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第7話 俺の隣は君だけ

シャワーを終えた俺は、ジェラピケのジェラートロングパンツとパーカーに、バスタオルをひっかけてリビングに戻る。


これは、花凛(かりん)とペアのルームウェアだ。



少し子供っぽい気もするけど…花凛好きだからな、ジェラピケ。



頼むから、熊とかやめてくれって言って、一応シンプルなものを二人で選んだ。



まだ濡れた頭を拭きながら、冷蔵庫に向かい、冷えたペットボトルの水を口に含む。


ふと時計を見れば、もう二時半だ。


疲れた花凛は、薄暗い照明の中、ソファで丸くなりすっかり眠ってしまっていた。



淡いピンクのジェラピケに包まれたその姿は、まるで柔らかな毛布にくるまれた小さな猫のようだ。



どうしようもなく愛おしくて、今にも抱きつきたいけど…それは我慢だ。



「…寝るなって、言っただろ…。」


俺は苦笑いしながら、花凛にそっとブランケットを掛けてやると、明かりをつけずに、ソファの前のラグの上に静かに腰を下ろす。



そして、そこから目の前に広がる夜景と、東京タワーをぼんやりと見つめた。


気づけばいつの間にか、外は雨が降っている。



思わず漏れる、小さなため息―――


新しい男の存在が、こんなにも自分を動揺させるって、思ってもみなかった。



大学の頃俺は一度、花凛に告白しようと思った事がある。


だけど入学してすぐ、ダブルディグリープログラムでアメリカ留学に二年行くことが決まり―――


戻って見れば、花凛には男がいて…それが元カレの黒瀬亨(くろせとおる)だった。



相楽(さがら)は、黒瀬になんとなく似てる。


なんだろ――顔って言うか…雰囲気?…最初に相楽を見た時そう思った。




耳元で聞こえる花凛の寝息…



俺はもたれたソファにそっと振り返り、そこにある、眠る花凛の頬にそっと指先で触れる。


その柔らかな小さな温もりが、俺のざわついた気持ちを、じんわりと溶かしていくような気がした。


最近お互い忙しくて、あまり会えてなかった…。




久しぶりに間近で見る、花凛の寝顔。





眠っている時は、こんなに無防備であどけない…


「起きてる時は、この頭ん中、何考えてるのかさっぱりだけどな…。」








―――俺と花凛との出会いは、高校に入ってすぐの頃だ。




梅雨入り間近の、湿った風が蒸し暑く感じる五月の昼下がり。


俺はその日、珍しく仲間とは群れず、一人で図書室に行った。



“中間テスト”ももうすぐという事もあって、席はどこもいっぱいだ。



一つだけ空いている席を見つけ、俺はそこに荷物を置く。


隣の席には、教科書と問題集が広げられてるけど、誰も座ってない。




「ここ、空いてるよな?」






そう独り言をつぶやくと、その奥にある書棚に向かい、並べられた本に目を通す。


制服のネクタイを少し緩めて、そこから無造作に引き抜いた本が「高校生の為の起業入門」。




―――こんなの、俺には関係ない。


そう思っても、手に取ったのは紛れもない自分だ。




その三日前、俺は父親と大喧嘩した。


―――跡を継ぎたくない。


…そう言ったからだ。






俺の祖父は、一代で日本を代表するゼネコン「アークス・ホールディングス」を作り上げたカリスマ経営者で、父はその二代目だった。




そしてその長男の俺には、三代目が約束されていると誰もが信じて疑わない。






この頃、俺は自分の力で何かをやってみたい――そう思い始めていた。


でもそんな俺に、周りの反応は、思っていた以上に冷ややかだった。


友達には二代目、三代目はザラ。


「そんな面倒な事しなくていいじゃん」とみんな口を揃えて言った。


当時付き合っていた二つ年上の彼女にも、「“胡蝶凱斗(こちょうかいと)”じゃなくて、ただの“凱斗”になっちゃうよ。」って笑われた。




分かってもらえると思っていただけに、あの反応は正直ショックだった。


祖父の会社がないと俺自身は無価値だ、と言われた気分だったからだ。




その本を手に取り、俺はもっとその奥の書棚に足を運んだ。




すると目の前の、書棚と窓の隙間の通り道に花凛がいて、熱心に「メトロポリタン美術館」の大きな写真集を眺めている。




同じクラスの桜庭花凛―――男の間では“可愛い”と噂になっていたけれど、うちの学校に高校から入学してきたあまりなじみのないやつだ。




「あ、ごめん。通れる?」


