第63話 私は私の夢を追う
台湾出張から帰って来た週の、金曜日。
会議室の窓から差し込む午後の光が、長時間のディスカッションで散らかった資料の上に落ちている。
私が一息つこうと資料を揃えていると、阿東マネージャーがふと椅子から立ち上がり、私の方に視線を向けた。
「桜庭、少し時間あるか?」
「あ、はい」
呼ばれて隣に座ると、阿東さんはしばし沈黙した後、柔らかい口調で切り出す。
「桜庭は、このままここでリードを続けても十分活躍できる。でも……もっと大きな視野を得る機会を考えてみないか」
「……大きな視野、ですか」
「うちが提携している海外MBAプログラムの候補に、正式に君の名前を挙げようと思ってるんだ。語学力も実績も申し分ない。今のタイミングで挑戦すれば、三十前に確実にキャリアの幅を広げられる。この間渡した資料には、もう目を通してみた?」
心臓が、大きく跳ねるのがわかった。
驚きと同時に、胸の奥から熱いものがこみ上げてくる。
ずっと“いつかは”と考えていたことだ。
でも凱斗のことを理由に、自分の中で挑戦することにブレーキをかけていた気がする。
阿東さんは、私の顔を見て少し笑った。
「どうだ?もちろん強制じゃない。ただ、チャンスはそう多くはない」
頭の片隅に浮かぶのは、凱斗の顔。
彼と一緒にいたい、支えたい…ずっとそう思ってきた。
なのに私の心の中で、渦巻いていた不安。
その理由が、今ならはっきりとわかる。
凱斗のそばに居るなら、「好き」っていうその気持ちだけじゃ駄目なんだって…。
「私……行きたいです…」
自分の声が、震えているのがわかった。
けれどその言葉には、もう迷いはない―――
「いいのか?」
「行かせてください。私、挑戦したいです」
阿東さんは満足そうに頷き、手元のノートを閉じた。
「よし!そう来なくちゃな。準備は大変だが、桜庭なら必ず乗り越えられる」
その瞬間、胸の奥にじんわりと温かいものが広がって行く。
不安もある。
でもそれ以上に、“自分の道を選んだ”という確かな感覚。
相楽君が、背中を押してくれたおかげだ。
私はもっと、自分に自信を持った人間になりたい。
明日は凱斗に会う。
留学に行きたいんだって相談しようと思ってたけど、私の気持ちは決まった。
私は留学に行く。
会議室のドアに手を掛け、私は大きく深呼吸をして背筋を伸ばした。
――ようやく自分の口ではっきりと、言葉にして伝えられたんだ。
フロアに出た途端、ふわっと空気が軽くなったような気がした。
心の奥にこびりついていた重さが溶け、肩が自然と上がる。
こんな晴れ晴れとした笑みを浮かべるのは、いつぶりだろう。
「……桜庭?」
デスク前で待っていた相楽君が、私の顔を見て答えを待っているかのように目を細めた。
「決めたの。行くことにした」
そう言うと、相楽君は驚いたように目を瞬かせ――そして、大きく頷いた。
「……そうか!お前らしいよ!」
その声にこもった温かさが、なんだか胸に沁みる。
そのやり取りを耳にした同期の湊君が、すぐさま身を乗り出した。
「え、ほんとに?!やったじゃん!桜庭なら絶対いけるって思ってた」
「すごいよ、花凛。誇らしい」
周囲の先輩や同僚も、次々に声を掛けてくれる。
私が不安や迷いに押し潰されていた間も、ずっと支えてくれていた人たち。
彼らの笑顔が、じんわりと心に灯をともすようだ。
「ありがとう…頑張ります…」
声が震えそうになって、思わず笑って誤魔化した。
だけどこの胸の奥には、もう迷いはない。
凱斗と離れる事も。
星野さんの事で悩む私も…
私は、私の夢を追う。
その決意を、やっと心から誇れる気がした。
その日の夜―――
疲れた声の凱斗から、電話があった。
明日予定が合わなくなったから、今からは無理かって…
「私はいいけど…」
『ごめん…明日の朝も早くからオフィスに行かなきゃいけないんだ。
だから、もし今日でいいなら助かる』
いつもより覇気のない小さな声に、私は少し不安を覚えた。
あれから凱斗は何にも言わないけれど、会社は大変そうだった。
法的措置を取ったり、声明文を出したり…会社の株価も下落してるって…
そんな時、私の留学の話を聞いたら彼はなんて言うだろうか…




