第8話 ヤキモチが止まらない
…そっと離れた唇。
もうほとんど夢の中にいるような、そのぼんやりとした花凛の視線に、俺の理性がグラグラと揺らぐ。
「…髪乾かさないと風邪ひくよ…。」
少し掠れた眠そうな声でそうつぶやくと、俺を見つめる瞼がゆっくりと閉じた。
あぁ…
頭の中の二人の俺が、言い争ってる…
≪久しぶりなんだしいいじゃん、明日休みだろ?起こしちゃえよ!≫
――ちょっとくらいいいか…今一瞬起きたよな?
≪ダメだぞ凱斗!花凛は疲れてんだ。寝かせてあげるのが男だろ!≫
――花凛の睡眠時間が、破壊的なのは俺も、百も承知だ。
やっぱここは…
≪いやいやいや…ちょっとくらい平気だって。≫
――ちょっとじゃ…俺済まなそうだしな…。
≪男として最低だよそんなの!思いやりの欠片もない!≫
――そうだ…思いやりだ…
≪いいじゃん!いいじゃん!起こしちゃえよ!今度次いつできるかわかんないぜ?≫
って…
ダメだ…花凛は疲れてるのに、そんな欲望のままに…俺…
迷っているうちに、寝息を立てだした花凛を悶々とした目で見つめ、俺は深呼吸をして息を整える。中途半端な事しなきゃよかった…
こいつ…俺の気持ちなんて微塵も知らず…
「…ダメだよぉっ…。…相楽君…。」
「は?」
今なんて言った?
その声に俺は思わず、膝立ちになり目の前の花凛を上から見降ろす。
何?これって寝言かよ?
寝言でも相楽の名前??
なんだそれ。
「おい。」
俺は思わず、右手で花凛の肩をゆする。
彼女は起こされて夢と現実の境目が曖昧なまま、重い瞼をゆっくりと開いた。
「…あ…凱斗…シャワー終わったの…。」
「は?」
さっき一瞬起きたよな?髪乾かさないとって言ってたし。
「今何時…。」
「三時。」
「え…あ…ここで寝ちゃってた。」
「寝言、言ってたよ花凛。」
「…えっ…。」
「……。」
「そっか。」
何が“そっか”だ。オレ何にも答えてないし!
花凛は、起こされてゆっくりと立ち上がると、そのまま俺を無視して寝室の方へふらふらと歩いていく。
俺は、それを黙ったまま呆然と見送った。
そのまま勢いよくソファに腰を下ろすと、高速で頭の中を整理する。
「うーん…。」
口元に手を運び、よーく考えてみる。
花凛は、さっき目を覚ました。
俺に、髪乾かせって言ってたよな?
それから俺がキスして…その後花凛は、あいつの名前を寝言で言い…
―――≪…ダメだよぉっ…。…相楽君…。≫
な…なんだ…あの色っぽい声の寝言は…相楽夢の中で何してんだ…
やっぱり俺の直感は、当たってる。絶対にあいつは怪しい…
花凛は同僚の事を、普段「さん」付けして呼ぶ。
だけどあいつの事だけは、ずっと「相楽君」なんだ…
同期だからなのかなって、そう思ってたけど…
ダメだ…
相楽が頭から離れない…
そんな事を延々と考えてたら、俺はいつの間にかソファで寝落ち…
寝室から出てきた花凛が、ゆっくりと近づいてくる気配で目が覚める。
気がつけば土曜の朝が来ていて、どうやら俺はソファであのまま寝たみたいだ。
花凛に掛けたブランケットはずり落ちて、体の芯が少し冷えていた。
「……ここで寝てたの?」
寝起きの彼女の声は、少し鼻声で甘い…。
俺は身を起こし、右手で前髪をかき上げた。あれから濡れたまま寝たからボッサボサだ。
「うん…寝室行こうと思ったんだけど、考え事してたらなんかそのまま…」
「風邪ひいちゃうよ?」
「お前が言うか、それ」
まだ眠そうな花凛の髪に、変な寝癖が付いているのを見て笑いそうになった。
それから俺は、立ち上がってキッチンへ向かい、冷蔵庫から食パンを出してトースターに入れる。いつもの朝のクセで、ドリップでコーヒーを淹れる準備をしながら、花凛の方をちらっと見た。
テーブルに座った彼女が、スマホの画面を見つめている。
時刻は朝7時25分。――その時、スマホが震えた。
彼女は一瞬だけ顔をしかめて、それから応答する。
「……はい、桜庭です」
俺は無言でドリッパーにお湯を注ぎながら、その様子を横目で見た。
――土曜のこんな朝っぱらから、一体誰だよ。
電話越しの声は聞こえないけど、花凛の表情でだいたい予想はついた。
…相手は相楽だ。
あの、同期のコンサル野郎。
案の定、花凛の口からすぐにその名が出る。
「……うん、分かった。10分後にZoom、入るね」
スマホを置いた彼女が、深く息をついた。
「……仕事?」
「うん。昨日動かなかった案件、急に動いたって」
「……へぇ。お前んとこの相楽くんも、働き者だな」
皮肉が混じるのを自覚しながらも、抑えられない。
花凛はそんな俺の態度に気づいたのか、少しだけ目を伏せた。
「ごめんね。せっかくの土曜だったのに」
「いや……いいけど。別に。仕事だろ?」
「凱斗も自分の仕事して?」
「……。」
あぁ…またこうやってすれ違っていくんだ…
同じ部屋にいるのに、心の距離が少しずつ開いていく感覚がある。
それが、またあいつのせいとか。
朝食の準備をしながら、俺はふと思う。
相楽って、どんな顔して電話かけてんだろう?