そう言って、俺から身を避ける花凛。




だけど、その手に持っている“デカい写真集”が邪魔でしょうがない。


その時俺は、自分が持っていた本を、不意に落としてしまう。




咄嗟にそれを拾おうとした花凛がしゃがんだ瞬間、そのデカい写真集が俺の腹を直撃した。




「いてっ。」


「あ!ごめん!」

今度は慌てて立ち上がろうとした花凛の頭が、俺の顎を頭付きする。




「っつ!!」




それが痛いのなんのって…思わず舌まで噛みそうになった。


マジで痛くて涙目になってたら、花凛はおろおろと覗き込む。




「だから…お前のそれが邪魔なんだって…。」




「え?あ…。」




「席で見ろよ、それ。」




そう言ったら、しゅんとなって「そうする」って言った花凛は、とぼとぼと自分の席に戻っていった。




その後少しして、何冊か”起業“や”IT”の本を手に自分の席に戻ると、隣が花凛だったことに驚く。


俺が荷物置いた時には、彼女の姿はなかったからだ。






花凛は、そこでは写真集を見ずに、ちゃんとテスト勉強していた。




「…隣、胡蝶君だったんだ…。」




「……。」




俺は黙ったまま席に着くと、花凛に境界線を引くように、持って来た本を間に置く。


またこいつかと、正直ウザく感じた。




「起業?」


「見るなよ。」


俺はそう言って、その本を今度は反対側に置き直す。




花凛は気を使ってか、小さな声で話かけて来た。


「起業、いいね。」


「は?」


「だって、胡蝶君向いてそう。」


もっと話してみたいって…そう思った。


「おい…。」


「え?」


「何で、法学部行かないんだよ。」


「あ――…それ気になるとこ?」


「気になる。だから言えよ。」


「えっ?あ…えっと…お父さんが弁護士だから。」


「別にいいじゃん、親弁護士でも。」


「お兄ちゃんも法学部だから。」


「……。」


「比べられたくないの。私は私だもん。」


「……。」


「じゃあ、何するんだよって言われちゃえば、まだ良くわかんないから、とにかく法学部には行かないって決めてあるの。」






そう言いながら、結局花凛は法学部に行った。




―――「せめてもの反抗が、法律学科じゃなくて政治経済学科だった」って、花凛と同じ学部の(さく)から、後になってそう聞いた。






「あのさ…例えばだけど…もしもさ、俺が芸能人なりたいって言ったらどうする?」




そうゆるっと聞いてみた。


起業したいってマジで言うより、冗談として取ってくれそうだったから。




「え…。それ本気?」


花凛はそう言うと、俺の頭の先からつま先までをまじまじと見る。





「……。」




そう一言いうと、自分の勉強に集中し始める。


その横顔をじっと見つめてから、俺はその本を手に取った。




俺が、起業が向いてる?適当なこと言うな。…ってそう思った。


でも、このところモヤモヤしていた俺は、思わず聞いてしまう。




「なぁ。」


「ん?」


「お前、将来の事とか決めてる?」


「私?」


「あ…まだわかんないか。高1だもんな。」




「決めてるよ。」


「え?」


「海外留学して、英語話せるようになって…絶対法学部に行かない事!」


「なんだそれ。」


「胡蝶君は?あ、もしかして起業とか?」


「……いや…。」




「違うの?なーんだ。」




「なーんだ。って…。」




「だって、自動的に『胡蝶組』継がなきゃとか嫌じゃない?」




「胡蝶組じゃねーし。」




そう俺がムキになって大きめの声で言ったら、周りがしーって一斉にこっち見る。


すると花凛はその時、肩をすくめて笑った。




俺はそう言いながらも、初めて“会社を継ぐことが嫌じゃないか”って聞かれて、胸の奥がツンと温かくなるのを感じる。


「まぁ…芸能人って見た目だけじゃないと思うよ。演技とかできるの?胡蝶君。」


「……。」


「あ、歌?みんなでバンドでもしてるとか?」


「いや…。」


「一番甘くないと思うの。芸能界って。」




なんか…俺、スカウトだって何回もされてるし、周りのやつらには今まで、凱斗ならイケるって散々おだてられてきて…


こんなこと、言われたの、初めてだ。




しかもマジに取られて…恥ずかしいしかない。

聞かなきゃよかった…




「それよりさ、ここ分かったりする?」


「え?」


「文字定数を含む2次関数」


