……なんで、こっちで寝てるの?」
思わず口をついて出た声は、呆れと、少しの胸の奥の温かさが混じっていた。
パーカーのフードが半分めくれて、髪があらぬ方向に跳ねている。けれどその姿すらも、なんだか愛おしく思えてしまうのが、切なかった…
私が…好きでいていいのかなって…。
近づいて、そっと彼の頬に触れる。
「……凱斗?」
声をかけても、彼はわずかに眉を動かしただけで、起きる気配はない。
寝息が静かに、その胸のあたりを上下させていた。
――こんなふうに寝落ちするなんて、よっぽど疲れてたのかも。
あんな時間まで私の仕事に付き合わせてしまったと、少しだけ罪悪感を覚えながら、凱斗の寝顔を見て、ほんの少し胸がぎゅっとなる。
きっと、私よりずっと、彼の方が疲れてるよね。
凱斗の方がずっと責任もあるし、大変なんだから…。
そんな風にぼんやりと凱斗の寝顔を見ていたら、彼がゆっくりと目を覚ます。
「……ここで寝てたの?」
「うん…寝室行こうと思ったんだけど、考え事してたらなんかそのまま…」
「風邪ひいちゃうよ?」
「お前が言うか、それ」
凱斗はそう言うと、あくびを一つして立ち上がり、大きな掌で私の頭をくしゃっと撫でると、そのままキッチンに向かった。
彼にはこだわりがあり、朝は”ポワンタージュ”のパンをトーストし、自分でコーヒーをドリップすることだ。凱斗の部屋に泊まった時は必ず、私の分も用意してくれる。
そんないつもの、お泊りの朝の光景を眺めながら、私はダイニングテーブルに座り自分のスマホのチェックを始めた。
それからすぐに相楽君から電話がかかって来て、10分後にZoom会議。
土曜の朝でも気が抜けないのは当然と言えば当然で、私は10分で身支度を済ませるとノートPCをセットし身構える。
Zoom会議が終わったら、私はやっと朝食を口にできた。
「冷めたから、コーヒー淹れなおしてやるよ。」
「あ…いいよ別に。レンチンする。」
「あー、そんなのだめだ。香りも味も変わるだろ。」
「……。」
「そっち座れよ。お前はクロワッサン食べろ。」
「クロワッサンもあるの?」
「お前、クロワッサンの方が好きだろ?ゆで卵も食べろ。ほら、ヨーグルトも。」
「うん…。」
ダイニングテーブルに座って、私は東京タワーを眺めながら、クロワッサンをちぎって口に運んだ。
バターの香りを纏った羽の様な味に思わず微笑む。
凱斗が淹れなおしてくれたコーヒーも沁みるようだ。
はぁ…ささやかな幸せ…。
普通の朝ごはんに、癒される。
「おいしい…。」
そんな私の事を、凱斗は体をこちらに向けて隣に座り、肘を付きじっと見ていた。
「何?」
「なぁ…相楽だけど…。」
「相楽君?」
「いや、あいつ…花凛に気があるのかもな。」
「えっ??」
思わぬことを凱斗の口から聞き、クロワッサンが詰まりそうなほど動揺した。
それを慌ててコーヒーで、一口流し込む。
今まで、気にもしてなかったよね?相楽君の事…
さっきここで、Zoomしてたから?
ううん違う…もしかして、昨日本人見たからなのかな?
確かに昨日の凱斗はおかしかった。
急に私の事連れて帰るし、ここに来るまでめちゃくちゃ怒ってたし…
プライドが高いのは知ってるけど…
でも凱斗は、私にヤキモチなんて絶対妬かないはずだ。
いつも自信があって、気にしてるのなんて私だけで…
「何、動揺してんだよ。」
「え…してないよ。変な事言うからだよ。」
「変な事?だってあいつ、さっきお前の事“花凛”って呼び捨てにしてたじゃん。」
「あぁ…それ…。」
「なれなれしいんだよ。」
「うちの会社に桜庭さん二人いるの。しかも同期で。」
「え?」
「だから、先輩とかには桜庭1とか桜庭2とか呼ばれたりもするけど、相楽君は同期だから私達の事分ける時、花凛、湊って下の名前で呼ぶんだ。」
「……」
「さっきも途中で、一瞬Zoom入ってきたのね。桜庭君。」
「……。」
「私は湊君って呼んでんの。」
「はぁ?」
「なんなのぉ…。」
なんだか今日の凱斗おかしい…。
「桜庭君は、たしか彼女いるよ?」
凱斗はそれを聞くと、「ふぅん…。まぁそんなのどうでもいいけど。」とつぶやいて時計を見た。
9時から打ち合わせするから、それが終わったらランチに一緒に行こうって。
「ランチか…。一回着替えに戻りたい。」
「あぁ。じゃあ俺が今日そっち泊まろうかな。」
「え?」
「決めた!そうしよ。じゃあ、書斎で会議してくるからお前ここで遊んでろ。
冷蔵庫の中好きに食べていいから。」
そう言うと凱斗は上機嫌でリビングを後にした。
「変なの。」…