土曜の朝の、こんな時間に。
まぁこっちは、花凛の寝起きの顔を独り占めできるだけ、あいつには勝ってるけどな。
それからすぐに、トーストが焼き上がる「チン」という音が、キッチンに小さく響く。
バターを塗って皿に乗せる頃には、花凛はノートPCを開いて、ダイニングテーブルの前に姿勢を正していた。
長い巻き髪をざっくりと片側に流し、白いブラウスに黒のスカート。
画面越しに微笑むその姿は、完全に“仕事モード”の桜庭花凛だ。
薄くメイクを整えただけの素顔が、逆に艶っぽい。
「おはようございます、資料共有しますね」
相変わらず、仕事の時は理知的で落ち着いた口調だ。
にこやかで、穏やかで、それでいてどこか隙がない。
その感じが、俺にはちょっとどこか違う人に見えた。
背を伸ばす花凛の背中を、キッチン越しに見つめながら、俺はコーヒーと、トーストを乗せた皿を手に、そっとソファに移動して腰を下ろす。
Zoom越しの相手は、こちらからは当然見えない。
けれど、その声の向こうにいるのが相楽だと思うだけで、胸の奥がざわつく。
相楽は、今同じ案件を花凛と担当してる。
だからこうやってしょっちゅう連絡が来るのも、仕方ない。
早朝や深夜のZoomで気軽に“詰め作業”は当たり前だ。
今まであんま気になってなかったのに…
昨日、実物のあいつを見たからか?
一番近くにいるのは、俺のはず。
隣で目覚めの顔を見て、コーヒーを淹れて、ふとした時に名前を呼べば、胸がきゅっとなるのは俺なんだからな!
けど花凛のやつ――仕事となれば、俺の存在なんて、まるで無色透明だ。
「その件だけど、クロスチェック、明日までにやっておくね。」
花凛の声は落ち着いているけど、相手に一瞬見せる柔らかな表情が、どこか引っかかる。
俺がいないところでも、こんなふうにあいつに話してんのか。
優しくて、冷静で、話が噛み合って、信頼し合って――って
そんな「仕事のパートナー」が、いちばん厄介だってことくらい、俺でも分かる。分かるけど…
その時思い出したのは、なんとなく開いたSNSで、花凛と相楽が並んで写ってる懇親会の写真。
そう言えば、あの時あいつと肩組んでた。”誰だよこいつ”って思ったけど、今思えばあれが相楽だった。
ったく。同期って、便利な言葉だよな。
隣にいても不自然じゃない。
相談しても、おかしくない。
そう言えば花凛、俺との写真なんて一枚も載せてなくないか?…
俺はイラついて、手元のカップのコーヒーを一気に流し込む。
―――その時だった。
≪…じゃ、それ花凛に頼むよ…。≫
は??
今なんて言った?
相楽のやつ、“花凛”って呼び捨てにしなかったか??―-花凛?!
俺は咄嗟にソファの背に肘をついて、花凛の肩越しにパソコン画面を覗き込む。
すると、画面の一角に映った相楽の笑顔が、俺の視界に入り込んできた。
……なんでお前が、そんな顔で笑ってんだよ。
舌打ちしそうになったのを、ぐっと堪える。
別に花凛が、目の前で浮気してるわけじゃない。
信じてる。いや・・・・信じたい…
でも、“仕事”っていう名のもとに、あいつに何でも許されてるのがムカつく。
そこに入り込めない自分が、もっとムカつく…。
相楽とのZoomが終わる頃、コーヒーの温度は、気づけばぬるくなっていた。
「あ……もう、Zoom終わった?」
「うん。ごめん、土曜なのにバタバタで」
花凛はいつもの声で笑ったけど――
その笑顔が、相楽にも向けられてたかと思うと…チッ。
ってか…俺一体どうしちゃったんだろ…昨日あいつを見てからだ。
こんなガキっぽい俺の本心…花凛にバレたらやばい気がしてきた。
その時、俺のスマホに朔からLINEが入ってくる。
≪ごめん。オレ寝てたわ。≫
≪そんなの…あの時間だしわかってるって…朔…俺、昨日相楽実物見た≫
≪相楽?あの花凛の同期の?≫
≪今朝もあいつとZoom…≫
≪え?花凛お前んちいるの?≫
≪いる。≫
俺はここで、サルが万歳してるスタンプ押すっと…
思わずにやける。そうだ。花凛は俺の部屋にいるんだ。相楽なんて休日だと会えないもんな。
その時俺は、花凛がどんなこと考えてるかも知らないで、朔と普通にLINEをしていた。