「あぁ…これはさ…。」


俺が花凛に聞かれた問題を、簡単に解いてやったら、彼女は驚きで目を丸くした。


俺は元々理系行くつもりだったし、数学は超得意だったからだ。




数学が苦手だと言う花凛が、立て続けに聞いてきた問題を、俺はいとも簡単に解いてやった。


得意気になった俺は、「わかんないところがあったら聞け」と、自ら自分の連絡先を花凛に教える。


この時LINEと番号を交換して、良く話すようになったけど、それは夏には繋がらなくなった。



でも、俺の背中を押してくれたのは、この頃の花凛だ。






花凛はアメリカに留学し、戻ってきたのは高三の夏休みが明けてから。


俺は理系だったから別のクラスだったし、卒業までの数か月はあっという間。




高校生活では、接点はあまりない。




それから大学に入ってすぐの夏、今度は俺がアメリカに行き、戻ってきた時には…


―――花凛の隣には黒瀬亨(くろせとおる)がいた。




花凛の事は、ずっと気にはなっていた。




目の前にふっと現れたと思ったら、いつの間にか余韻だけを残していなくなって…


そしてまた現れる。




俺が起業しようとした時もそうだ。学食で偶然あって、後にも先にも大学で一緒に食事したなんてあれが最初で最後だった。




あの時も、「胡蝶君ならできる」って背中を押してくれたのは花凛だ。



それからあっけなく黒瀬と別れたと聞いて、連絡しようかと迷っていた。


だけど、インスタに急にDM送るのもキモいし、かといって花凛の親友神崎に聞くのも女々しい気がしたし…


一番嫌なのが、朔から聞いたとかって連絡する事だ。


迷ってるうちに俺たちは、大学を卒業してしまった。


それから再会して、告ってって…やっとうまく行ったと思ったら、今度は花凛が浮気とか…




「はぁ…。」





そんな事をぼんやりと思い出していたら、ふと俺のスマホに誰かがメッセージを送ってくる。


――――高城誠二…≪こんな時間にごめんなさい♡予定が決まったら連絡します♡早く会いたいわ♡≫


「チッ…。」


なんだよこれ。たかが取材のメールに、意味深に絵文字使うな。花凛見たらどうすんだこれ。


どうせ夜中に飲んでて、思い出してメールしたんだろ。


この編集長、男のくせにいっつもこんなだ。経済紙なのに大丈夫なのか、ここ。


この間も、焦ったんだよな…



花凛帰った後、このおっさんの


≪次いつ会えるかな?素敵な時間をありがとう♡もう会いたい♡≫


ってメッセージと、ファッション誌の40歳?くらいの男の編集長の


≪凱斗さんの香水の匂い、まだ残ってる気がするの♡彼女さんには、秘密にしてあげるね。≫


ってメッセージが二つ同時に入ってて、ぞっとしたし。


俺は今、女には全部規制線張ってんのに、男もかよ!って。


有名税とは言え、ある事ない事週刊誌には書かれるし、SNSだって変に匂わせる女が五万といる。



花凛が忙しくて、そんなの見てないのが唯一の救いだ。


世の中に男いないのかよ?!


≪めっちゃ惚れてる女がいる≫って、こっちはどんだけ警戒してると思ってんだ。



なのに…

―――≪友達なの…。≫

―――≪凱斗も言っていいよ。友達だって。≫


「ありえない…っ!!」


あまりの苛立ちに、声を出さないようにして頭を抱えた時だった。


囁くような小さな声が、耳元で俺の名前を呼ぶ。




「…凱斗…。」


俺はそれに咄嗟に振り向き、少し焦る。


「あ…起こした?……ごめん、起こすつもりなかったんだけど…。」


「スマホの音で目が覚めた。」




俺のとこに来たおっさんの通知、自分のスマホだと思ったのか…。




仕事の事考えすぎだろ…。


それからゆっくりと左手を伸ばし、花凛の前髪をそっと指先で撫でてやった。


「…お前…こんなとこで寝たら風邪ひく…。」




まだ眠そうな潤んだ目が、ぼんやりと俺を見つめる。



「髪…まだ濡れてるよ…。」



そう言って右手をそっと俺に伸ばし、指先で俺の前髪をそっと除けた。


そんな彼女の緩く開いた唇に…俺は思わず視線を落とす。


今日は…寝かせとこうと思ったんだけどな…



「花凛…。」




自分でも、驚くほど優しい声になった…。




「乾かさないと…。髪…」


そう言った花凛に、俺は返事の代わりに唇を重ねる。




俺の最初のキスは息を探るように静かだった。







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